『快晴の空』
三時くらいの教室、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り、日直係のクラスメイトがが号令を済ませた。クラスメイト達が鞄を持って席から離れ、教室の中のあちこちに生徒のかたまりが出来、クラスメイト達はかたまり単位で教室の出口へと向かう。
だが、ぼくはうるさいのは苦手だ。一人で早々に教室を抜け出そうとした時、前の席に座っている友人がぼくの方を向いた。目があって、思わず椅子を机の中に押し込むのを止めてしまった。友人が(キャッチ成功)という顔をする。
「お前、今日も図書委員なの?」
訊ねられた。ぼくは大して気にもしていないような素振りで返事をする。
「これから図書室に行く」
「頑張れよ」
友人はそう言って他の男子の所に行ってしまった。ぼくもそそくさと教室を出る。……
別に図書委員の当番がある訳ではない。そしてぼくは嘘を言っていない。「お前、今日も図書委員なの?」という問いに対しては肯定も否定もせず「これから図書室に行く」という事実だけを告げたのだ。だからどうという話でもないけど、嘘を付かないというのは大切じゃないか。
ぼくは当番ではない。だけどぼくは図書室に向かう。せかせかと廊下を歩き、下校する生徒達とすれ違って中央棟の端にある図書室に向かう。
ぼくはすぐに暖色系の灯りが漏れる図書室の前にたどり着く。引き戸を開けて室内に入り、後ろ手に扉を閉じながら同時に入り口すぐのカウンターの奥に張ってあるホワイトボードをちらっと見る。当番を表すボードだ。
『放課後・三年 古川冬扇』
古川先輩はまだ来てないみたいで、図書室は無人のまま開放されていた。そのままぼくは図書室の割と奥にある棚に向かう。しばらくはラベルに著者名の頭文字を探す作業が続く。Raの帯が見つかって、少ししてラッセルの『ドイツ社会主義』が見つかる。
ラッセルは一八七二年から一九七〇年まで生きた哲学者だ。形而上学者、平和主義者。第一次大戦の前から死ぬまで活動していて、相当の先見の明があったのだけれど、そのせいで今のぼく達が読んでも当たり前の事が書いてある様にしか思えないし、もっと面白い思想家はいっぱいいるから普通はそっちを読む。
と有子は教えてくれた。君は読まなくて良い、と。彼女は続けて言った。
「私は好奇心で読みたいだけだから。だから、明日学校の図書室で借りてきてね」
有子は市民病院のベッドの上に居た。リクライニングを上げて起き上がっていた。病室には微かな消毒薬の匂いが漂っていた。昼間の病院には看護婦さんの足音と医療機器の動作音と時たまエレベーターのチャイムの音が響いていて、それを除けば大体は静寂と言ってよかった。
近くの大通りの自動車の音までもが病室に微かに届いた。タイヤがアスファルトを踏んで立てる低音と、それより二オクターブくらいは高いエンジン音が、壁を通り抜けて聴こえていたのだ。昨日の有子は少し顔に血の気がなかった。
有子はぼくと同い年で中学二年の冬から心筋症で入院している。
有子が入院してから、いつの間にかぼくが毎日有子に本を届ける習慣が出来上がっていた。もう一年以上続いているというのは不思議な気もするけど、まあぼく達は読書友達だ。そしてぼくにとっては本を読む事と有子は、そのまま直結しているのだ。
そもそも、ぼくが本を読み始めたのは有子のせいだ。古川有子のせいなのだ。
ぼくは棚から『やはり俺の友達はやってない 2』を取り出した。ぼくが最近はまっているライトノベルだ。主人公の友達が電車の中で痴漢と間違えられたのをキッカケに主人公が新しい部活に巻き込まれて女の子(痴漢被害者)と仲良くなるというラブコメストーリー。しかも一巻では信用できない語り手という手法を採っていて、実は主人公が痴漢した張本人であるという怒涛の展開を描いてネットで大反響を呼び、一冊だけで三万部の大ヒットとなった。
これはその二巻目だ。因みに一巻は有子に読ませたら二ページで閉じられたりしたけど、知った事じゃないよね。
ぼくが『ドイツ社会主義』の上に『やはり俺の友達はやってない 2』を重ねた時、図書室のドアが開く音がした。振り返るとちょうど古川先輩が図書室に入ってくるところだった。学ランをきっちり着こなし、鋭い目つきで図書室の中をぐるっと見回したのだけど、ぼくと目が合うと優しそうに微笑んだ。基本的には親切で面倒見の良い先輩だ。
