「ああ、月がきれいだ。満月かな」

 群青色の月明かりと紺碧の静寂に包まれた夜の公園、小さな滑り台の上で黒猫が呟いた。トパーズのようなその瞳が見つめる先には、満月――あるいはわずかに満ちきらぬようにも見える月影が、黒く澄んだ高空に輪郭を浮かび上がらせている。そして黒猫は、この夜空と自分だけが世界の全てであるかのように、泰然と言葉を重ねた。

「ああ、うれしいな。今日も無事に一日を終えることができた。明日も、今日と同じ一日が続くのかな」

 冥々たる夜空に向けられた黒猫の視線に宿る輝きは、切望の光のようにも見える。彼は短い尻尾で滑り台を一つ叩き、誰に向けてでもなく語りかけた。

「ああ、だけど、いやな胸さわぎがする。なぜだか、明日は今日と同じものにならないような気がするんだ」

 その言葉を最後に、黒猫はふいと(きびす)を返して遊具の階段を下り始めた。軽やかな硬質の足音が夜闇に響く。そして地面に足が着くと、滑り台の下へ隠れるように入っていった。

 湿った空気が辺りを浸す、とある真夏の夜の出来事だ。

 

 それと丁度同じ頃、一匹の白猫が眠りから覚めた。彼女の名前はベル、とある豪邸で暮らしている飼い猫だ。いつも決まった時間に与えられる夕食を寝過ごしてしまった彼女は、少し遅めの食事を貰おうと目を覚ましたのだった。

 しかし、彼女は目覚めと同時に自分の目を疑うこととなる。眠たげなブルーの瞳が映したのは、自分の周りを覆う草葉の緑色、その間から見えるコンクリートの灰色、そして時折過ぎ去ってゆく自動車のライト……。そこは、彼女には到底相応しくない道路脇の草むらだった。当然、彼女がいつも寝ている柔らかなベッドはどこにも見当たらない。ただ体の下には粗末な布が敷かれているだけだった。

「ここはどこ……?」

 その一言を皮切りにして、困惑のみが満たしていたベルの心に恐怖と不安が噴き出した。彼女はその時になって、自分が異常な事態に置かれていることを今更に認識したのだ。視界を遮る草を前足で掻き分けながら、当たり前の日常を求めて足を進める。

「お父さん!? どこにいるの!?」

 お父さんとは彼女が飼われている家の主人のことだが、その呼び声に返る返事は無かった。

そうしてふらふらと道路を渡ろうとしたその瞬間、目を突き刺すような激しい光がベルを照らした。そして騒がしいエンジン音と共に、その光は見る間にこちらへ近付いてくる。本能的に感じた危険を頼りに慌てて草むらへ飛び込むと、数瞬前まで彼女がいた場所を自動車が走り抜けていった。

「何なのよ……」

 わけも分からないまま、ベルの両目からは止めどなく涙が溢れてゆく。さらに、誰一人自分を気にかけてくれないという孤独が、彼女の不安を一層強くしていた。

「誰か、誰か助けて!」

 悲痛なその叫びは誰に聞かれることも無く、夜の静寂にかき消されてしまった。空を見れば、涙で潤んだ月が朗々と輝いている。

 そしてベルは張り裂けそうな胸から何度も声を上げ続け、道路に沿って歩きだした。

 

 その後もベルは歩き続けた。しかし、歩くほどに重たい不安が心の内に堆積してゆく。彼女は、外の世界の途方も無い広さに倦んでいた。

 彼女が住んでいた家も充分な広さではあったが、ここの広大さは比べ物にならない。何せ、歩いても歩いても端まで行き着かないのだ。

 東の空は既に明るみを帯び始め、夜が明けようとしていた。

 

 徐々に角度を増す朝日を背中に浴びながら、ベルは未だに歩き続けていた。その歩みは右へ左へ揺れ動き、夜もすがら歩き通した疲労が見て取れる。

 その上、いつもであれば今頃は主人から美味しい朝食を貰っているであろう時間だ。空腹というものをろくに知らない彼女にとって、空っぽの腹で半日近くを歩き続けることは耐え難い苦しみだった。

 もう休んでしまおうか。そう頭の中で言葉にしてみると、苦痛に支配された彼女の意識は、自分でも驚くほど簡単にその誘惑を受け入れてしまった。しかし、おおっぴらに人目のある場所で休むのはさすがに抵抗がある。そうして安全な場所を探していると、前方に見えてきたのは木々の茂った公園だ。そこならば、人目に付かない場所はいくらでもある。

