激しい頭痛の中、ベッドから体を起こしたハイドその状況に唖然としていた。
部屋に差し込む朝の陽光は彼の不快感と吐き気を誘い、いますぐ二度寝してやりたいという衝動を駆りたてる。夢を見た。最悪な夢だ。
ふと彼は部屋を見回した。
昨日チェックインしたきれいな六畳の部屋は今彼が寝そべっている大きめのベッドと丸机、椅子、暖炉、タンスに加えシャワールムまでついているかなり贅沢なものだった。
もちろんチェックインしたときは掃除も行き届いていて塵一つ落ちてはいなかった。
だがその部屋は今、その面影すらないほど散らかっていた。そこら中に転がるビールとウィスキーの空瓶。もう無法地帯としか言いようがない。
その酒は彼がここに来るまでに買い溜めておいた物のはずだった。
しかし、彼が一番気がかりだったのはベッドの上の自分が服を一枚も着ていない状態だったということだ。シーツは乱れ枕はベッドの外へ投げられている。
ハイドの日常では寝ないかワイシャツを脱いでランニング一枚で寝るはずだったが@というのは初めてだった。よく見れば昨日彼が着ていた服はベッドの横の床に転がっていた。
――いったい、昨日ここで何があったんだ? さっぱり思い出せない。
意味不明な状況にしどろもどろしながら、ハイドはひとまずベッドから抜け出し服を手に取った。
ヨレヨレのワイシャツにスーツ、変な色のローファー。たしか五,六年前に買ってずっとクシャクシャのまましまっておいたものをこの間、せっかく良いビジネスホテルに泊まるのだからと言ってどっかの倉庫から引っ張り出したものだ。
ハイドはスーツをゴミ箱に投げ捨て自分のキャリーバッグの中からいつも着ている砂色で厚手のズボンとゴム底のしっかりした運動靴を取り出し慣れた手つきでそれを身に着けた。
――やっぱりこっちの方がシックリくる。スーツなんて息苦しいだけだ。
クラクラとした感覚のままシャワー近くの洗面台に向かって髭を剃り顔を洗った。冷たい水を顔にぶつけるたび新鮮な空気が肺に流れ込んできた。顔を洗っただけで酔いはだいぶ誤魔化すことが出来る。
ゆっくりと顔を上げ改めて正面の鏡を睨む。映っているのは自分。この世で最も弱い男だった。
「クソッ!」
顔に手を当て鏡から目をそらす。
夢の内容をうっすらと思い出してしまった。いつも夢なんてものは起きたときだけしか覚えていられないものだ。しかし、その夢は輪郭の鋭い夏の影のように頭に焼き付いている。
昔の女が訪ねてくる夢だった。ずっと忘れようとして、最近やっと頭から離れ始めたというのに。
その女とは最悪な別れ方をした。自分でも後悔している。だからこそ思い出したくない。
――駄目だ、考えるな。
そんな自分に苛立った。痰を吐き出し、コーヒーでも飲んで苛立った気持ちを切り替えようとしたとき、誰かが扉をコンコンと叩いた。
時計を見る。七時半。
まだ、ルームサービスが来るには早いはずだ。
鍵を開けゆっくりとドアノブに手をかけ内開きのドアを開く。そこには見覚えのある女が立っていた。
「……シンシア」
長い金髪に付けた空色のカチューシャを弄りながらシンシアは大きな目を細めてこちらを見ていた。
怒っているようには見えないものの機嫌は悪そうだった。
しかしハイドは眉一つ動かさず首をかしげながら言った。
「なんでここにいるんだ?」
ハイドの言葉が気に入らなかったのかシンシアの眉間にはさらに皺が足された。ハイドは何を言われてもいいように身構えた。今度は確実に怒っている。
「やっと起きたのね?」
しかし彼女は至って平坦な口調でハイドに話しかけた。
身構えていたハイドはホッと肩をなでおろした後、彼女を部屋に招き入れた。シンシアは汚く散らかった部屋を見ても何も言わず、椅子に腰かけ、ハイドはベッドに腰掛けた。
しばらくの沈黙がその場を包んだ。
口を切ったのはハイドだった。
「久しぶり」
シンシアの耳がピクッッと動いた。
「六年ぶり――か」
ハイドが力なく言うとシンシアは浅く溜息をつき彼を睨んだ。
「何言ってるの? もしかして昨日のこと覚えてない?」
