『魔女、もとい猫』

 昼下がりだった。殆ど日の射さない、まともな道も無い深い森の中。ぼくは皮のジャケットを着、猟銃を持って森の中を歩いていた。

 ぼくはハンス。この森で十二歳の時から猟をしている猟師だ。もう十八になって、一人前にやってる。

 

 それにしてもまずい。最近この辺りで獲物を見ないのだ。そんなに酷い乱獲はしないから狩り尽したという事はないだろうし、多分ぼくを恐れて移動しちゃった。

 そろそろ猟場を変えた方が良いかも知れない。ぼくは普段あまり行かない森の深部に足を向けた。ちょっとした下見のつもりだ。木の幹の傷(獲物が引っかいてできる)とか狸の昆虫の食べカス、ウンコ、ちぎられた葉っぱなんかの状況で獲物が居るかどうかを判断するのだ。

 歩き出した足は落ち葉を踏んで、ざっざっと音を立てながらぼくは森に分け入っていった。

       *  *  *

 森の奥は好猟場だった。『痕跡』を見るだけでも新しい物がうようよある。今日、早速一匹くらい持ち帰れるかも知れない。

 しゃがんで狸のウンコを枝で突っついてニヤニヤしていた時、森の奥から微かに軽やかな水音がした。清水があるのだ。岩肌から水が湧き出し、苔がむし、若干の池を形成した後に自然と地面に吸い込まれる。そういう清水は動物にとっては格好の水場で、ぼくが休憩を取るのにも丁度良いはずだ。

 水音のする方にぼくは歩いた。茂みを掻き分け、木の枝を鉈で払って進む。水音は段々と大きくなり、近づくにつれ木々の先が明るくなる。根腐れを起こすので池に近すぎるところには大きい木は生えないのだ。そして目の前が開けて、暗い森に慣れた目にはまぶしい位の陽光が水面に輝いて目がくらむ。そして気付く。

 長い栗毛の女の子が裸で水浴びをしていた。ぼくに背を向けていて、栗毛の脇から肌色の、余分な肉の付いていない背中が光を反射して白く見えた。

 ぼくは物音を立てたらしかった。女の子はゆっくりと振り向いた、ように思った。多分、時間にしたらコンマ数秒だ。でも、その時間は永遠の様に感じられた。

 とび色の瞳だった。水に濡れた薄い唇。胸を手で被っていた。とっさに口が開く。

「あ、あの」

「ぃやっ!」

 少し幼いけど、思春期の女の子の声。

 彼女は空いていた手をぶんと振った。同時に頭に衝撃を感じて、ぼくは後ろに倒れこむ。宙を舞う小石が見えて、これがぼくに当たったのかと思った。それと女の子の白い肌が目を射してくらっときた。

 そのままぼくは倒れ込み、気を失った。

       *  *  *

 じんじんと頭が痛んだ。どうにか目を覚ますと板張りの天井が見えた。

 ベッドから起き上がるときには沁みるような痛みが走った。起き上がって見わたすと、ぼくの小屋のよりは上等な寝室だった。ふと、ちゃんと毛布がかけられているのに気が付く。

 運んでくれたのだ。多分、彼女が。って事はここはあの子の寝室だろうか。毛布に顔を近づけると、少し甘い匂いがした。……こほん。

 その時、窓の外からつんざく様な鳥の鳴き声がする。

「キェーキェーッキェーッキェーッ、キェキェッ」

 びっくりして窓の外を見ると、白と茶の羽の猛禽が森を背後にして窓枠に立っていた。タカ? いや、それにしては小さい。うろたえていると廊下で足音がして扉が開いた。

「起きたの」

 池で叫んだ声と同じ声。彼女はさっきとは違って薄い桃色の服を着ていて、ぼくを一瞥してから窓の外の鳥に視線を向けて言う。

「その子はテレスティアル、テル。ちょっと窓開けて」

 訳が分からないままに窓を開けるとテルは部屋の中に飛び込んできた。ぼくの顔の脇をすり抜けて部屋の中を飛び、少女の肩に止まって耳を軽くくわえる。「くすぐったいよ、ばか」とタカ、みたいなのと会話している少女をぼくは呆然として眺めていた。

