どことなく物憂げな晩秋の夕刻、僕は狭い部屋の真ん中で横になっていた。せっかくの休日だというのに、この時期の空気はどうも憂鬱で、どこかへ出かける意欲も湧かない。

 頭上を見れば木目模様の天井が(ほこり)を被っており、自分が長年この部屋を使ってきたことを改めて感じさせられる。この部屋は僕が生まれた時から自分の部屋だったので、二十五年もの間この天井の下で生活してきたことになるのだ。

 それは同時に、僕がそれだけの時間をこの町で過ごしているということでもあり、何だか感慨が湧いてくる。

 しかし、昔と比べて町の様子は随分と変わったものだ。この家に近い大通りも昔は小さな店がせせこましく軒を連ねていたのに、今じゃスーパーやら百貨店やらが我が物顔で腰を据えている。

「あの頃は、楽しかったなぁ……」

 自ずと口から漏れ出たその呟きは、僕しかいない部屋に虚しく消えた。

 思えば、子供の頃は生活の全てが輝いていた気がする。別に今の生活に不満があるわけじゃないけど、最近は仕事の忙しさばかりが先に立って昔のような心の余裕は無くなってしまった。一体、僕はどうしてこうなってしまったのだろうか?

 長く連れ添ったこの部屋へ尋ねるように辺りを見回すと、机の上に置かれたカバンが目に止まった。開けっ放しの外ポケットからはみ出した小さな写真立ての中で、十五年前――十歳の僕が同級生に囲まれて楽しそうに笑っている。僕は体を起こし、その写真立てを手に取った。  

 この写真は学校の遠足で自然公園へ行った時に撮られたものだ。夏の照り付けを反射して青々と輝く若葉の中、三十人ほどの生徒たちが生き生きした笑顔で寄り集まっている。みんな懐かしい顔ぶればかりだ。

 その中で一人だけ写真から浮かび上がっているように、僕の隣で微笑んでいる少女の顔が目に止まった。彼女の名前は桐里(きりさと)(かずら)――僕の同級生、そして、僕にとって一番の友達だった女の子だ。

 

       *  *  *

 

 小学校三年生になって初めての登校日、僕らは出会った。

 初めてのクラス替えとあって周りはみんなはしゃいでいたけど、僕はいつもと同じように教室の隅で机に本を開いて読んでいた。本のタイトルは『身近な植物大全集』。重さで言えば教科書五冊分ぐらい。

 当時の僕はどちらかといえば――というより完全に――内向的な性格で、出来るだけ人と関わらずに本ばかり読んでいた。そして、そういう態度を取っていれば誰も関わってこないということも子供なりの経験則で知っていたのだ。しかし、そんな僕にとって予想外のことが起こる。

「あ、お花の本だね!」

 すぐ後ろから突然に声を掛けられて、僕は飛び上がらんばかりに驚いた。そしてどぎまぎしながら振り返ると、僕の肩を乗り越えるようにしてすぐ横に女の子の顔があったのでさらに驚いた。息が詰まりそうな程の近距離で、二つ括りにした栗色の髪が僕の頬にさわさわと当たる。

 僕はただ目をぱちくりさせるばかりで、何一つ言葉を返すことは出来なかった。ただでさえ人と話すことに不慣れな僕なのに、異性とあればなおさらだ。気恥ずかしさに黙り込んでいると、彼女は正面に回って僕の目を覗き込んだ。

「お花、好きなの?」

「う、うん……」

 彼女の透徹した瞳に見つめられて、僕は半ば勢いに押されるような形で頷く。しかし彼女は僕の答えに大満足のようで、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「へえ、ステキだね。わたし、葛っていうの。あなたは?」

「えぇっと、ぼくは(ひかる)、水仙寺光だよ」

 またしても彼女の勢いに乗せられて、雰囲気のままに自己紹介を済ましてしまった。煩わしさは感じなかったけど、どうも葛の勢いに押されっぱなしだった。

 性格は違えど葛も植物が好きなようで、僕の読んでいる本を隣から覗き見ている。すると葛は不意にページ上の写真を指差し、その下に記されている花名をたどたどしく読み上げた。