ハイドは黙った。もちろん何にも覚えていない。それどころか何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。昨晩ホテルの近くのバーで一人、飲んでいたところまでは覚えているものの、そこから先はまるで寝てしまったように彼の記憶はぷっつりと途切れている。
しばらく黙っているとシンシアの先制攻撃が飛んできた。
「もしかして覚えてない?」
ハイドは沈黙を守ることしかできなかった。
――全く記憶にございません。
「もちろん覚えてるわよねぇ?」
「……覚えてない」
ハイドは聞こえるか聞こえないかわからない程小さな声で言ったつもりだが、二人しかいない部屋でシンシアにその声が届かない訳はなかった。
シンシアは椅子から力強く立ち上がるとものすごい気迫でハイドに迫ってきた。ハイドはガッチリとした体をしていてそれなりに肝も座っているはずだが、この時のシンシアの迫力にはさすがの彼もおののいた。
ハイドは思わずベッドの反対側へ逃げようとしたがあっさりとランニングシャツの端を引っ張られ正面を向かされてしまった。
ベッドの横で向かい合うと強烈なビンタが飛んできた。
「なんで覚えてないのよ!」
そう叫んだ後、シンシアはその細腕をハイドの首へ回し思い切り引き寄せた。ビンタの痛みが引く前に唇と唇が重なった。
ハイドも驚いたものの、すぐ彼女の腰に腕を回しキスを続けた。
目を閉じ、じっくりとその幸福感に浸る。唇を離した後、彼女は満足そうな笑みをこぼしながら首をかしげてこういった。
「これで思い出した?」
ハイドも笑みを返しながら言った。
「全く」
今度はパンチが飛んできた。
力なくハイドはベッドに倒れこむ。強烈なパンチだった。
「ちょっと待て、俺が何をしたっていうんだ?」
「あんなことまでしておいて白を切ろうっていうの? あなたのそういう所は絶対に好きになれないわ」
「あんなことってなんだよ?」
ついにシンシアは床のビール瓶を拾って振り回し始めたので、慌ててハイドはシンシアを羽交い絞めにした。
「ふざけないで! 私にあんなこと言わせる気? いい加減にしなさい、このバカ!」
この怒り方からしてハイドは相当なことをしてしまったんだ、と分かった。しかし身に覚えがないため話を一度整理することが一番の解決策だと思いシンシアに話しかけた。
「悪かった。悪かったからとにかく瓶を置け。危ないって! 落ち着いて……」
思いつく限りの言葉を使って必死になだめた。
それから話ができるようになったのは三十分後のことだった。
おとなしくなるまでは二分と掛からなかったが、そこから彼女に泣きが入ってしまったため、大分時間を食ってしまった。
「で、俺は何をしちゃったんだ?」
「いいわ、あなたが昨日したことを一から思い出させてあげるわ」
ベッドに二人で腰かけながら何とか話ができるまでに持ってきた。ハイドはすでに彼女をなだめるので疲れていた。
一方のシンシアは赤くはれた目をこすりながら昨日あったことをなるべく細かく指を折りながら思い出そうとしていた。
「いいわ、じゃあ質問に答えて」
満を持した様子でシンシアは口を開いた。
「私が昨日、久しぶりにあなたに会いにバーに来たじゃない」
「覚えてない」
「え……そこから?」
もうシンシアは怒っているというより呆れていた。話の腰を折られたどころか根本を否定されたようなものだ。
「だがそんな感じの夢を見た。お前に会う夢だ」
「じゃあ、それが現実ね」
***
その日、ハイドはバーで一人考え事をしていた。
彼はついこの間までフォークランド諸島にいた。仕事が終わり休暇に入った今は七月。汗ばむ陽気だ。
しかし彼も二十八歳。長期休暇の暇などなかった。明後日にはもう次の仕事へ。次はスーダンかパレスチナか……そういえばコンゴが最近内戦に入りそうだとかなんだとか。
そんなことを考えたら気が遠くなってくる。
――今は休暇中だ。仕事はやめにしよう。
「ジャック・ダニエルズおかわり」
ハイドがバーテンダーに声をかけるとバーテンダーはすぐにジャック・ダニエルズのロックを差し出してくれた。
