『ぅにゃあぁ』

 気持ちの良い休日の昼、私はスーパーのレジ袋を持って、家路に就いていた。

 男の一人暮らしなら、今日のスーパー通いだって必要はなかっただろう。我が家の可愛い同居人の為に買い出しに出掛けているのだ。

 レジ袋の中には、主に猫缶が入っている。我が家の二匹の猫--アビシニアン様とスコティッシュフォールド様--の為の物である。缶入りのウェットフードだけ与えていると硬い物を噛めなくなって悪いのだが、この前十リットルくらいまとめて買ったキャットフードがまだ沢山あるから、適当に混ぜてやれば問題ない。

 

 ところで、私の歩く道路の右手には、深緑の森がある。

 別にこの市が田舎という訳ではなくて、あれは神社の裏山だ。結構大きい八幡神社で、ここら辺りの人間は、正月の初詣といえばあそこに行って済ませる。とはいえ、特別な神社という訳でもないから、今日のような日は鳥居からのぞいても、境内に人は殆ど居ない。微かに子供の笑い声がするのは、隣接する幼稚園のせいである。

 

 私はその正面の鳥居をくぐって、境内に足を踏み入れた。買い物帰りに丁度通る道で、なんとなくいつもお参りしているのだ。

 案の定人の居ない境内を進んでいき、屋根の付いた手洗い場の、その澄んだ水を竹の柄杓なんかで汲んで手を洗うと、その冷たさが心地良い。

 

 さあ、参るかと柄杓を元の場所に置いて、前に向き直った瞬間、私はびくっとして立ち止まった。

 猫が居た。三毛で、首輪は付けては居ない。野良の割には綺麗な方。

暢気に「ああ、参拝客さんね」なんて顔をしてこっちを見た。割と整った顔をしていた。

どうにもおかしい。人間慣れしてるみたいだし、そこら辺りの人に飼い慣らされている駄猫のような気もするが、それにしては見たことのない猫だ。

 先方は、私の困惑など気にもせずに、足下にすり寄ってきた。うにゃーん、とか言って仰向けになったりして、可愛らしいので、私はしばらくの間そいつの白いお腹だとか、中がピンクな耳--猫類全般に共通して耳は敏感な場所であり弄ると喜ぶ--なんかを撫で回していた。

 

 とは言え、私だって長居するつもりはない。

適当にぽんと頭を叩いたりした後に立ち去ろうとするのだが、そうすると猫はみゃあとか鳴いて、呼び止める。気にしないで歩いてくと、とことこついて来て、何だか居た堪れない気持ちになる。

 そうだ、と思って、レジ袋から小さい包みのパックを取り出した。百円くらいの、おやつのような位置づけの物で、我が家の猫の好物だからたまにやっている。一つくらいなら分けてやっても良いし、まあ参拝料みたいな物だろう。

 パックを開けて、少し迷って、結局近くに落ちていた大きい木の葉の上に出してやる。丁度良い皿代わりになるだろう。

「ほら、食え」

 言うと、猫は餌に鼻を近づけて、少し迷った後咀嚼を始めた。私はしばらくそれを見ていたが、猫が餌に夢中になっているのを確認してから静かにその場を去った。

 

 それにしても、神様にお参りする筈なのに、実際に社の前に立ってみるとそこにあるのは大きな賽銭箱で、賽銭投げに来てる様な気分になる。

 五十円玉を一枚投げ込んで、手を叩いて目を閉じた。

 思うのは、家に居る二匹の猫の事。あいつらが病気をしないで、元気で居られる様にと祈っておいた、そうだ、と思って、さっき出会った猫の事も頼んでおく。

 あ、自分の事を忘れるのは馬鹿みたいだ、と思って、最後に付け足してみて、目を開けてから、ちょっと願い事が多すぎるかな、と思って、五十円追加で投げ込んでおいた。

 ふと隣を見ると、さっきの猫が居た。

「またお前か、食べ終わったの?」

 猫は、足下でみゃあと鳴いた。その後に鼻の頭に微かに付いていた食べかすを舐め取った。

「あー、もう……」

 頭を撫でてやると、ごろごろとのどを鳴らしてすり寄ってくる。目を閉じて、幸せそうな顔をして。

 はっきりいって、私は早く帰りたい。帰りたいが、それはそれで後ろ髪を引かれる思いになる。

 それでもどうにか手を離して、私は身を翻した。そのまま、すたすたと歩き出す。

 五メートルくらい行った時、私は気になって後ろを振り返ってみた。

 猫は、私など気にもしない様子で社の方を向いていた。気まぐれな奴だ。

 ま、猫なんてそんな物だよね、と妙にほっとして、私は姿勢を直して歩き出そうとした。

 