「それ、タカ?」

「ハヤブサ。タカなんて全然下品な鳥じゃない。ねぇ、テル」

 何が違うんだよ。でも、少し嬉しそうにして彼女の頬に身体を擦り付けてるテルを見ると何も言えなくなる。猛禽なんて人には殆ど懐かないのに。

「ひょっとして、雛鳥から育てたの?」

「ううん、半野生」

 ぼくは口をあんぐりと開けた。こいつ、ただ者じゃない。そう言えばこんな場所に――

 ぼくの思考は停止する。ありえない。なんで、こんな子が、こんな森の奥深くに。街まで歩いたらゆうに数時間はかかって、ぼくですらうっかりすると迷いそうな所なのに。

 そんな疑問がぼくの表情に浮かんでいる筈なのに、彼女は全部無視してぼくに質問を投げかける。

「ねぇ、あなたの名前、なんていうの?」

 少し迷ってから言う。

「ハンス。君は」

「フェルマータよ」

 言ってから、彼女は凄く意地悪そうな笑みを浮かべて言い足した。

「魔女よ」

       *  *  *

 フェルマータの小屋には書庫があって、ぼくはこぶし二個分くらいの厚さのある本を整理していた。持ち上げるだけでも腰に響く。

 いや、ちょっと待て。勢いで押し切られたけど、おかしい。部屋の隅に座って引っ張り出した本を読んでいるフェルマータに向けて叫ぶ。

「なんでぼくが君の書庫の整理してるのっ」

 彼女はぼくを見てああ、という顔をして言った。

「魔女の旧い掟でね。『魔女の素肌を見た人間はその代償を払わないといけない』っていうのがあるのよ。見られた領域別に代償の重さも決まってて、ハンスは背中だけで良かったわね。全部見たりしたら」

 全部という言葉の意味をうっかり想像してしまった。手で覆われた膨らみの薄い胸とか、おへそとか。

 いけね。邪念を振り払ってからぼくは聞く。

「したら?」

「目玉二つか心臓か魂よ。複数の選択肢を持たせて、一個だけ相対的に軽くして相手を誘導するのよ」

「商人のコスい商法かよ」

「まあ、今考えた嘘だけど」

 そのやけにコスいのを今思いついたのか。

「せっかくだから労働力として活用してやろうと思って。女一人じゃ重い物運ぶのは大変なの。こういうのは魔法でやれないし」

「なんで出来ないの、やればいいのに」

「魔法使った分だけ疲れるの、だから意味ないじゃない」

「それでぼくにやらせるのか……」 

「どうせ帰れないでしょ、私が道教えてあげないと」

 そうなのだ。泉で気を失って気が付いたらここに居たから、実は現在地が良く分からない。太陽から方位を計算して勘で帰れないこともないけど、正直無謀だ。日が暮れたらどうにもならないし。

「コスいなぁ」

「ま、私を脅して聞き出すほどガッツがあるようにも見えないしね、ハンスは。重いもの運ぶくらいならブツブツ言いながらやってくれそう」

 その通りなので何も言い返せない。ぼくが黙って作業をしていると、フェルマータは恐ろしい事を言った。

「そこの本棚空になるでしょ、そしたら部屋の隅に寄せて欲しいんだけど」

「……これ?」

「他にどれがあるのよ」

 そんなこと言ったって、頑丈なカシで出来た本棚はぼく五人分くらいは重さがあるはずだ。ぶつくさ言いながら試しに少し押してみるけど、当然動きそうに無い。

「どうやるんだよ」

 投げやりに聞くと、フェルマータは立ち上がってぼくの後ろに周りこみ、後ろからぼくの右手首を掴む。彼女の体温が伝わってぞくっっとした感触が全身に走る。

「手、動かすわよ。力抜いて」

 耳のすぐ後ろから声がし、ぼくは少し震えた声で「うん」と返事をした。フェルマータはぼくの手を持ち上げ、本棚に向ける。

「もう少し力抜いて……うん、それでいい。行くわよ」

 彼女はそう言ってぼくの手をほんの少し持ち上げた。瞬間、本棚がすっと浮き上がった。彼女はぼくの手を少しずつ動かす。

「ぶつけないでね、左、左……ちょい右、ばか、ちょっとよ揺れるでしょ」

 ぼくは極度に緊張していた。フェルマータの体温は気にならなくなって、神経の全てを本棚に集中していた。フェルマータが何かしたのかもしれないと思ったくらいだ。

 やがて本棚は部屋の隅の隙間にきれいに収まった。フェルマータはぼくの手を下げ、彼女の手が手首から離れた瞬間に、どっと腕が重くなった。

「こうすれば疲れるのはハンスだけなんだけど」

「おい!」

「良いじゃない、自分の五倍の重さの疲れよ。普通の人間は一生経験出来ないんじゃない? 明日は筋肉痛、っていうか明後日にも響くんじゃない?」

 それからぼくはとにかく何か言わないといけない様な気持ちになって、最低だとか、どうしてぼくがこんな目に遭わないといけないんだとか、さっさと帰り道教えてくれとか色々な事を言った。そしてフェルマータは意地悪な、ちょっと嬉しそうな笑顔を浮かべて笑いながら、ぼくのボヤキに一々コスい言葉を返すのだった。