氷の入ったグラスに濁った小麦色の液体。ジャック・ダニエルズというのはウィスキーの銘柄の一つだ。このウィスキーはハイドの祖父が大好きでいつも飲んでいたものと同じだ。始めて飲んだのは十四歳の誕生日、祖父に勧められたのがきっかけだった。焼けるような熱さと、脳まで駆け抜ける感覚がたまらなかった。
それが酒との出会いだった。
バーテンダーにチップを渡してからハイドはそれを出てきた端から飲み干していった。
もうだいぶ飲んでいるはずだ。視界がぶれ始め意識が遠のく。目眩もしてきた。
しかしハイドはグラスを置かず飲み続けた。
彼は重度のアルコール中毒を抱えていた。以前は今よりもさらにひどかったが、あることをきっかけに大分マシになった。
だが完全に酒を断つことなどできず今もこうやってウィスキーを口にしている。やめなければいけないと分かってはいるものの、やめられない。酒を飲めばのどが渇く。その渇きをまた酒で潤す。その繰り返し。きりがない。
もう一度、グラスを前に突き出す。バーテンダーに“おかわり”と言おうとした瞬間、細くて白い腕がグラスの上に被せられた。
白い腕を伝ってその正体を見た。
長い金髪に空色のカチューシャ、どこか見覚えのある女だった。
「久しぶり」
ほぼ無意識に女を見つめるハイド。
――だれだっけ……
「何年ぶりぐらいかしら?」
かなり馴れ馴れしい態度から旧知の人間だと言う事は分かるが、何故だろうか思い出す事が出来ない。酒が回っているせいだ。
ハイドは酒が大好きだが、アルコールが回ると頭の回転が悪くなった。記憶力と判断力が著しく鈍る。
「ちょっと話があるんだけど、私の部屋に来ない?」
女は休暇のために引っ張り出してきたスーツの袖をクイクイと引っ張った。
――この女、誘ってるのか?
よく分からないがとにかくついて行く事にした。女は袖を掴んだままバーから飛び出した。お代はポケットに入っていた適当なお札を一枚取り出してお釣りはチップで、と言ってきた。
だいぶ飲んだせいで足下はふらつき、たまにもつれて転びそうになるが、女は容赦なく進み続けホテル二階の窓際の部屋へ駆け込んだ。そこはハイドの部屋の隣だった。
そして、かすみがかった意識の中、椅子に座らされた。
ゆっくりと女を見つめるハイド。
「久しぶり、元気だった?」
ハイドは答えなかった。
「六年間、あなたの事を探し回ったのよ」
「……誰だっけ?」
反射的に出たその言葉に女は不安げな表情を浮かべ彼に近寄った。
「とぼけてるの? 私よ、分からない?」
分からなかった。女友達は多くないはずだが、思い出せない。
ハイドは無言で首をかしげた。
「私よ、シンシアよ!」
シンシアは感情的にハイドに詰め寄った。
――シンシア? どこかで聞いた気がする……いや、待てよ。あのシンシアか? シンシアって誰だっけ……
ハイドの中で何かが動き出そうとしていた。頭の奥底に、厳重にしまい込んだ何かが再び目を覚まそうとしていた。
「六年前のあの日から……私はずっと――」
そこからは言葉が頭に入ってこなかった。
――シンシア……
目の前にいるシンシアという女性の名前が頭の中を回る。
次の瞬間、熱い何かが唇を塞いだ。突然ハイドは現実に引き戻された。彼女の舌が唇を割って入ってきた。歯をこじ開けられ舌と舌を絡ませる。ヌルッとした感覚が舌に触れ、熱い息が流れ込んでくる。
その時、ハイドの中の何かが砕け落ちだ。
昔の記憶が鮮明に頭の中で投影される。
全てを思い出した。
シンシア……最愛の女性。
――俺は彼女から……逃げ出した。
彼女と出会ったのは九年前、ハイドが二十歳の時だった。
六歳の時、彼の両親は突然この世を去った。彼は母方の祖父母の世話になる事になった。母はイギリス人、父はドイツ人で、祖父母の家はイギリスにあった。祖父も祖母も優しく独りぼっちだった彼をまるで我が子のようにかわいがり、大学まで行かせてもらった。
大学三年の時、その祖父母夫婦が結婚五十周年を記念して旅行に行く事になった。場所は日本、五日間で名所を回るらしく祖父はとても張り切っていた。彼ももちろん賛成した。夫婦水入らず、楽しんできて欲しいと思ったのだ。
しかし、日本に旅行中、祖父母夫婦は失踪。旅行会社側は死体が発見されていないにも関わらず旅行先での死亡事故と断定。多額の慰謝料は手に入った物の彼はあまりに大きな物を失ってしまった。