 既に限界へ達しつつある体を引きずり、ベルは公園の生垣に体を滑り込ませた。その中は人目に晒されることもなく、何より体一つ丁度収まる狭さが心地よい。

 そして純白の毛皮に土が付くのも厭わずに、ベルはその場で身を横たえた。疲弊しきった彼女の肉体と精神は、貴人の矜持すら失っていた。

 湿り気を含んだ地面が火照った体を冷まし、緑の天井が木漏れ日を作ってまどろみを誘う。そして間も無く、ベルの意識は抗うことなく眠りへと落ちていった。

 

      *  *  *

 

 何も見えない。ただ暗闇が広がるばかり。しかし音は聞こえる。車の駆動音が絶え間なく聞こえ、エンジンの振動が全身に伝わってくる。

 かつて病気を患った時に主人の自動車で病院に連れて行ってもらった経験のあるベルは、自分が車に乗っているのだとすぐに理解した。だがそうは言っても、周りが見えないことには状況が掴めない。

 しばらくして、車が止まった感覚をベルの全身が感じた。エンジンの音が止まり、扉の開く音が聞こえる。体が浮いたような浮遊感がして、小さな衝撃が下から伝わってきた。どうやらどこかに降ろされたらしい。四方から草の香りが鼻腔へ入り込んでくる。

 その時、ベルの頭を何か温かく柔らかい物が撫でた。人間の手だ。しかも、その感触には覚えがある。

「ごめんな、ベル……」

 聞き慣れたその声に、ベルの心臓は割れんばかりに高鳴った。それは、彼女が散々探し求めた主人の声だ。ベルはどうにかその姿を見たくて、必死に目を開けようとした。しかし、どんなに頑張っても瞼が言うことを聞かない。それどころか体の全てがぴくりとも動かず、声を出すことすら叶わなかった。

 やがて主人の温もりは肌から離れ、車のエンジン音が再び聞こえ始めた。その音は瞬く間にベルの元から遠くなり、そして聞こえなくなってゆく。虫の声だけが、やけに大きく聞こえていた。

 

      *  *  *

 

「お父さん!」

 ベルは、自分の叫びで目を覚ました。周りを見回してみれば、寝付いた時と同じ緑の壁が自分を囲んでいる。夢を見ていたのだと気付いて、彼女は暗い心持ちで身を起こした。

 主人の元へ帰るせっかくのチャンスを掴み損ねたこと――そしてそのチャンスすら夢という空想の産物だったことが、彼女の心に失望を差していた。しかし、だからといって今までの生活を諦められるわけは無い。

 多少の仮眠によって体力と気力だけは回復したベルは、生垣から頭を出して周囲の様子を窺った。朝の日差しを浴びて白く輝く公園に動く影は見えず、誰もいないかのように見える。しかし彼女の目がふと滑り台の上に向いた時、そこに生き物の姿を確認した。

 それは口に魚をくわえて、きょろきょろと辺りを見回す黒猫だ。そしてその黒猫のほうもベルの存在に気付いたらしく、ひょいと飛び降りてこちらへ歩いてくる。

 ベルは慌てて生垣へ隠れようとしたが、少し考えて思いとどまった。室内暮らしの彼女は自分と同じ生き物である猫と話したことなど皆無であったが、言葉も通じない人間よりは情報収集の相手として役に立つだろうと考えたのだ。

 一方の黒猫は無表情ながらも警戒を含んだ足取りでベルの近くまで歩み寄って、魚をくわえたまま器用に話しかけてきた。

「やあ、こんにちは」

 改めて近くで見ると、その黒猫は随分と薄汚れていた。元々は真っ黒であっただろう毛並みは所々に砂が付いて白みがかり、足先にいたっては泥の色が染み付いている。

 そんな黒猫の風貌を見て下賤な猫だと判断したベルは、自分の上位を知らしめようと尊大な口振りで返事を返した。

「ごきげんよう、みすぼらしい黒猫さん。あなた、私の家への帰り方を知らないかしら?」

「知らないなあ。第一、きみのことを知らないもの」

 普通に考えれば当然の返答なのだが、世間に疎いベルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。しかしそんな理不尽な態度は大して気に掛けないようで、今度は黒猫のほうから話題を持ち出す。

「ちょっと、一つ確認したいことがあるんだけど」

 そして黒猫は、首を傾げながらこう言った。

「さっきの声はきみかな? 『お父さん!』って」

 黒猫の口調には、詮索や好奇の響きは含まれていない。しかし、ベルは自分の寝言を聞かれたことに気恥ずかしさを感じ、突っぱねるように答えた。

「なっ、何でも無いわよっ! あなたには関係無いでしょ!」

「ふうん。まあ、そのとおりだけどね」

 ベルが声を荒げても黒猫は別段応えないようで、悠々と前足でひげの手入れをしている。そんな黒猫が不意にベルのほうへ向き直り、今までより少し真剣な目をして尋ねた。

「ところで、きみはここらじゃ見ない顔だね。どこから来たの?」

 その問いにベルは自分の置かれている状況を再認識し、一度は忘れかけていた悲しみが湧き上がってきた。不安な心持ちを悟られないようにしながらも、声は自ずと沈んでしまう。