 丁度その時だった。

 後ろから声がした。女の子の声だ、と思った。微かに舌足らずさを残した、それでいて不思議と芯の通った声。

 

 --彼に、幸あらんことを--

 

 確かに、そう聞こえた。私は、反射的に振り返った。

 賽銭箱の前に、ちょこんとさっきの猫が座っているだけだった。猫は私に気づいて、振り返って鳴いた。

 

 --みゃあ?

 

 私達は、見つめ合っていた。一瞬の様にも、ずっと果てしなく続いてる様にも感じられる、それほどの間だった。

 

 しかし、私はすぐに歩き出した。家では二匹の可愛い猫が待っている。あまり待たせても拗ねるだろう。

 あの声は、気のせいなのかもしれないし、ひょっとしたらそうではないのかもしれない。いずれにせよ、彼女は、その問いに答えてはくれなさそうである。猫は気まぐれだから。

 

 石畳の端に、ついさっきの木の葉を見つけた。それは、微かの湿り気だけを残していた。

 

 

 

 

  『夏伽草子』

 夏の日の昼下がり。田舎の小さな駅のベンチに座って、私はもぞもぞと体を動かした。

 

 暑いのではない。蒸し暑いのである。

 駅というのは、日除け雨除けのトタンの屋根の中に熱気が籠もるとかで、大体蒸し暑い物である。それでも、客の多い駅なら、空調の付いた、ガラス張りの待合室くらいはあるのだろうが、全くの田舎だからそういうのは期待出来ない。

 そう、田舎なのだ。止まる電車は二時間に一本。特急はもう何本か通過して、止まればいいのにと思うのを通り越してただ忌々しく思うようになった。

 まあ、時刻表も調べもせずに来た自分が悪いのだから、文句の持って行き所がない。肌とシャツの隙間に汗のある、気持ちの悪い感覚をどうにかしようと、シャツをはたはたと扇いでみたが無駄だった。

 

 それどころか、暑すぎて気持ち悪くなってきた。熱中症の初期症状とか言う奴だろうか。まあ、考えてみたら、昨夜は碌に寝ていない。それで、炎天下に慣れない田舎道を結構歩いた。気持ち悪くなって当然かもしれない。

 行きに買ったペットボトルのお茶を飲んで、私は膝の上の、鞄の上に突っ伏した。想像以上に自分が疲れているのに気が付いて、仮眠を取らないとまずいと思ったのだ。幸い、まだ三十分は寝れそうだ。電車が来れば、流石に音で起きるだろう。

 それにしても、私は座ったまま、椅子にあわせて、体を反らせるようにして眠ることが出来ないのだが、あれが出来る人っていうのはどういう感覚をしているのだろうか。

 それが出来ないなら、反らしはしないまでも普通に座ったまま眠るという手もある。だが、私はあれも出来ない。筋肉を緊張させたまま眠るというの自体が理解出来ない。残された選択肢は、こうして突っ伏して眠るのだけだ。

 夢現に、片側の肩に微かな重みを感じた気がした。そっか、人に寄りかかって寝れば良い、と妙に納得して、私の意識はそこで途切れた。

**

 電車の音は聞こえない。感覚から言って、まだ十分くらいしか寝てないと思う。ただ、妙に涼しい風を感じる。天気予報でも今日は一日中不愉快な暑さになると言っていた筈で、不思議だが、何はともあれ助かる。うつらうつらと、暫くその風を受けて、心地よく眠り続けようと思ったが、段々冴えてきてしまう。それにつれて、違和感が鎌首をもたげて来たので、私はやっと顔を起こしてみた。

「寝てても大丈夫ですよ。電車はまだ来ませんから」

 透き通るような声だった。ふいに声のした方を確かめると、細身の、白いワンピースを着た、高校生くらいの少女がそこに立っていた。

「あっ、すみません」

「いえいえ、御気になさらずに。都会の方の方、ですよね?」

 肯定しておく。なるほど、珍しいと思って、私を眺めていたのかもしれないし、それよりも多分心配してくれていたのだろう。この少女の心遣いを、ありがたく思う。

「あの、隣に座っても良いですか?」

 断る理由もないから「あ、はい、どうぞ」とか言って頷くと、彼女はきっちりと私の隣に座ってきた。間をあけるのも失礼だ、とか思ったのだろうか、と勘ぐったが、表情をみる限りではそういう様子もない。狭いベンチで、彼女の細い腕が私の体に軽く触れて、妙にどぎまぎして、体をもぞもぞと動かした。大の大人が、情けない。