「これは、しろ、き……?」

「それは白木(はくもく)(れん)、ちょうど今の季節に咲いてると思うよ」

「なんだか、光くんって学者さんみたいだね」

 葛は感心した様子で頷き、名案が浮かんだとばかりに手を合わせた。

「光くん、お友達になろうよ! それで、いろんなお花のこと教えて!」

 元気良くそう言うと、葛は急に僕の手を取った。すると彼女の手から、驚くほど優しい温もりが伝わってくる。人の手というものは、こんなに温かいものだったのだろうか。僕はその手を握り返すでも振り払うでもなく、ただ呆然と固まっていた。

 僕が驚いているのが楽しいのか、葛は悪戯っ子のようにくすくすと笑う。まるでそよ風が吹き抜けてゆくような、優しい笑い声だ。

 そうしているうちに、授業開始のチャイムが鳴った。

「ねっ、放課後いっしょに帰ろう?」

 そう言って、葛は返事も待たずに自分の席へ走って行った。彼女が去った後も、僕は手に残った温もりと自分の激しい鼓動を感じていた。窓から吹き込む春風が本のページをめくり、ライラックの写真が開かれる。

 これが、僕と葛の出会いだった。

 

 その日の帰り道、僕たちは約束通り一緒に帰った。

 何気ない会話を交わしながら、二人並んで家へ向かう。葛の家は僕の家と同じ方向らしい。家に着くまでの間、葛はひっきりなしに話し掛けてきた。植物のこと、学校のこと、家族のこと、目の前を横切った猫のこと――とにかく色々なことをだ。僕が自分から話し始めることは無かったけど、消極的な僕にはそのぐらいで丁度よかったのかもしれない。

 葛と一緒に歩いたその帰り道はとても長いようなごく短いような、夢を見ていたみたいに不思議な時間だった。だけどやがて終わりが近付いて、向こうに僕の家が見えてきた。その家の玄関前に立った僕に、元気良く手を振りながら葛は去って行く。

「じゃあね、光くん」

「あっ、ちょっと待って……」

 思わず口をついた僕の言葉に、葛が足を止めてこちらを向いた。別に彼女を呼び止める明確な理由があったわけじゃないけれど、僕には今言わなければいけない言葉、今しか言えない言葉があるような気がした。上手く言い表せない想いを何とか伝えようと、僕は頭の整理も付かないまま口を開く。

「あの、えっと、明日も会おうね……」

 そう言い終えた時、僕の心臓は胸から飛び出しそうなぐらいバクバク言っていた。葛は少し驚いた顔で僕を見た後、満面の笑みで「うん!」と頷く。彼女が今日見せた笑顔の中で、一番輝いているような気がした。その笑顔のまま、葛は僕に手を振りながら曲がり角に消えていく。

 僕は、未だに収まらない胸の鼓動を感じながら思った。たった一言を言うだけが、自分の思いを伝えることが、こんなに勇気の要ることだったなんて。この日から、僕は人と話すことの難しさ――それと楽しさを少しだけ知ったような気がした。

 

       *  *  *

 

 それからというもの、僕たちは何かといえば行動を共にしていた。葛は植物に詳しい僕のことを慕ってくれたし、僕も彼女と話しているのが好きだった。それまでは人付き合いを好まなかった僕だけど、葛と話している時は心の殻を取り払われるような、何か清々しくて心地よい感覚だった。

 僕の引っ込み思案が治ったのも、葛のおかげだったのかもしれない。もしも彼女と出会わなかったら、僕は今でもあの時のままだったんじゃないか。そんなことを、今でも時折思うことがある。

 僕の人生にそれだけの影響を与えた葛だったけど、僕らの付き合いはそう長く続かなかった。確か、出会ったその年――三年生の初冬頃だろうか。僕らはいつの間にか会わなくなってしまった。それからは彼女の顔を見た覚えも無い。もしかしたら彼女の家は引っ越したのかもしれないが、それすらも記憶に無かった。葛との思い出だったらどんな些細なことでも頭に浮かぶのに、彼女との別れに関しては何故か曖昧でぼんやりしている。

 一体、彼女は今どうしているのだろうか?