「今日も有子に持っていく本?」
「はい。あと、ちょっと書庫から出してほしい本が何冊かあるんですけど」
「了解。タイトル教えて」
ぼくが有子に教えられたタイトルを四つ告げると古川先輩はカウンターの奥の書庫に入っていった。
先輩は有子の二つ年上の兄弟だ。ぼくが有子に本を差し入れているのも知っている。よく「ありがとうな」とか言われたりする。
先輩がぼくが頼んだ本を探しに行っている間、ぼくは早く先輩戻って来いと考えて足踏みをしながら、今日はどんな台詞で病室に入っていこうかなとか色々考えていた。幾つか候補を挙げて、ありがちだなとか気まずくなるなとか変態っぽいなとか個々に評価を下していく。中々決定的な物は思いつかない。
そうこうしている内に先輩は戻ってきた。先輩は書庫のドアを閉めてからぼくに持ってきた本を見せる。
「これで良いんだね」
「はい、大丈夫です。じゃあ、この分と一緒に貸し出しお願いします」ここまで言ってから先に返却をしておかないと貸し出し数上限に引っかかるのに気付いた。「あ、返す分は――」鞄を開けて数冊引っ張り出す。「これです」
「はい、ちょっと待ってて」
そう言って先輩は手際よくパソコンを操作し、処理を済ませる。ぼくも図書委員の端くれだけど、ぼくがやったら先輩の倍は時間がかかる。何しろ古川先輩は一年からやっていて、副委員長だ。伊達じゃない。
「じゃあ、これで大丈夫」
「ありがとうございます」
会釈して鞄の中に本を詰め込んでいると、古川先輩が「なあ」と声をかけてきた。
「有子を、宜しくな」
ぼくは軽く笑って「はい」と答えた。
* * *
ぼくは急ぎ足で校門を出た。病院は学校の割とすぐ側にある。しかもぼくの家とも方向が同じで、丁度家と学校の間に病院がある。つまり急いで何も悪い事は無いのだ。善は急げ。だからせかせかと学校の前の大通りを歩く。ただし走りはしない。
本で重くなった鞄のベルトは肩に確かな重さを与えていて何となく嬉しくなるのだけど、急ぎすぎると鞄が揺れて歩きづらくてしょうがないのだ。リュックならもう少し急いでも、と思った。
大通りの中央分離帯には植木が植えてあった。両脇にもだ。自動車の通りは昼間だから少なくて、赤信号を待つ自動車はたった二台。息を吸い込むとかなり澄んだ空気が肺に入るのが分かる。
その大通りをしばらく歩いて、公園の前の交差点で曲がると、そこにすぐ病院がある。
ぼくは駐車場の入り口の脇を通り抜ける。アスファルト舗装の駐車場を通り抜け、正面玄関をくぐり、エレベーターで七階まで上がる。廊下を少し歩くと、懐かしいような気のする見慣れた光景に出会う。『古川有子様』というネームプレートの掲げられた病室。
ぼくは一回病室のドアの前を通り過ぎた。そのまま近くにあるトイレに向かって、まず小用を足し、手を洗いながらトイレの鏡の前で制服と顔をチェックする。服は別に乱れていない。ただちょっと情けなさそうな顔になっていたから、背筋を伸ばして目を見開いて口角を上げ、濡れた手で頬を軽く叩いた。それからハンカチで手と頬を拭く。大分マシになった。
それからトイレを出て、改めて有子の病室に向かった。ちょっと緊張しながらドアを引く。
有子はベッドの上に起き上がっていた。ドアを開いた瞬間は少し顔が強張っていたけど、ぼくと目が合うと顔に微笑みが浮かんだ。
「なんだ、神治か」
「何だって、なんだよ」
有子はくすくすと笑った。ぼくは病室に備え付けてある席に着く。有子はベッドの側に置いてあるバッグを開けて、ぼくが昨日持ってきた本を取り出す。いつもは帰り際になってから「そうだ」ってなるのに。
「別にそんなすぐに取り出さなくて良いのに」
有子はぼくの言葉を無視して「ねぇ、私が入院してからどれくらい経ってるんだっけ」と聞いた。
「一年半くらいかな」
「ずっと来てるよね、神治は。受験の時も来てたし」
「うん」
ぼくの胸の中が少しざわめく。有子は大きく溜息をついて、取り出した本をはい、とぼくに差し出した。ぼくは固まってしまった。
「どうしたの、一体」
震える声でぼくは尋ねた。
「神治はもう来ないでも良いよ」
有子はあまり抑揚の無い声で言った。
* * *