       *  *  *

 フェルマータの小屋には書斎と書庫と居間と寝室しかない。しかも居間は物置とキッチンになっていて、フェルマータの生活空間は実質書斎だ。あとは寝室で寝るだけ。

 だからぼくは書斎に案内されて、遅い昼ごはんを振舞われた。質素だけど暖かい食事で、持ってた携行料理と一緒に食べるのが馬鹿馬鹿しかった。

 食後には熱いマグカップを渡された。

「これ、大分疲れが取れるわよ」

 オレンジ色の液体を見てレモネードと思い口を付けると、熱い甘みと酸味が口の中に広がった。しかもちょっと辛い。

「これ、ただのレモネードじゃなくてなんか入ってるね」

「生姜が入ってるの」

「なるほどなぁ」

 そう言いながらぼくは彼女の書斎を見渡す。狭い部屋に紙と訳の分からない実験機械が乱立していて、部屋の隅の止まり木にはハヤブサのテルが止まっていてぼくと目が合うと少し首をかしげた。

 質素なんだけど、とても森で自給自足の生活を送ってる様には思えない部屋だ。ぼくは彼女に尋ねる。

「どうやって生活してるの?」

「魔法の研究とか、あと薬草調合したりして、稼ぎはあるわ。軽い荷物はテルに運んでもらってるの」

「生活用品の確保とか、買いに行くの大変じゃない?」

「最近の郵便屋はお金払えばここまで運んでくれるのよ、凄いと思う」

 ぼくだって凄いと思う。なんだそれ。聞くと「公営じゃなくて私営のだから」と微妙な返事。

「さてと、そろそろ行きましょうか。あんまり引き止めてもあれだし」

「ああ、うん……ところで、もう夕方だけど」

 既に日は傾いていて、とても日没までにぼくの小屋には帰れそうに無い。

「ああ、大丈夫。あっという間に着くわよ」

「え?」

「私は魔女よ」

 フェルマータはにいっと笑った。

  

 ぼくより後に小屋から出てきた彼女は黒いいかにも『魔女』という服装をしていた。聞くと正装だとか。肩の上には足に小包をくくり付けたテルを乗っけている。

 そして、右手には箒を持っていた。魔女の箒。飛ぶ奴。

「テル、行っていいわよ」

「キッ」

 テルは短く鳴いて茜色の空に飛び立っていった。すぐに木々に隠されてぼくらからは見えなくなる。

「さて、私達もいきますか」

「不思議なんだけど、箒で飛ぶのなんて凄く疲れるんじゃないの?」

「箒は使ってる木の生命力で飛ぶの。樹齢千年以上の老木から切り出して、上手く加工して管理に気を遣ってやれば百年は死なないのよ」

 なるほどなぁと思っていると彼女は箒にまたがってぼくを見る。

「乗って」

「……どこに?」

「私の後ろ。で、お腹に手回して」

 遠慮したくなってとっさに思いついた言い訳を言う。

「これって、バランスとか難しいんじゃ」

「ちゃんと勝手に安定するようになってるわよ、バランス取れば」

 駄目じゃん! それでも彼女が「乗って」と睨んできて、ぼくは渋々箒にまたがった。フェルマータが大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろう。

「……ね、ハンスは私を警戒しないのね」

「え?」

「ううん、良いの分かった。――じゃあ、行くわよっ!」

 彼女が地面を蹴った瞬間、箒はぶわっと浮き上がって加速した。体が後ろにずれる嫌な感触がし、ぼくは必死にフェルマータの腰にしがみ付いた。なりふり構ってる場合じゃない。こんな速度で地面に叩き付けられたら、死ぬ。

 風を切って箒は森の木々を抜け、高度を増していく。耳が風を受けて、嵐のような風切り音がする。

「流石に二人乗りは加速が悪いわね!」

 フェルマータが風音に負けないように叫んだ。これで加速が悪いって、じゃあいつもはこれの二倍なのか。

「あ、下見ると怖いよ。バランス崩すと大変だから目瞑ってて」

「かえって怖いってば」

「意識飛ばしとく?」

 ぼくはやめてと言って、極力下を見ないようにしてフェルマータの腰にしがみついていた。足の下は空中で、そのずっと下に地面があって、やけにふわふわする中で、胸で彼女の体温を感じていた。

「ねぇ、ハンス」

「何だよ」

「今更だけど、あなたの家ってどっちにあるの?」

「……とりあえず南に飛んで」

「えっと、ちょっと待って、太陽があそこにあるから、今は夕方だから、太陽が昇るのは東で……」

「あっちの方! とりあえずぼくが指さしてる方に行って!」

 箒は一八〇度の急ターンをかました。

 