「分からないわ。気付いたら知らないところにいて、昨日の夜からずっと歩き続けてここに来たの。でも――」

 ベルは、その先の言葉を躊躇った。それを言葉に出すことは強がりを言っているかのようで、いささか見苦しいことのように思えたからだ。しかし彼女は自分の誇りを守るために、思い切って言葉を続けた。

「でも、昨日までは大きな家に住んでいたのよ。みんなから大事にされて、ご飯だっていつも用意してくれたわ。私は、あなたみたいな薄汚い猫とは生まれも育ちも違うのよ」

「へえ、それはすごいね」

 黒猫は理解したのかしていないのか、口では感心しながらもよく分からないような顔をしていた。しかし警戒は解いたらしく、さっきまでは真剣だった表情が和らいでいる。

「そうだ、きのうから歩きっぱなしじゃお腹すいてるでしょ? さっき近所のおばさんからお魚もらってきたんだけど、食べる?」

 そう言って魚を揺らす黒猫に、ベルはそっぽを向いて答える。

「要らないわよ、私はお腹なんか空いていないわ」

「なんだ、じゃあぼくがもらおうかな」

 その言葉通りに黒猫が魚を食べようとした時、ぐうっ、という腹の音が二匹の間に響いた。高貴な猫だろうと何だろうと、食べなければ腹は減るのだ。火が出そうな程に赤面したベルに対して、さほど気にしていない様子で黒猫が問い質した。

「ほら、やっぱりお腹すいてるんでしょ?」

 ベルは何も返事をせずに、黒猫の口から瞬時に魚をかすめ取ることで意思表示をした。もはや高貴さの欠片も無く、頭の先から魚を食べ尽くしてゆく。

 ほんの十数秒で魚を骨だけに変えたベルは、ふと我に帰った。黒猫のペースに取り込まれ、情報収集という目的を完全に忘れていたことに気付いたのだ。しかし帰り道を聞いて有意義な答えを得られるとも思えず、取り敢えずこの黒猫について聞くことにした。

「ところで、あなたの名前は?」

「ぼくはクロニ。このあたりには黒猫がもう一匹すんでるから、そっちがクロイチさんでぼくがクロニなんだよ」

 さも当然といった風に答えるクロニに、ベルは腑に落ちない顔をした。

「何よそれ、名前っていうより単なる記号じゃないの」

「そうかなあ、分かりやすくていいと思うんだけど。だったら、きみの名前は?」

「私はベルよ。それで、あなたの家はどこ?」

 すると黒猫は少し困ったような顔をして、おずおずと口を開いた。

「あのさぁ、さっきも気になったんだけど、家ってどういう意味?」

「何よ、家も知らないの? 家っていうのは……」

 黒猫の無知さを侮りながら答えたベルであったが、いざ考えてみると相応しい言葉を見付けられずに黙り込んでしまった。今までは何気なく家という概念を捉えていたが、どんなものを家と呼ぶのか、よくよく考えてみると曖昧だ。最終的に彼女は一つの結論を導き出し、若干おざなりな調子で言い表した。

「家っていうのは、自分が生活する場所のことよ」

「へえ、そうなんだ。じゃあぼくの家はこの公園と、近くの町並み全部」

 黒猫からすれば全くもって真面目なのだが、とんち問答のようなその答えにベルの溜め息が漏れる。

「そういうことじゃないわよ。もういいわ、あなたみたいな無教養な猫にこんな話をしても無駄だもの」

「うん、確かにぼくにとってはどうでもいいことだね。あっ、もう時間だ、行かないと」

 公園の時計を見たクロニはくるりと身を翻し、出口へと向かって行った。一匹残されてしまったベルは、少し迷った末に早足でクロニの後を追いかけて横に並ぶ。

「ちょっと! 急にどこ行くのよ」

「ぼくの家を見回りに行くんだよ。いつもこの時間って決めてるんだ。せっかくだから、ベルもいっしょに来る? 他の猫たちに話を聞いたら、きみの家に帰る方法も分かるかもしれないし」

 クロニは一向に足を止める気配は無く、ベルは不承不承といった様子で何も言わずに付いて行った。

 