一度両親を亡くしている彼からすれば、親代わりになってくれた祖父母夫婦の存在はかけがえのない物だった。
――また独りぼっちだ。
彼は大学を辞めた。
まるで夢遊病患者のように町を徘徊した。
酒と女に溺れる日々が続き、アルコール中毒で体が壊れ始めた。その時彼は生まれて初めて死のう、と思った。
――ここまで堕落しきった俺なんか、もう誰も相手になんかしないだろう。独りぼっちのくだらない人生、早く終わらせてみんなのいる天国へ逝ってやりたい。
しかし、自殺は重罪。天国どころか地獄行き。
このときの彼は狂っていた。常に酔っぱらい心ここにあらず。
だからだろう、彼は大学にいた時の親友、リナルディのもとを訪ねた。気の良いイタリア人でいつも一緒に女を口説いたりしていた。
そんな彼にハイドは『殺してくれ、そうでなければ死ぬための薬をくれ』と懇願した。
ハイドがとんでもない事を頼んだことと、やつれにやつれたその姿を見て、リナルディは事態の深刻さを悟った。放っておいたらこの男は間違いなく死ぬだろう。
リナルディは嫌がるハイドを無理矢理教会に連れて行き
『神の赦しを乞え! 良いシスターがいる、その壊れた体を治してからまた会いに来い』
と言って教会のシスターを紹介してくれた。それがシンシアとの出会いだった。
最初は医者に行かされた。ハイドは暴れたが麻酔で眠らされ検査を受けた。
アルコール中毒に加え臓器もだいぶ傷ついていて生きているのが不思議なくらいだった。
様々な困難はあったが彼女の献身的な治療によって壊れた体は少しずつ元に戻っていった。
医者は奇跡だと言ったがハイドはそんな事は思わなかった。
あったのはシンシアへの深い感情だけだった。
シンシアの口癖は『生きてる方が楽しい』だった。ありふれた言葉ではあるものの、ハイドは幾度となくこの言葉に助けられた。
ハイドはシンシアへみるみる惹かれていった。ハイドは思いを伝えシンシアはそれを受け入れた。少しの間、同居もしていた。
後に知ったことなのだが、彼女は大手製薬会社の令嬢で、親と喧嘩をして家出をしたらしい。シスターというのはその隠れ蓑に過ぎなかったのだ。リナルディがなぜ彼女を薦めたかというと、ただリナルディは彼女を口説いて失敗したのでハイドで試してみたかった、とそれだけの理由だった。
二人だけの楽しい生活が続いた。シンシアもハイドも仕事を見つけ働いた。金はなかったが幸せだった。
しかし、彼は二十二歳の冬、置き手紙と慰謝料の残りを置いて彼女の元を去る事にした。
手紙の内容は簡潔に“これ以上一緒にいたくない”と書いた。
決死の覚悟だった。
もちろん本音は違う。もっとずっと一緒にいたかった。出て行った後も後悔の連続だった。思い出すたびに拳を握りしめた。
しかし、ハイドは心のどこかで安心していたのかもしれない。もう誰も失わずに済む、と。
ハイドは誰かと一緒にいる事を無意識に恐れていたのだ。失ってしまえば二度と手には入らない。その恐怖が彼女を拒絶させたのだった。
シンシアはハイドから唇を離した。
満足そうに笑いながら首をかしげた。
「何か思い出したかしら?」
ハイドは体中の力が抜けた。まるで体の神経を全部切られたみたいに動けなかった。今、大切な物がここにある。そう思った。そしてしばらく間をおいてから唇を震わせながらこう言った。
「生きてる方が楽しい」
「やっぱり、とぼけてたんじゃない」
シンシアはハイド無理矢理椅子から立たせ拗ねたようにハイドを睨んだ後、頬に軽くキスを抱きついた。彼の肩ほどの身長の彼女抱きつくとまるで子どものようだった。
頬を胸に押しつけ目を細めて気持ちよさそうに笑う。
ハイドはいままでにない幸福感に包まれた。
彼はシンシアが抱きついたままベッドに倒れ込んだ。倒れたくて倒れたわけではない。酔っていて立っていられなかったのだ。
「ねぇ、何で私と一緒にいたくなかったの?」
シンシアは顔を伏せたまま声のトーンを落として言った。
ハイドは、そうだなと少し考え込んでやっぱりとつなげた。
「怖かったんだよ」
「私が?」
「違う」
「じゃあ、何で怖かったの」
「俺が臆病者だからだ」