 どんなに考えを巡らしても、大人になった彼女を上手く想像出来なかった。やはり浮かぶのは十五年前の葛だけで、その時計の針を進めようとすると霧のように消えてしまう。

「あの頃に戻れたらなぁ……」

 仕様の無いことを考えながら、僕は写真立てをカバンに戻した。僕はこの写真をいつも持ち歩いている。情けないことだけど、僕はそれほどまでに過去を想い続けてきたんだ。

 切ないようなもどかしいような気持ちに浸っていると、どこからだか太鼓の音が聞こえてきた。窓の外を見ると、小高い山の上に建てられた神社が見える。一年分の夕焼けが染み付いたかのように鮮やかなもみじに社殿は隠れているけど、高く組まれた(やぐら)と所々に屋台が見える。そうだ、もうそんな時期か。

 紅に染まりきったもみじが散り始める頃、この町では『もみじ祭り』が行われる。美しい紅葉に感謝しながらその典雅な彩りを観賞するという、秋の一大イベントだ。その舞台は紅葉の名所である山上の神社で、夏祭りよりも華やかで賑やかな行事として多くの町民を集めている。

 かく言う僕も子供の頃は毎年足を運んで、様々な屋台を見て回ったものだ。だけどいつの間にか行かなくなって、毎年太鼓の音を聞いては昔の光景を瞼に浮かべるだけになってしまった。どうしてだか、懐かしさに思いを巡らせはするのに、実際に祭りへ行こうと思ったことは無い。

「たまには、行ってみるかな」

 そう口に出した僕は、財布の残金を確認してカバンを手に持つ。胸の奥のほうで何かつかえたように嫌な感じがするけど、気のせいだろうともっと奥へ押し込めた。

 

 枯葉色のショートコートを羽織って外に出ると、町には冬の空気が漂い始めていた。風は無いけど肌寒く、空の雲は凍り付いて動かない。外に出て最初に吐いた息だけ白く煙り、次に出た息はそのまま外気に混じっていった。

 曲がり角を越えて大通りに出ると、いつもより人通りが多いような気がした。そういえば、子供の頃もこんな風にみんなが神社に向かっていたっけ。町並みは変わっても、なんとなく懐かしい感じがする。

「ねえ、そこのお兄さん!」

 僕が感傷に浸っていると、はきはきした子供の声が後ろから聞こえた。もしかして自分に呼び掛けられたのかと振り向いたら、そこに立っていた白いワンピースの少女が僕の顔を見て微笑んだ。

「ねえ、神社のお祭りに連れてって!」

 おそらく、迷子か何かだろう。しかし、僕は驚きの余り返事も何も忘れていた。こんなこと、あろうはずがない。

 その少女の顔が、さっき見た写真の葛にそっくりだったんだ。いや、顔だけじゃない。体格、表情、声や喋り方に至るまで、生き写しとでも言える程に似ている。

 しかし、それが逆にこの少女が葛でないことを証明していた。葛は僕の同級生、つまり今はもう二十五歳になっているはずだ。それなのに、僕の前にいる少女は写真から出てきたようにあの頃のままだった。

 だけど、他人の空似などという言葉で片付けられる程度の似方じゃない。この少女が何者なのか、考えれば考える程に分からなくなってくる。

「ちょっと、お兄さん。どうしたの?」

 その声で我に帰ると、少女が不思議そうな顔で僕を見上げていた。そんな仕草も葛にそっくりだ。僕は軽く笑って誤魔化し、出来るだけ平静を装って振る舞った。

「いや、何でもないよ。神社まで案内してほしいんだったね? こっちだよ。ほら、あそこに山が見えるでしょ?」

 そう言って山のほうを指差すと、少女も納得したようだ。僕が歩き出すと、彼女も後から付いてくる。まあ、このご時世に子供の一人歩きは物騒だし、道案内ぐらいはしてもいいかな。

 だけど、こんな小さな子供が一人で祭りへ行くなんてどういうことだろうか。大の大人が一人で祭りへ行くのも人のことを言えないけど、さすがに気になったのでそれぐらいは聞いておくことにした。

「君は、神社で誰かと待ち合わせしてるの? 友達とか、お母さんとか」

 すると少女は、少し下を向いて首を横に振った。身長差があるから、俯いた彼女の表情はよく見えない。でも、さっきまでのような明るさは無くなっていた。一人……なのだろうか。何となく気まずい沈黙が漂い、僕は話題を変えようと月並みな質問をする。

「えぇっと、そうだ、君の名前は?」

 個人情報、という言葉が頭をよぎったけど、子供が口頭で言う名前に何の効力も無いだろう。

 少女は顔を上げ、少し明るさを取り戻した様子で元気に名乗った。

「私、リサ! 呼び捨てでいいよ」

 そう言って、リサと名乗った少女は僕の隣に並んで歩き出した。

「リサ、か。僕は光、呼び方はどうでもいいよ」

「じゃあ、光くんって呼ぶね」

 リサは僕の手を取り、引っ張るようにして進み始めた。僕は引っ張られるまま、突然のことで顔を真っ赤にしていた。リサは葛と同じ呼び方で僕を呼び、同じように僕の手を握ったのだ。僕は驚きと恥ずかしさ、それと頭の中では否定しつつも懐かしさを感じていた。