「おはよう、クロイチさん」

「おお、クロニか。久し振りだな」

 公園から道路を一つ渡ったところで、クロニより一回り大きい黒猫が塀の上に座っていた。クロニ同様に酷く汚れた風体だったが、重厚な声と知性的な顔をした猫だ。クロイチと呼ばれたその黒猫は音も無く飛び下りて、二匹に丁寧なお辞儀をした。

「おや、見慣れないお嬢さんがいるな。クロニの友達かい?」

「いえ、私、友達なんかじゃ……」

 そして、ベルはクロイチにこれまでの経緯と自分のことを話した。既に一度聞いているため退屈そうなクロニとは対照的に、クロイチはまるで自分のことのように聞き入っている。そして話が終わると「そうか」と一息つき、難しい顔をして答えた。

「申し訳無いが、私では力になれないようだ。しかし、世の中の不幸は全て巡り合わせ、何があっても決して恨んではいけないよ」

 クロイチの表情は、決して教えを与える先生の顔ではなかった。まるで、世界の果てを見て真理を得たような賢者の顔だ。彼自身も幾度となくつらい目に遭ってきたことが、ベルにも推察できた。

「まあ、言葉で聞いて理解出来るようなものでもない。今はまだ分からないだろうが、そのうち分かるよ。じゃあ、クロニもベルも達者でな」

「ええ、クロイチさんもお元気で」

 クロイチは会った時と同じようにお辞儀をして、元いた塀の上に飛び上がった。そして、クロニたちは再び二匹で歩き出した。

 

「ねえ、クロイチさんってどんな猫なの?」

 ベルは、多少ながらクロイチに対して好感を持っていた。彼は見た目こそみすぼらしいが深い知性を感じさせ、どことなく彼女の主人と同じ空気を持っていたからだ。

「そうだなぁ、ぼくが生まれる前からこの町に暮らしてたみたいだよ。昔は人間に飼われてたけど、自由な暮らしがしたくて野良になったんだってさ」

 そんなことを話しているうちに、クロニたちは商店街に差し掛かった。レンガで舗装された道の両脇で、多くの店がシャッターを開いて威勢よく客を集めている。クロニたちが向かったのは、店先に様々な魚を並べた魚屋だ。

「お、ちび黒猫じゃないか! 今日は友達も一緒かい?」

 捻り鉢巻を締めた魚屋の店主は、クロニたちを見ると気前の良さそうな微笑みで話しかけた。いかにも魚屋といった様子の、日に焼けた壮年の顔立ちだ。

「魚屋のおじさん、今日もお魚くれる?」

「よし、魚が欲しいか。そうだ、今日はいいものがあるぞ」

 まさかクロニの言葉が理解できたわけでもないだろうが、店主は商品の中から大振りのアジを二尾取り出して、クロニとベルにくわえさせた。

「その魚はもうじき傷んで売り物にならなくなっちまうから、お前らにやるよ。いやあ、夏は魚も足が速くて困ったもんだ」

「ありがとう、おじさん!」

 クロニは魚屋の足に頬擦りをして感謝の意を伝えると、重そうな魚を地面に付けないようにしてベルと共に歩いていった。

 

 商店街の端にあるベンチの下で、二匹は体を低くして魚を食べていた。

「今日は運がよかったなあ。こんなに大きなお魚を食べられるなんて」

 手早く食べ終えたクロニの言葉に、小骨でてこずっているベルが呆れ顔で疑問を口にした。

「ねえ、あなたっていつもこんな風に食べ物をねだっているの? 朝の魚にしても、人から貰ったものだって言うし」

「そうだよ。ときどきゴミをあさったりもするけど、普段は人から貰うだけで足りるからね」

「何よ、野良猫とかいって自分の力で生きてるようだけど、結局は飼われてるのと同じじゃないの。毎日同じように食べ物ねだって、のんきな暮らしを送ってるってわけね」

 ベルの言葉には、あからさまに侮蔑の響きが込められていた。彼女はクロニに対して完全に失望していたのだ。野良猫というからには誰の力も借りずに力強く生きているのかと思えば、その実態は乞食(こじき)同然の生活なのだとベルは感じていた。

 辛辣な言葉に苦笑いを浮かべたクロニは、静かな声でこう答える。

「まあね。ぼくたち野良猫は、いつだって同じような毎日を送っている。だけど、ぼくたちはそんな当たり前の毎日をとてもすばらしいものだと思っているんだ」

 ベルは何も答えない。そして、ベンチの下に沈黙が訪れた。

 

 夏の午後の日差しは鋭く、ぎらぎらと町並みを照らし付ける。

 商店街を出た後も休み休み町中を歩き回った二匹は、歩道に植えられた街路樹の陰で休息を取っていた。

「見回りも終わったし、そろそろ公園に帰ろうか」

 クロニの提案に、ベルが仏頂面で頷いた。彼女はまださっきの話のことを考えているらしく、不機嫌そうな様子だ。しかし何度か他の猫に聞いてみても彼女の家へ帰る方法は未だ分からないので、仕方なくクロニと行動を共にしていた。