そもそもぼくは中学一年の春、新学期に有子と出会った。同じクラスで、席が隣だったのだ。有子の席は教室の一番端の、窓際にあった。それでぼくは窓際から二列目に座っていた訳だ。窓のすぐ外には桜の木があって、だからぼくから窓際の有子を見ると、その背後に桜の木が見えた。枝が揺れて風が吹く度に、微かに紅色を帯びた花びらがひひらひらと落ちていた。
有子は学校初日から本を読んでいるような奴だった。交友関係を開拓するとか、もう少し色々やる事があるんじゃないか? と思いながら、ぼくは隣の席に座る奇妙な女子を眺めた訳だ。長い髪は頭の後ろでまとめられて背中までのポニーテールになっていて、霜柱のようなまつ毛は伏せられ視線は机の上に広げた本に向かっていた。だから、ちらちら覗き見てもバレるという事はなかったはずだ。
桜の花が落ちて葉だけになる頃にはぼく達は友達になっていた。いや、正確に言うとぼくが一方的に『読書』を教わっていた。
有子は、それに関しては、正真正銘の変態だったのだ。フォン・ノイマンは八歳で微分積分を理解したというけど(ぼくはまだ良く分からない)、有子は八歳でゲーテを読んでいた。当時のぼくはゲーテなんて知らなかったはずだ。だから有子がゲーテゲーテ言い出した時、ぼくは訊ねたのだ。
「ゲーテって何? 発明家か何か?」
当時のぼくは偉人といえばエジソンしか知らなかった。ちびまる子ちゃんのオープニングで覚えたのだ。
「神治は、将来大物になるかもしれないね。発想が柔軟」
有子は皮肉120%配合で言った(当時、ぼくは彼女の意図が分からなかった筈だ。有子は中学一年で皮肉を自在に使いこなすのだ。本当にあの頃から早熟な奴だった)。
「発明家っていうか科学者もやってたし法律家とか政治家とかもやってた。あの時代のドイツの貴族ってみんなそんな感じなの。まあ貴族じゃなくて商人の家系なんだけど、ま、それは置いておいて、小説家なの。私が一番凄いと思った詩はこれなんだけど」
そう言って有子は手元の文庫本をパラパラとめくり、やがて探していたページを見つけたようで朗読を始めた。
「『ただ憧れを知る者のみが
私の悩みを知る
ひとり すべての喜びから切り離されて
ながめる空のかなた
ああ、愛しい人は遠く
めまいがして 私の身が焼き焦がれる
この苦しみを知るのは
ただ 憧れを知る者のみ』
溜まらないよねぇ憧れだよ憧れ。要するに偉大な物を歌った詩なんだけど、最初に見たときは『憧れかぁ』ってビビったの。そういう詩だからチャイコフスキーがこれネタに作曲してるんだけど」
ぼくはぼけーっと有子の言葉を聞いていた。はっきり言って分かる訳がない。当時のぼくはチャイコフスキーとか知らなかったし。それでも、楽しそうに話す有子の表情を見ると、和んだ。
「とりあえずゲーテなら『若きヴェルテルの悩み』を読んでみるといいんじゃないかな。今持ってるから貸してあげる」
そう言って有子は鞄の中から文庫本を取り出した。
ぼくはその日徹夜して有子から借りた『若きヴェルテルの悩み』を読んだ。半分くらいは何言ってるか良く分からなかった。残り半分はそもそも漢字が読めなかった。だけど不思議と楽しめた。完全に音のリズムと雰囲気だけを楽しんでいた。
よく分からないままに何となく自殺したのだけ理解して、読み終わった頃には朝方の四時を回っていた。部屋の電気を消すと窓の外から仄かな青みが部屋に射し込んできた。もう朝になりかけていたのだ。新聞配達のバイクの音が家の外の道路に響いていた。
次の日の朝、有子にその事を告げると有子は微笑んだ。
「大丈夫、神治が理解出来ないのは分かってた。次はこれを読むと良いよ。私が昔読んでて大好きだった、というか今でも大好きな本なの」
そう言って有子は『ぐりとぐら』を差し出した。いや、ふざけんな。しかも彼女が持っていたのは相当くたびれた絵本で、表紙の端っこがめくれたり、あっちこっちに傷があったりしてちょっと敬遠したい感じだった。特に気になったのは数箇所についている半円状の傷で、どうするとこういう傷が出来るのか良く分からなくてぼくは有子に何の傷なのかと尋ねた。
「ああ、これ? これ読んでた頃はまだ私も小さかったから、噛み癖があって良く本噛んでたんだよね」
三歳くらいだったのかな。ぼくはそれ以上は追求しないでぐりとぐらを突き返した。