彼は自分が失う事を恐れていたのに気が付くには、あまり時間は掛からなかった。ハイドは絶望し自分の弱さと臆病さを知った。
再び自殺をしようと思い立ったときシンシアの口癖を思い出した。
――『生きてる方が楽しい』
彼は自殺を止めた。
考えた末、イギリス陸軍へ入隊する事にした。軍隊なら弱い自分を変える事が出来ると思った。それに、常に自分や誰かを失うリスクを背負っておけば、いざ失ってしまったときの多少の免疫が付くと思った。
しかしその選択は間違いだった。体は強くなったが、仲間が次々と倒れていくのを目の前で見届けなければいけなかった。
ハイドの心はボロボロに傷ついていった。
そして彼の心はある時、音を立てて弾け飛んだ。
彼の命令違反で味方の一個中隊を全滅させてしまったのだ。ハイドは責任を取らされ除隊処分。すぐに精神病院へ入れられた。
しかしその後、一般の企業に就職しようとしたが叶わず、民間軍事企業でも再就職の履歴には不名誉除隊の記載がある人間は雇ってはくれなかった。
そして彼は家、財産、その他全てを捨て二十六歳でフリーの傭兵になった。
何故か最後は戦場へ舞い戻ってきてしまった。自分でもよく分からなかったが戦場に行きたくなった。楽しかった。
一からのスタートは彼を自由にし、恐怖を消し去った。何も失う物がない彼は強かった。
そして彼はつい最近、フォークランド紛争から帰り休暇中だった。
「俺は怖かったんだよ、お前がいつかいなくなっちゃうと思うと、祖父ちゃんや祖母ちゃんみたいに、いなくなっちゃうんじゃないかっって、だから、逃げ出しちゃったんだ。あれから何度も後悔した、いろんな事をするたびにお前の顔が浮かんだし、もう取り戻せない、もう会えないってわかってた。でもお前を失いたくない、お前だけは――」
「ふざけないでよ」
シンシアは真剣な表情でハイドを見上げた。
「私があなたの前からいなくなるわけ無いじゃない。あなたに愛してるって言われたときから、私のパートナーはあなただけよ」
シンシアの声は震えていた。言い切るとまたハイドの胸に顔を埋め顔を横に振った。涙を拭いているのが分かった。
「じゃあまだ……私の事を愛してるの?」
「当たり前だ」
シンシアは黙ってハイドの胸の中で肩を震わせ泣いた。歯を食いしばり声を押し殺しながら。
「でも、こんな臆病な男じゃ、嫌だろ?」
「そんな事無い!」
シンシアは壁を通り抜けそうなほど大声で怒鳴った。
「臆病なのは……大切な物を持ってるからよ……みんな臆病なのよ……でも逃げちゃ駄目なの……大切なのは……それと向き合って、守ことよ」
シンシアの声は途切れ途切れで聞き取りづらかったが言おうとしている事は十分に伝わってきた。
ハイドは何も言えなかった。言おうとした言葉は喉の出口で突っかかり発する事が出来なかった。
「だから……今度は、守って?」
シンシアは涙声で必死に喋った。弱みを見せないように顔を埋めたまま。体中震えていた。涙が止まらなかった。
「ああ」
ハイドは絞り出すような声で返事をする。
愛おしさが込み上がってきた。彼女の肩を抱き反転させ覆い被さる。
彼女は目元を真っ赤にしてしゃっくりまでして泣いていた。
カチューシャをはずし唇を重ね、手を握り合う。
「優しくして?」
――二時間後
シンシアはその後、服を着ないまますぐに寝てしまった。
ベッドで彼女が幸せそうな寝息を立てているときハイドは裸のままベッドの端に座って頭を抱えていた。
――なんてこった。
身体は未だに熱を帯び興奮している。眠れない。
もう逃げる事は出来ないとハイドは思った。
あそこまではっきりと言ってしまっては、もうシンシアから逃げる事は許されない。
彼はこの期に及んでシンシアから逃げる事を考えていたのだ。
しかし、彼の心を支配しているのは恐怖だけだった。
――また手に入れてしまった。また失うのか。
手に入れた物は必ず失う。彼はずっとそう思っている。
ハイドは脱いだスーツを拾い、身に付けないまま真横の自分の部屋へ戻った。誰にも見られはしなかった。
スーツを地面に投げつけドアの鍵を閉め、大声で叫んだ。壁を殴りつけ髪の毛をかきむしった。
――あんな思いはもう嫌だ! 絶対に!