 公園の前の道路を渡ろうとした時、クロニは道路の向こうに黒猫の姿を見付けた。クロニより一回り大きい体と、所々に砂の付いたみすぼらしい毛並み――朝に会った黒猫、クロイチだ。

「あ、クロイチさーん!」

「おお、クロニか。また会ったな」

 高々と手を振るクロニにクロイチはすぐさま返事を返して、駆け足で道路を渡ろうとした。数時間ぶりの再会を喜んだベルもクロイチのほうへ走り出す。その後の出来事は、まさに一瞬の悲劇だった。

「クロイチさん、あぶない!」

 空を裂く程に響き渡ったクロニの声。しかしその叫びは、突然鳴り響いた甲高いブレーキ音によってかき消される。直前までクロイチがいた場所に、猛スピードで突っ込んできたトラック。一瞬の間にそれを理解し、クロイチの表情が変わる。その直後、激しい衝撃音と共にクロイチの姿はベルの視界から消えて、次の瞬間には宙を舞っていた。

「クロイチさん……?」

 呆然とした様子で呟いたベルの目の前をトラックが走り去った時には、クロイチはコンクリートの上で無惨な最期を遂げていた。その口から流れ出る血が、道路に染み込みながら徐々に広がってゆく。

 自分の目に映る光景を信じられず、ベルはただ愕然としていた。

 いつの間にかその隣に並んだクロニが、物悲しげな顔で言葉を紡ぐ。

「これが、野良猫の生活だよ。きみが言ったとおり、ぼくたちの暮らしは同じような日常の繰り返しだ。だけど、その繰り返しがいつ途切れるかは誰にも分からない。だから、ぼくたちはそんな当たり前の毎日を、とても大切に思うんだ……」

 底知れない諦観が宿ったその言葉は、ベルには届かなかった。彼女の心はたった今起こった惨劇の恐怖に支配され、もはや誰の言葉も聞こえないのだろう。

「どうして、どうしてこんなことになるの……?」

 残酷な運命に向けられたその問いは、痛切な思いに震えていた。限界まで開かれたブルーの瞳は、見えない恐怖に怯え揺らいでいる。

 先程、数秒早く走り出していればベルもクロイチと同様の末路を辿っていたのだ。思えば、昨晩も同じようにして車に轢かれかけた。横たわったまま動かないクロイチの姿が、ベルには自分と重なって見えた。

「いやよ! こんなのいや!」

 狂ったような叫びと共に、ベルは逃げ出した。何から逃げようとしているのかは彼女自身にも分からない。ただ目の前の現実から逃げたい、この世界を厳然と支配する運命の歯車から逃れたかった。

 道を行く人間たちは、誰もがベルを奇異の目で見ながらすれ違ってゆく。しかし、それすらも今のベルにはどうでもよかった。

「お父さん、助けて!」

 ベルの脳裏で、昨日までの穏やかな日々が浮かんでは消えてゆく。しかし彼女の目に映るのは、どこまで行っても終わりの無い無慈悲な町並みばかりだった。

 

 変わり果てたクロイチと共に独り残されたクロニは、走り去ってゆくベルを悲哀の眼差しで見つめていた。しかしやがて彼女の後ろ姿が見えなくなると、おもむろにクロイチのほうへ向き直る。

「クロイチさん、ちょっとごめんね」

 既に反応の無いクロイチに小さく詫びをして、クロニはその首根っこをくわえて持ち上げた。そしてクロイチの足先を引きずったまま、急ぎ足で道路を渡ってゆく。

 クロニは公園の一番端っこにある目立たない植え込みにクロイチを運んで行き、そっと土の上に置いた。するとクロニはその隣に立ち、後ろ足で地面を蹴って掘り始める。西日が射し込む小さな林の中、彼は黙々と地面を掘り続けた。

「ねえ、クロイチさん。ぼくのしてることって、変なのかなあ。みんなぼくのことを、『変わり者だ』って言うんだよ。でもね、ぼくはこう思うんだ。ぼくたちが当たり前のように毎日を過ごせるのは、とても素晴らしいこと。だから、そうやって生きていた証を、誰にもじゃまされない場所に、そのままの形で残しておきたいんだ……」

 日も沈み始める頃、ちょうど猫が一匹収まるぐらいの浅い穴が出来た。その中にクロイチの死体を入れて、クロニは掘る時と同じようにして土をかぶせる。最後に、クロニは小さな石を運んできてその上に置いた。