「同級生いじめて楽しい?」
「いじめてる訳じゃない。ただ、良い物だから知ってほしくて」
そう言われるとぼくは何も言い返せなかった。
結局ぼくはゲーテは無理だったから、太宰治を『教えてもらう』事になった。有子曰く「適当に分かりやすくて面白いから入門者に丁度良いんだよね」なんとなく不思議な上下関係が芽生えつつあった。
一番最初に読まされたのは『お伽草紙』の中の『カチカチ山』だった。オリジナルのカチカチ山を大分改変したストーリーで、狸が気持ち悪いけどなんだか憎めない中年男、ウサギが美少女のヒロインでかなりツンツン。気持ち悪い中年男が女の子にいじめられるのが話の面白さになっている。
だけど、やっぱり半分は分からなかった。そもそも漢字が分からない。古い単語も分からないという問題があった。
ぼくと有子は昼休みの図書室で並んで座っていた。ぼくが『カチカチ山』を読んでいる間、有子はカントの『判断力批判』を読んでいた。どうしても分からないところがあったらすぐ有子に聞けば良いわけだ。ちょっと恥ずかしくて「ごめんね付き合ってもらって」と言うと、有子は「神治が居なくても私は図書室に来るし、神治の手助けなんてしようがしまいが大した差はない」と言ったりした。
『カチカチ山』を読んでいて、三個の理解出来ない単語が出てきた。ぼくは隣の席の有子に声をかける。
「ねぇ、この単語なんだけど、なんて読むの? どういう意味?」
有子はぼくの指さす箇所を覗き込んで、固まった。どうしたの、と聞こうとして、有子の耳が赤くなっているのに気付いた。
「ね、ねぇ」
「し、神治のバカッ! 変態! 死ね!」
有子が殆ど初めて見せた女子中学生らしい反応だった。慌ててしまったのはぼくだった。
「いや、訳分からない。え、どういう意味なの?」
「本当に死ね、いや、あそこの棚に広辞苑があるから、自分で調べればいいじゃない」
「もっと薄い国語辞典もあるじゃん」
「バカ神治は態々分厚い広辞苑で引いて面倒くさい思いすればいいと思う」
面倒くさい思いするくらいで許してもらえるなら別に大した事ではないのだろう。怒ってなくて冗談半分で言ってるのが分かって、ほっとしたり和んだりした。
ぼくが訊ねていた単語は『処女』だった。ぼくが国語辞典を引いている間、有子は「神治なんて知らない」「死ねば良いのよ」と『判断力批判』を読みながら呟いていた。
それから、本を読むときは脇に国語辞典を置いておくという知恵を身に付けた。
ところで有子は(その他に)全く女子中学生らしいところを見せなかった訳ではない。そりゃあ、勉強は何でも出来たし(「九〇点以下の奴は頭沸いてるんじゃないか?」とか言ってた)同級生の女子を馬鹿にしていたけど、何故かその馬鹿にしている相手等から尊敬されていてクラス有数の有力者だったし、社会の授業中に中年の女の先生を質問攻めにして「もう良いでしょ! また後でね! 後で! もう今はやめて!」と言わせたりもして(そして『後で』どう収めたのかは、ぼくは知らない。授業終了後二人で職員室に行って、次のチャイムが鳴る寸前に有子が勝ち誇ったような顔をして教室に帰ってきたのだけ知っている)、女子中学生? という学校生活を送っていたけど、それでもやっぱり十三歳の女の子だった。
例えば調理実習だ。ぼくたちは八班だった。エプロン姿の有子は、可愛かった。『女の子』という感じがした。ただ、バンダナの中にポニーテールをしまっていたのだけが残念だった。いや、そういう話じゃない。
有子は同じ八班の女子と見事にタッグを組んでいた。ぼくともう一人居た田中くんという男子は一方的に彼女らの指示に従っていたのだ。
「神治は先生から ワカメと肉とキムチ受け取ってきて。……さっさと行けアホチン」
「有子ちゃん、洗える食器は今のうちから洗っておいたほうがいいんじゃない?」
「そうだね田中くんやっといて。ちょっと今私達は手離せない」
有子ともう一人の女子は優秀なブレーンだった。ぼくと田中くんはブレーンの忠実な手足となって働いた。八班は、一つの目的の為だけに存在する、一つのシステムと化していた。
ぼくたちは『忠実な手足』だった。だから、出来上がった物に問題があったとしたら、それは『ブレーン』の責任になるはずだ。やたら酸っぱいとかやたら塩っ辛いとか食べると視界がレインボーに輝くとか、それは全て『ブレーン』の責任になるはずだ。