 しかし、よく見ると肌は硝子の様に白く透き通る。黒い長い髪が黒鉛なら、漆黒の瞳もまたそれ。

「あの、地元の方ですか?」

 気がつくと、思わず聞いていた。こんな田舎に、こんな子が居るとは思えない。

「別荘があって、夏の間だけこっちに来てるんです。あなたは?」

 成る程、ここだって一応辺り一帯にある避暑地の端っこみたいな物だから、別荘なんてのもあるのかもしれない。納得しつつ、聞かれた事に答えておく。

「いや、都内ですよ。ここには、知り合いの実家がありまして」

「御知り合いの実家……ですか?」

 怪訝な顔をされて、初めてそれでは理由になっていない事に気がついた。説明を端折ってしまうのは、私の悪い癖なのだ。

「ええ、話せば長くなるんですが」

 どうせ、まだ十分以上あるのだし、話せるだろう。別に断ってしまえば話さなくても済んだだろうが、不思議とそんな気にはならなかった。迷惑だろう、という考えはちらりとだけ頭の中をよぎったが、それだけだった。

 私は、語り出した。

**

 大学に入学した頃、私は周りの連中とは碌に連まず、殆ど一人で居た。社交性云々と云うよりは単に周りが馬鹿馬鹿しく見えたからで、それなりの名門校ではあったけれども、所詮こんな物かと思っていたのだ。

 もっとも、そういう奴は案外多かったように思う。そういう連中同士では多少は連んだが、私が知っているだけでも数人は居た。積極的に交友関係を広げなくてもこれだけ居るなら、本当はもっと多かったのだろう。

 その中に、いつも文庫本を持ち歩いている、茶髪気味のショートへアの娘が居た。本を読んでいない時は、きっとしたきつい目をしているのに、本を読んでいる時だけは透明な、少し虚ろな様な目をしていた。もっとも、読書中の目なんて横からのぞき込むわけだから、角度の悪戯かもしれないと言ってしまえばそれまで。

 私も多少本は読むが、流石に彼女には負けていたと思う。鞄の中に文庫を十冊くらい常備していて--大体誰も知らないような、古本屋の隅に埋もれている様な本である。大方、名の売れた作家のはとっくの昔に読み尽くしてしまっていたのだろう--、良く見るとその文庫は毎日別の物に変わっている。多分、大学には本を読むためだけに来ていたのだろう。

 だから、彼女はいつも本を読んでいて、これっぽっちも私と関わる要素が無かった。私は出来ればこの変人と親交を深めたかったが、本当にきっかけが無かった。

 きっかけを得ようと思って、私はいつも彼女の後ろを通って、さりげなく自分が話題を共有出来そうな本を読んでいないかどうか確かめていた。

 ある日、私が後ろを通りかかった時、彼女は泉鏡花の文庫を読んでいた。鏡花なんて碌に知らないが、そもそもここ二週間くらいは、ずっと私の知りもしない様なのを読んでいたのだから、圧倒的に良く思えたのだろう。後ろから、声をかけてみた。

「鏡花?」

 彼女は、怪訝そうに振り向いて、頷いた。

「殆ど読んだことないんだけど、気になってて。何か良いのあるかな」

 どもりながらどうにか言うと、彼女は持っている本を差し出してきた。

「それの百九十六頁からの奴。後で返して」

 彼女は自分の鞄から新しい文庫を取り出して、それを読み始めた。情けないようだが、私はこれでもとりあえずの成功を得たと思っていた。

 次の講義の時間で、鏡花を読んだ。読んで、思わず笑い出しそうになった。男が、女の家に通うが、いつも玄関の前で諦めて帰って行く。ずっとその、男の心情が書かれている。

 一気に読み終えて、返す時多少赤面しながら謝ったか何かした様な気がする。彼女は、別に良いからと言って「これなんかも面白い」とか言って、別の文庫を差し出してきた。

 