ハイドは部屋の隅に置いておいた酒を手に取った。ウィスキーが四本とビールが三本。全て取り出し、飲み干した。
飲酒は彼にとっての娯楽と言うより現実逃避の道具になっていた。
酒を飲み寝れば嫌な事は忘れる。事実、彼は酒を飲むとその前後の記憶がはっきりしなくなる事を知っていた。
そして裸のままベッドに倒れ込み意識を失った。
***
「あれは夢じゃなかったのか……」
「あの行為を夢で終わらせたら、私今度こそあなたを殺すわよ」
「殺そうとした事なんかあったか?」
「ついさっきよ」
あまり冗談にも聞こえなかったのでハイドは真剣に話す事にした。
「で、私に何か言う事があるんじゃないの?」
何を謝ればいいのかハイドには分からなかった。また飲酒した事についてだと思った。
「ごめんなさい。また飲酒しました」
「は? 何言ってんのよ。そんなのこの部屋見れば分かるわよ! っていうか飲み過ぎ! せめて一杯にしなさい!」
飲酒についてではなかったようだ。損したなぁと思った。
「ごめんなさい。この六年間、軍隊にいました」
シンシアは軍隊が心底嫌いだった。人が死ぬ事を誰よりも嫌ったのだ。
「知ってるわよ、そんなこと! 何? 嫌がらせのつもりだったの? 私が軍隊嫌いなの知ってたでしょ!」
これでもないか、また地雷を踏んでしまった。ハイドはまた損した気分になった。
もう分からないのでシンシアに直接、ハイドは訊ねた。すると、彼女は『まだ謝ってもらっていない』と言った。彼女なりのケジメを付けたいようだった。
「六年間も放っておいて本当に済みませんでした!」
誠心誠意、謝ったつもりだった。しかし、シンシアの反応は
「い・や・だ!」
の三文字だった。
これから償いをさせて許すつもりらしい。
彼女は悪戯っぽく、そして心底幸せそうにほほえみながらハイドの手を引いた。
「朝ご飯にしましょう!」
ハイドはなされるがままシンシアについて行った。
もう、失いたくない。そんな事をやっぱり思ってしまう。
しかしハイドは歩みを止めなかった。
これからは彼女を守ると決めた。彼女と過ごすと昨夜までの恐怖は不思議と消えていった。これが向き合う事だと思った。
そして、手を引かれながら一言、口ずさんだ。
「生きてる方が楽しい」
あとがき
こんにちは、神山です。
なんか書いていてやりすぎたなって思いました。
ちょっと後悔です。前回の作品で自分で読んでいて吹き出すような誤字脱字があり泣きたくなりました。
まあそこはポジティブにと言う事で大丈夫なんですが、今回書いたこの作品、やばいです。設定が崩壊し掛けている気がしませんか? 設定というかキャラが崩壊してますよね、主人公達と作者の。
なんか前の作品と始まり方が一緒だな〜とは途中で思ったんですけどね。妥協しました。はい。
まぁ愚痴はこの辺にして、内容に少々触れさせて頂こうと思います。大丈夫、ネタバレなんかしないのさ。
今回、書いたこの作品、『不幸な男のちょっと幸せな話』は思い付いたまま私自身が欲ぼゲフンッゲフンッ……思いつきをそのまま書いた物です。私自身結構、血なまぐさいのが好きなんですけれどもこういう系のお話も書いてみないなぁなんて思っていろいろやって完成したのがこれです。
どうですかね? どことなく中二っぽさがありますよね〜。(←この部分は否定して下さい)
楽しく書いた方だと思ってます。
皆さんも呼んで頂いて楽しんで頂ければ幸いです。
あとあとそういえば、友達の後書きにお気に入りの作家さんの話を出してもらったので。
ちょっと好きな作家の名言で閉めようと思います。
――『人間狩りほど面白いものはないのだ。武装した
人間ばかりを長い間標的にしてきた者、それが
好きな者に、ほかの獲物はもはや考えられない』
――アーネスト・ヘミングウェイ
それではまた。