「光くん、お祭りに行ったら一緒に手踊り踊ろうよ!」

「そ、それはちょっと恥ずかしいな」

 もみじ祭りの手踊りは誰でも自由に参加出来て、夏祭りでいうところの盆踊りみたいなイベントだ。しかし、一緒に踊ろうとは……。何やら、神社への道案内だけでは済まなさそうだ。

 

 神社の入り口には両脇から楓が繁り、鳥居と競り合うようにその赤さを比べていた。

 僕たちはたわいも無い話をしながら神社に着いた。年に一度のもみじ祭りとあって、多くの人が鳥居をくぐって奥へ進んで行く。しかし神社の入り口といってもここには鳥居があるだけであり、祭りの会場へ向かうには長い石段を登って行かなければならない。リサは石段の上のほうを見ながら、遠い目をして言った。

「ずいぶん長い階段だよね。どっちが先に登りきれるか、競争しない?」

「うーん、走りには一応自信があるけど、本当にここでやるの?」

 そう答えた時、僕の胸の奥が突然ちくりと痛んだ。何だろう? よく分からないけど、わけも無く自分の言葉に痛みが込み上げてくる。

 もちろんそんなことをリサは知らず、元気良く声を上げた。

「じゃあ、いくよ! よーい、ドン!」

 言うが早いか、リサは軽い身のこなしでさっさと石段を駆け上がって行く。僕も慌てて、人にぶつからないように気を付けながらリサの後を追った。周囲の視線は敢えて無視しながら、もみじのトンネルを駆け抜けて行く。僕は大人にしてはよく走ったと思う――が、さすがに子供のバイタリティには敵わなかった。僕が息を切らして登りきると、リサが「遅いよぉ」と漏らしながら不満のような満足のような顔をしている。

 少し呼吸を整えてから、僕とリサは二つ目の鳥居をくぐった。そして、その先に広がる幻想的な光景に僕らは息を飲む。

 会場となった広い境内にはロープが張り巡らされ、そこに吊り下げられた色とりどりの(かみ)燈篭(とうろう)が淡い光を放っている。境内の真ん中には高く櫓が組まれ、和太鼓が絶え間なく打ち鳴らされていた。左右を見れば、様々な出店(でみせ)が所狭しと肩を寄せ合っている。そして、城壁のように周囲を囲む紅蓮のもみじ……。斜陽に照らされた境内は、下界の現代的な町並みとは違う世界にいるような気さえさせた。

 リサは会場に入るや辺りをきょろきょろと見回し、目を輝かせている。もうこうなっては、僕も祭りに付き合う他は無さそうだ。

「何か食べたいものある?」

「う〜んとね、わたあめ!」

 それを聞いた僕は「よし」とだけ答えて、立ち並ぶ露天を見回した。

 わたあめの屋台を見ると、ごんごん動く機械の上で『一個二百円』という張り紙が風に揺れている。奥では頭の禿げ上がったおじさんが鉢巻を巻いて、わたあめを作っては売っていた。その前には数人が並んでいたので、財布を取り出しながら僕も列の後ろにくっつく。しばらく待つと順番が回ってきて、僕は四枚の硬貨をおじさんに手渡した。

「わたあめ二つください」

 おじさんは気前の良さそうな声で「あいよっ!」と答えて、わたあめを作り始めた。機械の中で逃げ回るわたあめを割り箸で絡め取り、巧みに丸い形を作ってゆく。

 熱して繊維化したザラメをすくい取っているだけだと今でこそ分かるけど、昔の僕にとってわたあめは謎めいた不思議な食べ物だった。それを平然と作り出すわたあめ屋のおじさんなど、魔法使いのように見えたものだ。しかし、そんな子供も大人になれば夢を失ってゆく。現実の世界に魔法を見ることは、子供の特権なのだろう。

 そんなことを考えていると、きれいに丸まった二つのわたあめが手渡された。僕はそれを持ってリサのもとへ戻り、一つを手渡す。もちろん、もう一つは僕の分だ。

「ありがとう!」

 はしゃいだ笑顔を僕に向けて、リサは無邪気な笑顔でわたあめにかぶりついた。きっと、幼かった頃の僕もこんな顔をしていたのだろう。やはり、リサにとってもわたあめは魔法の食べ物なのだろうか?