 周りを見れば、同じように石の置かれた場所がいくつかある。それは彼にとって、その猫が生きていた証拠を残すための儀式だった。

 クロニは土の下にいるクロイチに向け、静かに語りかけた。

「クロイチさん。いつだか、ぼくに言ってくれたよね。『飼い猫として暮らすほうが気楽だったが、自分の決断を後悔はしていない』って。ぼく、今ならその言葉の意味が分かるような気がするんだ。クロイチさん、車にはねられた時、すごく穏やかな顔してたからね。『ああ、来る時が来たか』って、そう言ってるみたいに見えた。きっと、生きることの素晴らしさって、死ぬことと隣り合わせで見えてくるものだと思うんだ。クロイチさんも、そう思ってたから野良猫として暮らし続けてたんだよね?」

 当然ながらその言葉に返事が返ることは無かったが、クロニは返事を聞いたように満足げな微笑みで植え込みを出た。

 空には灰色の雲が立ち込め、そろそろ夕立が来そうだ。クロニは涙をこらえるような笑顔で空を見た。そうして、いつまでも空を見ていた。

 

 一方のベルは、どことも知れない細道を当ても無く歩いていた。酷使された足はズキズキと痛み、走ることは叶わない。しかも、夢中で走り続けたために方向感覚を失い、もはや戻ることも出来なかった。日の長い夏とはいえ既に刻限は遅く、この細道にいるのはベルだけだ。

 西の空からは青が駆逐され、茜色の夕日が空を染め上げている。その眩しさに目を細めながら、ベルは自分が歩く道の先に二つの影を見た。後ろから斜光に照らされてその顔はよく見えないが、学校の制服を着ているので帰宅途中の男子中高生だろう。

 近くまで来るとその二人の顔が多少なりとも判別できた。片方は気の弱そうな背の低い少年で、もう一人は粗暴な顔をした背の高い少年だ。ベルは特に興味も示さず、何気なくその横を通り抜けようとした。その時、彼女の耳に聞こえてきたのはこんな会話だ。

「あ、白猫がいるよ。どっかの飼い猫かなぁ」

「馬鹿、よく見てみろよ。首輪が付いてないだろうが。毛並みだって土で汚れてるし、捨て猫だろ」

 捨て猫――その一言をベルの耳は鋭く拾い上げた。それは彼女が絶対に信じまいとしてきた言葉だった。あの優しい主人が自分を捨てるはずがない。その推察を絶対的なものとして考えていたベルにとって、自分が捨てられたなどということを認めるわけにはいかなかった。

「私は捨てられてなんかない!」

 体中の怒りの全てをぶつける勢いで、ベルは背の高い少年の足に噛み付いた。本来は獲物の肉を引き裂くための犬歯が全力で突き立てられ、制服の上から深く足に突き刺さる。

「いってえっ! 何すんだコノヤロ!」

 噛み付かれた少年は相当に腹を立てたらしく、加減も無くベルを振り払った。受身も取れずに地面を転がるベルを見ても、少年の怒りが収まる様子は無い。

「ちょ、ちょっと、やめといたほうがいいよ」

 小柄な少年の制止も聞かず、背の高い少年は憤怒の形相でベルに歩み寄った。そして今度は明確な攻撃意思を持って横腹を蹴りつける。軽々と宙を舞ったベルの体はブロック塀に叩きつけられ、ぐったりと横たわったまま動かない。その姿を見て、さすがに自分のしたことの重大さに気付いたらしく、少年もそれ以上の手出しはしなかった。

「まったく、猫のくせに生意気なんだよ」

 やり場の無い苛立ちを吐き捨てるような言葉を残して、少年は早足で去って行った。置いてけぼりを食らう形となった小柄の少年は、少し迷うような素振(そぶ)りを見せた後、慌ててベルの元へ駆け寄った。

「だ、大丈夫?」

 (そば)にしゃがみ込んで心配そうな目をする少年に、ベルが感じた感情は心の奥底から湧いてくるような不信感のみだった。

「今さら何よ! 助けてくれなかったくせに!」

 軋む体を何とか起こしたベルが鋭い爪を振るうと、少年の手首に三条の裂傷が走った。突然の攻撃にその手を引っ込めた少年は、驚くような悲しむような顔でベルを見ている。しかしベルが威嚇の唸り声を上げると、少年は一目散に逃げていった。

 再び独りになったベルは、ゆっくりと地面に横たわった。全身を激痛が責め立てるが、立てない程の痛みではない。ただ、立ち上がることすら億劫だった。全てを投げ出したい心持ちで空を眺めていると、様々な思いが心のあちらこちらから滲み出してくる。