 あたりは大分暗くなっていたけど、どうにか見覚えのある川が見つかってそこから道を辿り、遂に上空からぼくの小屋の屋根が見えた。家の前に降ろしてもらう。本当にあっという間に着いた。

「あんまり私を甘く見ちゃ駄目よ、っていうか甘く見てたでしょ」

「ま、まあ」

「じゃあね。もし次会ったらただじゃ済ませないから。腕くらいは取るから」

 ぼくははっと気付いた。あ、そうか。もう次会う事も無いのだ。

 フェルマータは箒に乗って飛び立とうとしていた。彼女の後姿を見ていると何かむかむかとした感情が胸の中でうずいた。

「ね、ねぇ、今度遊びに行っても良い?」

 思わず声を出していた。言ってから馬鹿馬鹿しい台詞に後悔したけど、撤回する気にはならない。

「何、何も聞いてなかったの? ばかなの」

 彼女は向こうを向いたまま低い声で言った。

「いや、だから……ほら、たぶん猟場の近くだから、行けるかなって」

「別にわざわざ会う事ないでしょ」

 いや、うん。確かにそうかも知れなかった。でも、だとしたらこのむかむかするのはどこにやったらいいんだ。感情の最大公約数を必死に手繰って、何か、何かないのか。

「もう会えないのは、寂しい、から」

 消え入る様に言った時、フェルマータががばっと振り向いた。彼女の顔が夕日を浴びて、やけに赤く見える。彼女は箒を飛び降りてぼくの法にずかずかと歩いてきた。ぼくの目の前で止まって言う。

「ば、ばか」

「なんだよ、うわっ、やめ」

 フェルマータは足でぼくのすねをがしがし蹴った。結構痛くてぼくが後ずさりして距離をとると彼女は服のポケットから折りたたまれた白茶けた紙を取り出した。

「これ、受け取りなさい。そんなに離れてたら手が届かない」

「うん……ちょ、蹴るな、やめろって。なんだこれ」

 逃げてから紙を開くと森の地図だった。一目見てかなり詳細だと分かる。

「ちょっと蹴らないからこっち来て」

「なんでだよ」

「私の家を書き込むの。ちゃんと書いておかないと分からないでしょ」

 ぼくがびびりながら近づくと、フェルマータは「地図を開いてて」と言った。言われたとおりにすると彼女はとんとんと地図上の一点を叩く。マークが刻印された後、その下に『フェルマータの家』の文字が浮かび上がる。

「これでいつでも来れるでしょ」

「あ、まあ、うん。ありがとう」

「ばか。じゃあ、今日はもう行くからね」

 そう言って、彼女は箒に乗って飛び立っていった。

 

 フェルマータが行ってしまった後にぼくの小屋を眺めると、いつもどおりのぼろい森の小屋もやけにきれいに見えた。手の中には森の地図の、乾燥した紙のくすぐったい感触がある。

 予告通り遊びに行くとしたらいつになるのか。開き直って明日押しかけるべきだ。たぶん。明日行けば明後日も、明々後日も行けたりして。

 夕日は暮れて、森は暗闇に包まれた。小屋には灯りがともり、ミミズクの声が森の奥深くから微かに聴こえていた。彼女も同じ鳴き声を聴いているのかもしれないと思うと、胸がこそばゆい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あとがき』

 そもそもこの作品を書いたのは印刷作業の都合で締め切りが一週間延びたからでした(といっても判明してから実際に書けるのは四日位しかなかったのですが)。なるほど、書けるのか。じゃあ書いちゃれ。

 暴挙でした。無謀でした。時間さえあれば書けた言葉達が脳味噌の中で夢のままに潰えていくのは悲しい物でした。居間のPCを深夜に使って(といっても精々一時です)、妹が「早く終わらせろ」と妨害をしてくるせいで逆にどんどん脱稿が遅くなるのには怒りすら覚えました。

 そしてどうにか後書きを書いています。あとはwordファイルにでっちあげて送るだけです(私は基本txtで編集してwordを使うのは最後だけです。その方が軽いから。あと親指シフトのエミュレータとword2003の相性が悪くて使えないから。

 しかし、細かい調整という意味ではそれはそれで嫌な作業なのです。妥協してルビ無しでやるから楽っちゃ楽だけど)

 

 まあ、事の真相は、可愛いヒロイン書く練習をやろうと思っただけなんですけど。

 

書きながらはぁはぁし始めますよね。そして、後書き書いてるときは殆ど事後の気だるさの中に居るのですか、なんか読み返したくないですよね。多分読者の皆様と作者の感情のシンクロ率は400%超えです。おお、文学の理想ではないか、それは。嬉しくも何ともないですけど。

 

 ええ、雪鳥さん、相変わらずすみません。読者の皆様、ありがとうございます。では、これにて。