 そこからどうやって付き合うまでに至ったかは良く覚えていない。気が付いたら、僕達は恋人同士だった。気の合う相手との、良い恋だった。

**

 語り終えると、彼女は「それで、今その人とは」と聞いてきた。

「いや、事故で死にまして。もう一年くらい前で、墓がこっちにあるんで、多少ずれましたが命日の墓参りです。そろそろ盆なんですが、それはそれで私の家の方が忙しいので」

 少しの沈黙の後、彼女はそうですか、と言った。それっきり、また沈黙が続いた。蝉の鳴く声が、妙に涼しい駅のホームに響いていた。

 沈黙を破ったのは彼女だった。

「あの、あなたは、苦しいとか、死にたい、とか思いません?」

 唐突に聞かれて妙な問いだと思った。しっくりこないようで、その理由は良く分からない。結局、笑って答えてやった。

「確かに、そいつが死んだ後は落ち込みました。それでも、今日お墓に行って、あいつは居ないけど、いや、だからこそ前向きに生きていこう、って思えたんです。優しく見守っててくれ、って祈って、帰ってきました」

 彼女は、ふっと微笑んで、目を伏せた。

「そうですか……」

「はい」

「もう、電車が来ますよ」

「え?」

 時計を見ると、丁度時刻だった。電車の振動を、遠くに感じる。

 私がベンチから立ち上がっても、彼女は座ったままだった。

「あの、乗らないんですか?」

 彼女は、ふっと微笑んだ。

「私は、乗らないんです」

「え?」

 憑き物のが落ちた様な表情だった。

「あなたを突き落とすつもりでした。寂しいから、誰かを巻き込もうと思ってました。

 でも、あなたの話を聞いて、そんな気が失せちゃったんです。嫉ましいけど、それでも--」

 

 あなたが前を向いて歩いていけるように、私も見守っていてあげます--

 

 そんな言葉が、聞こえた様な気がした。

 

 気が付くと、彼女の姿は掻き消えて、後には空のベンチだけが在った。

 電車がホームに入線して、暑苦しい風を吹かした。

 私はしばらく空のベンチを見つめていたが、発車ベルが鳴って、慌てて車内に飛び込んだ。

 先程までの心地よい涼しさと比べたら、車内の空調による、頭の痛くなる様な涼しさなんて、全く酷い物だと思った。

**

 後に聞いた話によると、数年前にこの駅で飛び込み自殺があったとの事である。

 

 

 

 

 

 後書き

 

 どうも、新入りの隼鷹と言います。「じゅんよう」と読みます。変換は「ハヤブサ・タカ」とするのが適当でしょう。

これは帝国海軍の空母の名前でして、元々は客船だった物(といっても有事改造前提で、軍の援助を受けて建造された豪華客船なんですけどね)を空母に改造した艦なのですが正規空母と同等か、それ以上の活躍を見せ帝国海軍に貢献した艦であり、その艦形もまた元商船故に乾舷が高く魅力的でして(そろそろ面倒になってきたので略します。)

 

 それでは、そろそろ作品についての話に入りたいと思います。

『ぅにゃあぁ』

 最初はもう一本の方だけで出しました。そいつを出した後に一週間ほど締め切りがずれ込んだので、ページ数を考えてこいつを書きました。

 

この作品の着想を得たのは、文芸同好会の活動が終わった後に、先輩がたと青物横丁に向かっていた時でした。例の小さい社(鳥居をくぐってから体を左に九十度回さないと参拝できないあれです。)の近くの家に、それはそれは可愛らしいぬこが居たのです。鬼童丸さんが「そういえば擬人化書きたいんですよねぇ」とか言ってるのを何と無く聞きつつ、私は構想を固めたのでした。それだけといえばそれだけです。

 

『夏伽草子』

 別に、深い事を書こうと思った訳じゃ無いんです。夏といえば白ワンピの令嬢だよね、幽霊も出したい、そういえば京急の駅熱いよな、それにしても相棒系の可愛いヒロインも出したい、そんな事をぼんやりと考えつつ、殆ど無我の境地で書いた結果がこれです。

 

 因みに、鏡花はざっと明治から昭和まで活躍した作家でございます。幻想的な文体が特徴の作家で、この冊子が置いてある図書室の文庫本コーナーの『ちくま日本文学(全四十巻)』の中にありますので気になった方はどうぞ。因みに、敢えて鏡花の名前を使った理由は『友人が読んでたから』というだけの物です。

 

 

 それでは、これにて閉幕とさせていただきます。またいつか、どこかで(ま、次の冊子でですね)御会いしましょう。