――私はどうして、あの優しい少年を傷付けてしまったのだろう。

 彼を攻撃する必要は何も無かった。彼女がそうせざるを得なかったのは、人間全てに対する敵意のためだ。

――私は何が憎いのだろう。

 しかし、本当に憎いのは全ての人間などではない。その憎しみが誰に向かっているのか、彼女は薄々と感じ始めていた。

――お父さんは、私を捨てたのだろうか。

 ベルはその可能性から目を背け続けていた。あの優しい主人を信じていたかったから。ふと彼女は、昨日まで自分の首に巻かれていたビロードの首輪が無くなっていることに気付いた。

――私は、帰ることが出来るのだろうか。

 今となっては、その可能性を考えることすら馬鹿らしい。彼女が住んでいた豪邸がたとえ目の前にあったとしても、そこに帰るべきではないのだ。そこはもう、自分の家ではないのだから。

――私は、どうして生きているのだろう。

 ベルはぼんやりとした頭の中でその答えを探した。彼女がこんなことを考えたのは、生まれて初めてのことだ。しかし、どんなに考えようと答えは見付からず、虚しさばかりが心を占めてゆく。

「あはは……」

 錆び付いたようなぎこちない笑い声が、自ずと漏れ出した。何が可笑しいわけでもない。彼女は、哀れで救いようも無い自分自身を嘲り笑ったのだ。その目には、曇り空の暗い灰色が重々しく映り込んでいる。

 ぽつり、ベルの鼻先に雨粒が落ちた。それを合図にしたかのように、幾筋もの雨滴が地面を打ち始める。夕立だ。初めは弱かった雨足は瞬く間に強まり、黄昏(たそがれ)時の家々は湿った空気に包まれた。

 それでも一向に動く気配の無いベルは、自分の目の前で地面にぶつかっては砕け散る雨の雫を、感情の剥落した瞳で眺めている。彼女にはそれが自分とはまるで関わりの無いもののように思え、濡れそぼった体を豪雨が打ち付けても死体のようにじっとしていた。

――もう、どうだっていい。私の居場所なんてどこにも無いんだ。

 全てが無に帰すような感覚が広がり、彼女の世界が狭まってゆく。

 やがて、ベルは弱々しくしくその身を起こした。蹴られた脇腹が酷く痛むが、体などはどうでもいい。彼女には、もう省みるものなど無いのだ。ただ無心に、足の向くままに、彼女は歩き出した。薄暗い町並みに霞が掛かり、視界は非常に悪い。砂漠を彷徨う遭難者のような頼りない歩みで、ベルは雨の(とばり)に消えていった。

 

 一体どれだけ歩いたのだろうか。ベルは時間の感覚すら失い、ただひたすらに雨の中を歩き続けていた。辺りはすっかり暗くなり、時々街灯が地面を狭く照らしている以外に明かりは無い。両脇に並ぶ民家の窓からは、部屋の明かりと料理の匂いが漏れ出していた。時折、子供の楽しそうな笑い声も聞こえてくる。しかし彼女は、それを羨ましいとは思わなかった。そう思ったところでどうにもならないことが、痛い程によく分かっていた。

 ふと気付くと、そこは見覚えのある場所だった。目の前には道路があり、その向こうには公園が見える。彼女は戻ってきたのだ。ベルは涙をこらえながらその道路を渡った。雨で濡れた道路に血の跡は見えないが、忘れはしない――そこはクロイチが死んだ場所だ。

 ベルは、クロイチの言った意味深な言葉を思い出していた。あの時の態度からして、彼はベルが捨てられたことに気付いていたのかもしれない。それを知りながら話していたのだとすれば、彼が言った『恨んではいけない』という言葉にはどんな意味があったのだろうか。

 そんなことを考えながら公園に入ると、そこにはクロニがいた。滑り台の下で雨を()けながら、泥の付いた前足でひげを撫でている。ベルが前まで歩いて行くと、それに気付いたクロニは少し驚いた顔をした。

「あ、戻ってきたんだね。まったく、急にいなくなるから心配したよ」

 しかしベルはクロニの呼びかけに何も答えず、頭を垂れて下を向いている。その様子を見て不思議そうな顔をするクロニに、彼女は涙声で語りかけた。

「私、捨てられたのかもしれない……」

 クロニの顔を見た途端、彼女の心の奥底に封じられていた感情が一気に溢れ出していた。彼女が相談出来る相手はクロニしかいないのだ。

「これからどうすればいいんだろう……」

 顔を上げたベルは泣いていた。雨が涙を洗い流しても、涙は止めどなく溢れてくる。

「だいじょうぶだよ、だってきみは生きているじゃないか」

 クロニは優しく、しかし力強い声で言った。

「さあ、こっちにおいでよ。そんなところにいたら濡れちゃうよ」

 そう言われたベルは躊躇うような様子を見せた後、おずおずとクロニの隣に並ぶ。広いとは言えない滑り台の下で、二匹は肩を寄せ合って天を仰いだ。激しく降り続いた夕立も、もうじき止みそうだ。