 そんなことを思っていると、ある記憶が浮かんできた。それは、リサと同じようにわたあめを頬張っている葛の姿。そうだ、僕は十五年前、葛と一緒にこの祭りへ来た。そして、二人でわたあめを買って食べたんだ。こんなに大切な思い出なのに、どうして今まで忘れていたんだろう?

 取留めの無いことを考えながら、僕もわたあめを頬張る。すると一瞬で口の中に甘みが広がり、目が覚めるように現実に立ち返った。わたあめを食べるのなんて、何年ぶりだろう。子供の頃と同じ甘さと口溶けが、今の僕には目新しく感じた。

「光くんは、わたあめ好き?」

 一足先に食べ終えたリサが、割り箸に残ったザラメを舐めながら聞いた。考え事をしていた僕は、思ったままを自ずと答えてしまう。

「もちろん好きだよ。なんだか懐かしい味がしてね」

 子供に向けて言うことじゃなかったと後から思ったけど、リサは何となく理解したかのような優しい表情をしていた。

 

 沈みかけの夕日は木々の間に半身を隠し、神社を取り巻くもみじは一層赤みを増して輝き出した。リサはその凄絶な美しさに見とれながら、出店で釣った風船ヨーヨーをぽんぽん叩いている。その隣に立った僕も同じ方向を見ながら、何の気無しに呟いた。

「きれいだなぁ」

「うん、本当に……」

 返事をしたリサのほうを見ると、どこか切なく影の差した、子供らしくない表情でもみじを見つめていた。その表情は、僕が今まで見たことの無い――つまり、葛が一度も見せたことの無い表情だった。

 どうしてそんなに悲しそうな顔をするのか、聞く気はなぜか起こらない。聞いてはいけないことのような気がした。きっと、僕も同じように悲しげな顔をしているのだろう。

 そんな僕らの沈黙を破って、櫓のてっぺんに取り付けられたスピーカからアナウンスの声が流れた。

『これより、もみじ祭り恒例の手踊りを開始します。皆様、ご自由に櫓の周りへお集まりください』

 太鼓の音が激しさを増し、違うリズムを刻み始めた。手踊りが始まるのだ。櫓を囲むように人が集まり始め、自然と輪が生まれる。

「結構人が多いね。じゃあ、僕たちも行こうか」

 大きく頷いたリサの手を引き、僕も櫓の周りに向かった。

 

 手踊りが始まると、祭りは最高潮の盛り上がりとなった。櫓に上った歌い手が太鼓に合わせて音頭を取り、祭りに集まった人の半分以上がその周りで踊っている。

 そして、一番外側の輪に僕とリサもいた。意外と振り付けをよく覚えていたので危なげなく踊れたけど、リサの手踊りは僕より格段に上手かった。全身の動き全てが滑らかで、ゆったりとした優雅な舞踊だ。

 その姿を見ているうちに、段々と十五年前の葛と重なってきた。僕と葛は十五年前、確かにここで一緒に踊ったのだ。二人とも、手踊りに参加するのは初めてだったと思う。しかしこういった類の踊りは不思議と初めてでもそれなりに踊れるものだが、葛の手踊りは壊滅的に下手だった。それでも葛は一生懸命に踊りきり、二人で楽しく笑い合ったものだ。

 そんな思い出に浸りながら踊っていると、やがて太鼓が一際大きく鳴り、音頭が終わりを迎えた。踊っていた人々は蜘蛛の子を散らすようにその場を離れ、先程までと同じように祭りを満喫し始める。僕もその流れに乗ろうと思ったけど、リサがその場で立ち止まっているのに気付いて足を止めた。

「どうしたの?」

 リサは少し考え込むような仕草を見せたけど、すぐに「なんでもない」と言って僕の横に並ぶ。躊躇うような彼女の表情が気になりながらも、僕はそれ以上聞かずに彼女の手を引いた。

 