試食しに来た先生は一口食べて顔をしかめた。ぼくたち八班は一つの目的の為だけに存在する、一つのシステムと化していた。つまり、作り上げた代物を如何なる手段を用いても処理するという、目的の為に存在する、システムだ。自分たちで食べるだけでは無理なのは目に見えていたから、他の班におすそ分けしに行った。「美味しくできたよ」と言って渡した。阿鼻叫喚だった。ノリの良いDQNの班が騒いだ。知るか。それから先生を説得して、手伝ってもらった。それでも残った分は、本当にどうにもならなくて、四人で食べた。凄い一体感を感じていた。四人でならどこにだって行けると思った。目の前にある『代物』を、完食出来ればの話だったけど。
その日の昼休み、有子は図書室の棚から黙って一冊の本を取り出してきた。
「俵万智の『サラダ記念日』。歌集だよ。
『この味がいいね』と君が言ったから――」
有子は皮肉屋だ。自分の事だろうと、皮肉って、胸の中に落とし込む。でも流石に見ていられなくて、ぼくは制止した。
「うん、もう良い」
有子は少し悲しそうに微笑んだ。それから何事もなかったかのように『サラダ記念日』を棚に戻して、スピノザの『エチカ』を隣の棚から取ってきて、ぼくの隣の席に着いた。ぼくも太宰治を読み始めた。
十三歳の図書室の空気は少しかび臭くて、壁越しにグラウンドで球技に興じている男子学生等の声が伝わってきていた。図書室にはドラマの原作からラノベまで置いてあったからやっぱりそこそこ混んでいて、話し声と足音と制服のすれる音と貸し出しのパソコンののピコッという音が結構やかましく鳴っていて、その中でぼくと有子の座る二つの席だけは不思議な静けさに包まれていた。
ぼくと有子は並んで、必死に本の中の世界にしがみ付いていた。……
* * *
時間にして数秒だっただろう。病室はずっと静かだった。比喩でも何でもなくて、単に物音一つしなかった。風のない深夜の静けさだ。
有子は空中に差し出したままの本をぼくの方に少し押し出した。掛け布団の形が変わった。
「いや、どういうことだよ」
ぼくはやっと震える声で言った。ぼくの声が無音の中に響いた。有子は短くため息をつく。
「別にね、神治じゃなくても良いの。例えば冬扇なんて頼めば喜んでやってくれるでしょ」
「何でそういう話になるんだよ」
「そういう話をしているから」
有子はぴしゃりと言い放ってぼくは言葉を失った。静かになった病室に彼女の声が響く。
「つまりね、神治はこれ以上来ない方が良い。私はそれで構わないから。分かった?」
ぼくは有子の迫力に気圧されてしまう。言うべき言葉がある気がしたけど、何だか分からなかった。声帯の辺りのちょっと下で空気が詰って、気道を狭くしていた。
「とりあえず、今日持ってきた分は置いておいて。これは返す。たまに見舞いに来るくらいなら、良いよ」
有子は事務的に言い切った。言葉には一切の感動が無く、ただ淡々と事実だけが告げられる。それはもう確定した『事実』なのだ。だから、有子は何のためらいもなく言葉を発する。
ぼくの言葉は押し込められてしまう。
ぼくは無言で有子がずっと空中に差し出していた本を受け取った。ずっと持ち上げてたから重いじゃないか、と低く呟かれる。それから、ぼくは鞄から本を出した。布団の上の有子の手に渡した。
「じゃあね、神治」
「うん。元気で」
こんなやり取りがすらすらと出てしまった。気道が狭まっているのは変わらない。もしくは、気道が狭まっていると思うのは本当はぼくの思い込みなのかもしれない。脳味噌の錯覚で変な事になっているだけで、ぼくの体はそんなのお構い無しに生きているのかもしれない。
胸の重さにはリアリティがあるのに心には妙な浮遊感があった。脳味噌が心から離れて、勝手に活動しているようだ。
だから、病院の正面玄関から院の外に出て、ぼくの全身に吹き付ける風を感じた瞬間に、やっとぼくは感情らしい感情を感じた。喪失感、だったと思う。とりあえず八歩歩いた。出入り口のそばのタイルが途絶え、駐車場のアスファルトの上に足が乗った。その瞬間に右足で地面を垂直に蹴った。さて、これからどうしようか。