 ベルは隣のクロニに対して、先程自分自身に向けた問いを発した。

「ねえ、あなたはどうして生きてるの?」

「そんなの決まってるよ。死んでないから生きてるのさ」

 答えになっているような、なっていないようなクロニの返答に、ベルはさも可笑しそうに笑った。そんな考え方も悪くない。そう思った彼女は、ふとクロイチが死ぬ直前の顔を思い出した。死を悟りながらもどこか満足そうな、賢者の表情を。

 自分も、あんな風に潔く死ぬことができるのだろうか。そんなことを考えている自分が可笑しくなり、ベルはもう一度笑う。いつの間にか、死や運命に対する恐怖は無くなっていた。

「ほら、雨が止んだよ」

 クロニの言う通り、もう雨は上がっていた。さっきまで絶え間無く騒いでいた雨音は鳴りを潜め、梢から滴る雫が時折空気を揺らす。

 外灯に照らされた夜の雨上がり、二匹は狭い雨除けから這い出てきた。神秘的な程に静かな公園の中、クロニが滑り台の上へ登りながら言う。

「この上は、ぼくのお気に入りの場所なんだ。来てごらん」

 夜闇に染み渡るようなその声に導かれるまま、ベルはクロニの後に付いて行く。滑り台の上で、二匹は静かに座った。空を見れば、雲の切れ間から祝福の月が覗いている。見紛うことのない、まさに真円の満月だった。


   あとがき

 

 え〜と、まず申し上げたいことがあります。猫嫌いの方、こんな話で申し訳ありません。そして猫好きの方、握手握手。

 

 申し遅れました、猫と猫耳が大好きな猫かぶりの鬼童丸です。

 今回は何とも猫々しい小説になりました。最初は完全に擬人化で書くつもりだったのですが、小説という表現方法が擬人化に適さないということにプロット段階で気付いたので普通に猫のままです。まあ、猫同士で会話したりしてるので半擬人化みたいなものですかね。

 

 今回の作品ですが、現実世界を舞台にしながら幻想的な雰囲気を出すことに力を注ぎました。自分は読者の視点になれないので分かりませんが、多分それなりに達成出来てると思います。

 元来、自分は物語の構成を練るより描写を書くのが好きな作家なので(ていうかストーリー作りが下手なので)こういうテイストは書きやすかったりします。読み手次第では「装飾過多な文章」だとか言われそうですが、自分が小説を書く時のコンセプトが『美辞麗句』なのでご容赦ください。

 

 あと、一つ言い逃れを。

 やたらめったら台詞が多かったりしますが、自分の考える限りでは全部大切な言葉なので不可抗力です。必然です。

 ですが、「もうちょっとどうにか仕様があっただろう」とつっこまれたら……甘んじて受けます。それが正論です、すいません。

 

 

 そういえば、少年ジャンプの某忍者マンガに鬼童丸というキャラがいることを先日知ってショックを受けました。

 どうやら自分は「知らない作品とやたらネタかぶりする」という奇病にかかっているようです。パクリなんて言われることもしばしば……。

 思い返せば、東の方のシューティングゲームとかぶったこともありました。その頃は全くの無知だったので仕方ないのですが、今にして思うと恐ろしいです。

 

 さて、余ったスペースで内容の解説を。

 自分が猫好きなのは前述の通りですが、それだけでなく猫の生き方にも興味があります。猫は生まれた時の縄張りで死ぬまで暮らすとか、猫は最期を人に見せないとか、そういうことを聞くと猫にも人生観というものがあるのではないかと思ってしまいます。まあ、生物学的に考えれば猫は死の概念を理解できないそうですが。

 そうして猫の気持ちを考えているうちに、自分の創作意欲が騒ぎ始めました。変化や進歩を求めず与えられた運命に従い続ける猫たちの姿を、小説で表したくなったのです。そして、なんだかんだで書き上げました。

 

 そういえば、『カモメに飛ぶことを教えた猫』という物語をご存知でしょうか? 外国ではかなり有名な話なのですが、その物語の中では猫は人語を話せて、さらにそのことを人間に知られぬようにしているのです。不可知論ではありますが、そういう考え方も面白いですよね。興味のある人は読んでみてください。きっと大切なことに気付くと思います。

 

 それでは、これにて幕引きとさせていただきます。

 

 

 

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