「あれ、出店はここまでなのかな」

 その後、僕たちは様々な出店を回り歩いていた。目ぼしいものは一通り遊び尽くして、リサも満足のようだ。そうして会場を歩き回るうちに、僕たちは社殿の横にある細道に入ってしまった。ちょっとした好奇心で奥へ進んでみると、露天が立ち並ぶ広場とは何か空気が違う。空間全体が流動体で満たされているかのように、重く粘っこい雰囲気だ。

 一番奥に辿り着くと、そこにあったのは神社の敷地内に作られた小さな墓地だった。妙な空気は、墓場のせいだったようだ。

 いくつか並んだ墓石を何気なく見ていると、『桐里家ノ墓』と彫り込まれた墓石が僕の目に止まる。そう多い苗字ではないし、葛の家だろうか。そう思って墓石の側面を見た瞬間、そこに書かれた文字に僕の目は釘付けになった。墓の下で眠る人々の名前が連なる中、一番端に彫られていた名前は『桐里葛』。命日は、十五年前の今日……。

 その意味を理解した途端、心の奥に封じ込められていた記憶が一気に噴き出した。そうだ、思い出してしまった……。十五年前のあの日、葛と一緒にこの祭りへ来たあの日、桐里葛は死んだんだ……。

 

       *  *  *

 

 その日、僕と葛は夜まで祭りを楽しんだ。何度も親に連れて来てもらった祭りだけど、葛と一緒なら何でも楽しかった。そして、大人たちが酒を飲み始める時間を目安にして僕らは帰路に着いた。鳥居をくぐって、石段を下りようとする僕と葛。時間も時間で、僕たち以外に人は見当たらない。すると、葛はこう言った。

「この石段でもう一回競走しようよ。リターンマッチってやつ」

 登って来る時は競走をして、僕の余裕勝ちだった。どうも葛はそれが悔しかったらしい。

「うん、分かった。下りるのだって負けないよ」

 そして、葛の「よーい、ドン」の掛け声で競走が始まった。僕と葛は同時に走り出し、長い石段を駆け下りてゆく。天蓋のようにせり出したもみじの木が月の光を遮って、足元の見通しはあまり良くない。だけど、走るのが得意だった僕は葛をぐんぐん引き離していった。

 そして石段を下りきった僕が葛のほうを見た、その瞬間だった。聞こえたのは葛の短い悲鳴。そして、その軽い体がゴムまりのように石段を転げ落ちてくる。何度も石段に打ち付けられる葛の姿が、僕にはまるでスローモーションのようにゆっくりと見えた。

 余りの驚きに固まった僕の足元に、傷だらけになった彼女の体が非情に投げ出された。栗色の髪の間からは真っ赤な血が溢れ出して、石畳に朱色が広がってゆく。当時の僕でも分かる――葛はもう生きられない。

 僕はどうすることも出来ず、葛の傍らに膝をついた。そうして、ただ彼女の顔を見つめていた。この大切な友達を失うのが怖くて、僕の目から涙が零れ落ちては葛の頬に当たって消える。葛はそんな僕の顔を見て、優しく微笑んでいた。

 そして、僕の涙を拭おうと、震える手を伸ばす。しかし、その手が僕の顔に届くことは無かった。ばちゃり、と音を立てて血溜まりに沈んだ葛の手は、もう二度と動かない。いつもは活き活きと輝いている透き通った瞳は、紅葉の輝きを映したままガラス細工のように固まっていた。

 僕は天を仰いだ。空を覆うもみじの木から、赤い葉っぱがはらはらと降ってくる。そのうちの一枚が血の池に舞い降り、なお赤い血の朱色に溶けて消えていった。

 僕の頭が真っ白になってゆく。何も、何も考えられない……。

 

       *  *  *

 

 そう、確かにあの時、葛は死んだ。そして、僕はその一連を全て記憶の奥底に封じ込めたんだ。つらい現実から目を背けるために。この世界のどこかで、葛が生き続けるために。

 その後も、きっと僕は葛のことを思い出すきっかけを無意識に避け続けてきたんだろう。曖昧な僕の記憶に関しても、それなら辻褄(つじつま)は合う。しかし、だとすればリサは? どうしたって彼女の存在には謎が残る。

 その疑問に立ち返ってリサのほうを見た途端、彼女は僕に顔を向けず逃げるように駆け出した。

「ま、待って!」

 僕も慌ててその後を追いかける。ここで追わなければ、大切な何かを永遠に失ってしまうような気がした。さっき石段を登ってきた時とは違い、自然と足が前に進んでゆく。

 リサが立ち止まったのは石段の前だった。急ブレーキで立ち止まった僕のカバンから、さっきの写真立てが零れ落ちる。リサはその写真立てを拾い上げ、懐かしそうな目で眺めた。