当たり前だ。家に帰ろう。疲れたから、寝よう。でも、あと二回地面を蹴ってからでも遅くない。いや、斜め後ろに地面を蹴るという点では、何も変わらないさ。
ぼくは律儀に垂直に足を二回下ろして、それから歩き出した。風は冷たく首元に吹いた。
* * *
ぼくは家に帰ってから、そのまま制服だけ脱いで寝てしまったらしい。らしいというのは、気が付くと朝になっていて、ぼくはベッドの上に居て、窓からはまばゆいばかりの陽光が差し込んできていて、赤外線が顔の皮膚に当たって熱くて、脳味噌がしょぼしょぼしている感じがしていたからだ。体をひねって枕元のデジタル時計を見ると、表示はぼくがいつも起きる時間と大差なかった。学校に行かなくちゃ、と思った。
猛烈に喉が渇いた。ぼくは家の一階のキッチンに降りていった。母親がぼくに声をかけて、適当に返事をしながら自分のマグカップを取り出し、浄水器を通された水道水を汲んだ。マグカップに口を付けて、飲み込んだ。脳味噌がしょぼしょぼする感じが少しマシになった。でもまだだ。
ぼくは自分の部屋に向かった。着替えないといけない。着替えて机の横の鞄に視線が走った瞬間に、この中に本が入っている事を思い出した。有子が読んだ本を返さないといけない。古川先輩に報告して、なんとか適当に処理をしないと。リアルな憂鬱の実感で、脳味噌のしょぼしょぼが大分吹き飛んだ。
それから、結局朝食を取らずに家を出た。玄関のドアを開けるとまだ寒い風が身に染みて、覚醒を渋っていたぼくの脳味噌はやっと完全に目覚めた、と思った。世界がやけにクリアに見えるのだ。
歩き出して踏みしめる地面の感触は昨日と同じだった。
* * *
学校の自分の教室に着いてから、ぼくは自分の机に突っ伏して寝ていた。いや、頭は冴えていた。意識だけを外界から閉ざし、考えても仕方ない事を考え、仕方ない事であるが故に考えた瞬間に忘れた。夢を見るようなものだ。大脳新皮質全体に電気信号だけ流れて、ニューロンのシナプス接合は何も変更されない。
だから、クラスメイトがぼくに声をかけたのだけど、最初は意味のある言葉には聞こえなかった。まずこの声は俺の友達の声だっけ、と思い出した。やがて平仮名が脳味噌の中に現れた。意味を結ぶには更に数秒を要した。
「――――ぁなぁ、きいてるのか? ねているのか? おーい、おきろ。古川先輩ってひとがよんでるぞ」
古川先輩という言葉で意識は一気に覚醒した。ぼくはがばっと起き上がった。
「あ、起きた」
教室前のドアを見ると古川先輩が居た。クラスメイト達は先輩とぼくを交互に見つめていた。先輩はぼくが起きたのを見て手招きをした。立ち上がって、歩いていった。
「ま、ここじゃ何だから、ちょっと離れようか」
「はい」
ぼく達はそう言って廊下を歩きだした。教室のクラスメイト達の騒ぎ声が遠くなったところで、先輩は溜息をついた。
「有子から話は聞いた。あいつバカだから、気にしないで」
面倒くさいし、憂鬱だと思いながら返事をする。
「良いですよ。嫌われたんだから」
「おい、立ち止まってこっち向け」
ぼくがかったるく思いながら立ち止まるって先輩の方を向いたとき、先輩の手が持ち上がるのが見えた。そのまま拳は滑らかな軌跡を描いてぼくの腹部に向かう。ぐりっとした感触と衝撃を何とか腹筋で受け止めて、がはっと声が漏れる。先輩が腕を引っ込めてから、お腹を手で抑えると先輩が満足したように声を出す。
「これで良い」
「何ですか」
「いや、理不尽かもしれないけど、殴りたくなったから」
「そうですか」
先輩は続ける。
「アイツ、病状が悪化してて。そろそろ死ぬんだよ」
一瞬遅れてから、アイツというのが有子の事だと理解した。
「どれくらいなんですか?」
「一年くらいだって。それで昨日話しに行ったんだけど。強がってたね。何とも思ってないような顔して。平気で『明日からは冬扇が本を持ってきてくれ』って」
胸の中に鉛の塊が落ちてきたような気がした。そうですか、と答えた声は胸の中で出したのよりずっと弱々しかった。
「で、お前には知らせるなだって。嫌われて勝手に死ぬからそれで良いって」
「え?」
「今知らせたけど」
先輩はそう言ってふっと笑った。
「恨むなら俺を恨め。アイツにもそう伝えろ。俺は有子に幸せになってほしいだけ」
――なぁ、お前はどうだ? ムカムカしないか?