「この写真、ずっと持っててくれたんだね、水仙寺光くん」

 その言葉が、僕にとって決定的だった。僕はリサに苗字を教えていないし、写真の話もしていない。そんなはずは無いと思いながらも、僕は躊躇いがちに口を開いた。

「リサ――いや、葛だよね?」

 僕は天国や幽霊というものを信じているわけではない。しかし、全ての状況がその可能性を指し示していた。そして何よりも――そうであってほしいと僕自身が望んでいた。

 僕の言葉を聞いて、彼女は痛々しい程の笑顔を浮かべた。その頬を、一筋の涙が縦に走る。

「そうだよ、ずっと、光くんに会いたかったんだよ……」

 葛の泣き笑いには、やっと会えた喜びと待ち続けた寂しさが滲み出ているような気がした。僕の目からも止めど無く涙が溢れてくる。

 僕は膝をついて、葛に身長を合わせた。もしも、僕が葛と同じように十五年前のままだったら、躊躇うこと無く彼女を抱き締められただろう。しかし、今の僕はその一歩を踏みとどまった。

「でも、本当にこんな僕でいいの? あれから十五年も経ったんだよ? 僕はもう、すっかり大人だし……」

 しかし、葛は「ううん」と首を振って優しい言葉を紡いだ。

「私ね、時間が人を変えちゃうとは思わないんだ。地面の上に落ち葉が積もっていくみたいに、時間は人の上へ積もっていくものだと思うの。大人になるっていうのは、子供の自分が消えるわけじゃなくて、落ち葉の層が増えていくだけ。だから、今の光くんの中には十五年前の光くんもちゃんといるの」

 そして、葛は僕の胸に額を寄せてこう言った。

「時間が経っても、光くんは光くんだよ」

 そう言って、葛は僕を抱き締めた。壊れやすいものを抱えるみたいにぎこちない抱き方だけど、僕も葛の体に優しく腕を回す。傍から見れば、僕たちはまるで親子のように見えるだろう。しかし、今の僕は二十五歳の青年であると同時に、十歳の少年でもあるんだ。

 長い抱擁が終わると、葛は少し寒そうに身震いした。そういえば、夜になって気温は大分下がっている。葛が着ているワンピースは十五年前と同じもので、彼女が初めて見せた女の子らしい衣装だった。しかし、やけに暖かかった十五年前と違って今年は例年通りの寒さだ。冬も間近の夜冷えにワンピース一枚では応えるだろう。僕は羽織っていた枯葉色のコートを脱ぎ、葛の肩にかけた。

「そんな薄着じゃ寒いでしょ? それはあげるよ」

 葛はほくほくと満足げな顔で、ぶかぶかのコートに袖を通した。地味な色の大人物(おとなもの)だけど、晩秋の背景と相まって意外と葛に似合って見える。

 葛は不意に何かを思い出したような顔をして、コートの襟を合わせながら僕に尋ねた。

「ところで、光くんってどんなお仕事してるの?」

「花屋で働いてるよ。忙しくて大変だけど」

「光くんらしいね。やっぱり、あの頃と変わってないよ」

 考えてみると、本当にその通りだった。今の自分と過去の自分を切り離して考えることなど出来ない。僕らは誰でも、昔見た夢の延長線上に生きているんだ。

「君にそう言ってもらえると、なんだか安心するよ」

 すると葛は少し照れくさそうに目を細めて、長く余った袖をひらひらさせながら答えた。

「そんな、お互い様だよ。私なんて、光くんにいつも助けられてるもの」

 遠慮や謙遜であれば彼女らしくないところだが、どうやらそうではないようだ。葛の瞳は真実の光を持っていた。

「私ね、一人でいるのが怖いの。なんだか、寂しさに押しつぶされちゃいそうな感じがして。だけど、光くんはいつも一緒にいてくれた」

 言いながら上を向いた葛の瞳に、紅の天蓋が映り込む。

「私、最後の最後まで幸せだったよ。光くんが、ずっとそばにいてくれたから……」

 僕は葛の隣に立ち、同じように頭上を見上げた。そうしていると、まるで子供の頃と同じような気分になってゆく。

 並んで佇む葛が、少し息の詰まった声で言った。

「今日は、光くんに会えてほんとに嬉しかったよ。ありがとうね」

 嬉しかったと彼女は言っているのに、僕にはその言葉が「寂しかった」と語っているような気がしてならなかった。報われぬ想いを胸に抱いて十五年も待ち続けた葛は、僕とは比べ物にならない程のつらさを味わってきたんだろう。