声は胸の中に響いた。胸の中の塊が溶け、喉仏の後ろ辺りに溶解物がこみ上げる感覚がする。
圧迫された血管から、ぼくの心臓の鼓動が聞こえる。ぼくは確信犯で口を開く。
動かないと、始まらない。世界で自由になるのはぼくの身体だけだ。
「先輩、これから病院行っても大丈夫ですかね」
「授業サボるの?」
「三限から出ます」
「勝手にして。別に俺は関係ないし」
先輩は言い放った。
「良いんですかね」
「ま、別に放課後でも良い気はするけど」
ぼくがじゃあ放課後にしましょうか、と言うととっとと行けといわれたので、ぼくは先輩の脇を通り抜け、昇降口に向かって歩き出した。首筋に後ろから視線を感じながら。
昇降口を出ると冷たい風が吹いた。ぼくは首を縮めた。
* * *
病室のドアを開けると、有子はベッドから起き上がり、ぼくを見て眉を歪め、舌打ちした。おかげでぼくはむしろ安心する。つまりぼくは彼女に影響を及ぼせる、彼女ぼくの手の届く所に居ると分かったからだ。ノープランだけどアドリブで行けると直感した。
「神治、学校はどうしたの?」
「そんなのどうでもいいだろ」
「冬扇か」
ぼくが頷くと有子はもう一度舌打ちをした。ぼくは憎悪に歪んだ表情をむしろ愛らしく思いながら、奇妙な興奮と高揚に包まれ言葉を紡ぐ。
「どうしてぼくに知らせない、なんて事したの」
「神治って本当に自分勝手だね」
「ぼくの事なんてどうでもいいじゃないか」
有子の目がすっと細くなって、それから彼女は困ったように眉尻を下げながら微笑んだ。
「そうすれば神治に悲しまれないと思ったんだ。悲しませるのも、悲しまれるのも嫌でしょ」
最後は消え入りそうになりながら、有子は言い切った。悲しそうな顔だった。
「うん。手遅れ」
「バカ。どうせ死んじゃうから全部持ってってあげようと思ったのに」
そう言ってから、有子はふうと溜息をついた。掛け布団の上で手を組んで、その手を自分で見つめる。困ったような顔をしているけど、その横顔の口角が微かに上がっているのは見逃さないで、ちゃんとぼくは自分の目に焼き付ける。それから言葉を続ける。
「ぼくだってあと七十年くらいしたら死ぬよ。ぼくだって色々持っていきたいし」
「記憶の収集癖でもあるの?」
「読書癖はあるけど」
「それは私も同じ」
うん、いつも通りのやり取りじゃないか。ぼくはすっかり安心して「はぁー」と溜息をついた。有子が「溜息つくと幸運が逃げるよ」とぼくに注意をする。
「それで、来ちゃったんだ」
「来るしかないよ」
それから一度言葉が途切れる。病室の中に沈黙が漂う。なんとなく照れ臭い、とぼくは思った。
有子が声を発した。
「ねー、神治、こっち来て」
「何?」
「良いから」
そう言って有子はぽんぽんとベッドの端を叩いた。えーっと、座れって事なのかな、指示通りにぼくはベッドに座る。別に嫌がられたりはしないけど、これ前代未聞の近距離だ。すぐそば(例えばぼくのお尻の五センチ後ろとか)に有子の身体がある。病人の汗臭い匂いが漂ってくる。有子の匂い。
「こっち向け」
有子に命令される。
「恥ずかしいんだけど」
「私もだよっ」
ちらっと見ると真っ赤になった有子の顔があって、ぼくの顔が一気に熱くなる。頬の筋肉が引きつる。
「あ、ちゃんとこっち向いてよ」
「うん」
身体を向けると有子と目があった。思わず目を逸らしてしまう。
「ねぇ、何しようっていうの」
「神治は分からないの?」
「何となく想像は付くけど、勘違いしてたら恥ずかしいし」
「だとしたら勘違いさせる方が悪いから、良いよ」
「そうですか」
「うん」
「さっさと来い」
有子が身体を揺すりだしたので、ぼくは慌てて言葉を捜す。
「え、えーっと……そうだ、でも勘違いしてるとやっぱ悪いと思うから、一応確認したいんだけど」
「なによ」
「ぼくたち、両想いなんだよね?」
ぼくが言うと有子は「むぁーっ」「うーっ」「にゃー」とか良いながら顔を真っ赤にして身体をぶつけて来た。頬の筋肉が強張る。
「うん、分かった」
「分かるな」
「どうしろっていうんだよ」
有子は完全に酔っ払った猫みたいになってしまった。こういう姿はあんまり見かけないけど、普段強がってる奴って結構こうなるのかもしれない。でもぼくまで一緒になって酔っ払っていたら延々と続くだけだから、ぼくは高鳴る胸を抑えて状況に対処する事を考え出した。結論は一瞬で導き出される。覚悟を決めるのも一秒で終わる。ぼくがリードするしかない。
「じゃあ、有子、こっち向いて」
「え? あ、うん」
有子は少し興奮の冷めた、それでも真っ赤な顔をぼくに向けた。問答無用で顔を近づける。
「ちょちょにょ」
「黙ってて。あと目閉じて」
そう言って、率先して目を閉じる。目を閉じた顔見られてたら間抜けだなと妙に冷静に思って、薄目を開けると有子は既に目を閉じていた。やっぱり距離感が掴めないし外したら嫌なので、目を少し開けたまま少しずつ顔を近づけた。
髪が触れる距離まで来てから目を閉じて、少し経ってから唇が触れ合う。その瞬間に、しびれるような感覚が全身に走る。
ぬるっとした唾液の感触が伝わって、何だって投げ出してしまいたい、と理解した。
唇を押し付けあって、拙く舌を絡めたりしていたのはほんの数分だったと思う。唇を離したとき、垂れそうになった唾液を慌ててすすって有子に笑われたりして彼女が笑ったせいで結局ベッドに垂れちゃったりして、それでとりあえずは終了。身体を離した事で、微かな喪失感が胸の中で響く。
それから、有子とぼくは横に並んで、お互いに体重を預けて座った。
「神治は私で良いの?」
「損だと思うけど、止まるわけじゃない」
「素直だね」
そう言って有子は笑った。
「さて、と。神治、ちょっと廊下を見てきてくれないかな」
「え?」
訝しく思いながらぼくがベッドから降りて病室の入り口に向かってドアを開けると、廊下の壁に寄りかかっている先輩が居た――え?
「何やってるんですか、授業は」
「いや、心配だから見にきたんだけどさ」
振り返って有子を見ると、彼女は諦めたように溜息をついた。
「有子は良く分かったな」
「冬扇の行動パターンは何となく分かる。自分でやった事は結果を確認しないと気がすまないんだよね」
「うん」
先輩は頷いて笑った。
「えっと、見られてたんですかね?」
「初々しい癖に結構濃厚で、兄として何となく嫉妬したけどね」
有子が先輩の言葉に妹のファーストキスを覗き見て何が楽しいんだ? と反駁し、ぼくは恥ずかしく思いながらも初めてだったんだと少し嬉しく思いつつ兄妹の会話を聞きながらふと病室の窓の外を見た。病院の駐車場と所々にマンションが建つ市の光景の上に、綿毛のような雲を少し浮かべた快晴の空が広がっていて、この空はいつもぼく達の上にあるのだと、ぼくは思った。
『あとがき』
例えば原稿の提出締め切りという物があるとします。それは四月の十三日であると定義します。
私はこの後書きを四月の十四日の二〇時四九分に書いています。編集の雪鳥さん、本当に毎回毎回すみません。
しかしここには不条理があると思うのです。そして最近知った言葉なのだけど、テルトゥリアヌス(二世紀頃の神学者)がこういう事を言っている。
「不条理なるが故に我信ず」
私は去年の夏季刊から文芸に作品を出しているのだけど、結局はずっとこの事を追い詰めてきたのだと思います。俺の考えてる事を1900年前のオッサンが既に考えてた! というのは驚きですし、やっぱり嬉しいし、冷静になってみればユリーカしてる場合ではないというのも分かるのだけど、とりあえず後書きのネタにしてしまうには丁度良いと思うから書いておこうかと。
え? 締め切りオーバーの言い訳してるんじゃないんですよっ///
という訳で、今回は後書きにそんなに書く事もないのですが、とりあえず読者の皆様、ありがとうございます。これからも宜しくお願いします。