「ねえ、葛……」

 しかし、隣を見ると彼女の姿は消えていた。まるで元から何も存在していなかったかのように、虚空だけが空間を満たしている。

 葛が立っていた場所には、先程の写真立てが落ちていた。深緑に囲まれて僕の隣で笑っている葛の表情は、なんだかいつもと違って見える。たくさん泣いた後に浮かべる笑顔のように、どこか悲しげだけど幸福な微笑だ。

 葛にとって、僕はどんな存在だったのだろうか。

 十五年前の今日、彼女の瞳にどんな景色が映ったのか、今なら何となく分かるような気がした。

 

 一歩一歩を靴底で感じるようにして石段を下りて行くと、下りきった石畳の脇に小さな花束が置かれていた。ともすれば見落としてしまいそうなその花束は、誰かの悲哀を託されて少女の人生を密やかに主張しているのだろう。

 僕は近くのもみじの木からとびきり赤い一枝を手折り、そっと花束の中に添えた。

「ねえ、葛。僕たち、来年もまた会えるかな」

 呟いた僕を包み込むように風が吹き、木々が(ほの)かにざわめいた。遠い空の向こうで誰かが笑っているような、優しいそよ風だった。


   あとがき

 

 どーもこんにちは、過去話至上主義の鬼童丸です。

今回の作品には自分の後ろ向きな性格が如実に反映されていると思います。自分は未来や進歩よりも過去や不変を愛する人間ですから。過ぎ去った思い出だとか、変わらない運命だとか、そういったテーマで小説を書くことが多いです。

 まあ、特に深いこと考えず楽しんでいただければそれでいいんですが。

 

では早々に解説を始めようと思いますが、実はこの作品、書き下ろしではございません。なんと中学生の頃に書いた小説なのです!

なんて、胡散臭い香具師っぽく言ってみても手抜き感は誤魔化せないですね。過去作品は隠し球みたいなものです。

過去に書いた作品の中では割と上手く書けていたので、筋書きをそのまま流用しました。時期で言えば中学二年生の終わり頃に書いた話で、小説書き始めて間もない頃です。それゆえに文章力は目も当てられない状態で、かなりの手直しを要しました。というより、骨組みだけ残してほとんど総書き直しに近いです。

 

思い返せば、あの頃は「ラノベの新人賞に応募して百万円」とか本気で考えてた時代です。考えるまでもなく馬鹿ですね。

とある友人に誘われて「一緒に百万円を目指そう」みたいな感じで筆を振るっていたのですが、実はそれこそ自分が小説を書き始めるきっかけでした。何とも奇妙な巡り合わせです。ちなみに新人賞は一度も応募しないまま挫折しました。長編書くのが無理だったんです。

その後も自分は短編小説を書き続けていましたが、その友人は「挿絵はどうしたらいいか」なんてとぼけたことを言いながらフェードアウトしていきました。

さらば、戦友(とも)よ。

 

 

あと、軽く登場人物の紹介をしておきます。

 

水仙寺光:主人公です。作中ではあまり語られませんが、お花屋さんの店員です。たぶん天職です。

彼の名前はかなり悩みました。水仙はそのまま花の名前、寺は単なる調子合わせです。水仙の花言葉は思い出や追憶などがあるので、この話に合っているかと思って名付けました。でも、花の意味を小説に組み込むのって結構面倒くさいんですよ。一つの花が色んな意味を持っていて、必ずしも全てがイメージ通りにはいきませんから。

ついでにライラックの花言葉は「若者の無邪気さ」と「初恋」等です。

 

桐里葛:幽霊です。明るいけれど寂しがり屋な子です。

名前は一発で決まりました。なんとなく植物調な名前です。一応伏線になってるのですが、リサという名前は桐里から採りました。

自分は台詞を書くのが苦手なのですが、彼女は特に厄介です。苦労したのは子供らしい口調にすることと、『!』を多用しすぎないこと。

 

軽く書くつもりが、かなり長い紹介になってしまいました。登場人物に対する愛情の現れだと思って御容赦ください。

では、最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

 

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