『闇夜の魔法』
薄闇に包まれた夕暮れ時、公園の入口の薔薇のアーチを、四人の人影がくぐった。
幼い男の子と女の子、そしてそれぞれの母親。小さな影が手を取り合って、大きな影が両脇に寄り添う。子供たちの無邪気な笑い声が、日暮れの町に響いていた。
「シウくん、今日は私の家でハロウィーンパーティーだからね! 七時からだよ」
「うん、絶対いくよ。待っててね」
シウと呼ばれた男の子が言うと、女の子の笑顔はますます輝いた。女の子の頭を母親が撫で、微笑みながら優しく語りかける。
「今おばあちゃんがパーティーの準備してるから、帰ったらお手伝いしようね」
「はーい!」
リサと呼ばれた女の子が元気良く答え、四人は丁字路に差し掛かった。
「じゃあね、リサちゃん」
「うん、また後でね」
子供たちと母親たちがそれぞれに別れを述べて、手を振りながら別の道を帰っていった。
リサと別れたシウは母親と手を繋ぎ、夕闇の町角を楽しげに歩いていく。シウの母親は微笑ましがるように我が子を見ながら問いかけた。
「ねえ、リサちゃんにどんなプレゼントあげようか?」
シウはもう、心の中でプレゼントの内容を決めていた。だけど自分で決めたことを母親に言うのが恥ずかしくて、少し顔が赤らんで声がくぐもってしまう。
「ええっとね、お人形さんを買ってあげるの。リサちゃんはお人形さんが大好きだから」
「そっかぁ、それはいいね。じゃあ、これから買いに行こうか。シウが選んで買ってあげるんだよ」
少し照れながらシウは大きく頷き、にこにこ笑いながら歩みを早める。少しでも早くプレゼントを買って、リサの喜ぶ顔が見たかった。
やがて二人は小さなおもちゃ屋に来て、母親はシウに言った。
「私はここで待ってるから、シウが自分で買ってきてね。シウが一人で買ったって聞けば、リサちゃんも喜ぶよ」
シウの小さな手に、母親はお札を一枚握らせた。一人で買い物をするのは初めてで、シウは少し不安に思ったが、自分がプレゼントを買うのだという意志で頷いた。
お札をポケットに突っ込んだシウが扉を開けると、柔らかな橙色の光が漏れ出し、頭の上でカラカラとベルが鳴った。店の奥で木の椅子に座った老人が、少し愛想を欠いた重厚な声で「いらっしゃい」と呼びかける。
壁一面に並んだおもちゃを眺め、シウは人形やぬいぐるみを見て回った。もこもことしたクマのぬいぐるみや、澄んだ青い瞳のドール、カラフルなピエロのパペットなど、様々な人形が置かれている。
目移りしながらシウが人形を眺めていると、一つの人形が目に止まった。布を縫い合わせて作られた、可愛らしい魔女の人形だ。細い目で笑いながら黒いトンガリ帽子を被って、足元まで届く黒いケープを纏い、随所にカボチャのマークが縫い付けられている。パッチワークで橙や黒に彩られたドレスの腹部には、キラキラと光るカボチャのバックル。右手に提げているのは、フェルトで顔を付けたカボチャのランプだ。
シウは一目見て、その人形が気に入ってしまった。可愛らしい表情と綺麗な衣装、それにハロウィーンにはピッタリのデザインだ。
しかし、その人形に付いた値札を見てシウは落胆した。彼が母親から貰ったお金では、少し足りない。もちろん、シウが持っているお金はそれだけだった。
――これだけ素敵な人形を見付けたのに、この人形ならリサちゃんは絶対に喜んでくれるのに……。
シウはどうしても諦めることが出来なくて、そっと店主のおじいさんを見た。店の奥で椅子に腰掛けて、ぬいぐるみにパッチを当てている。こちらのことなど、気にしている様子は無かった。
一個ぐらい無くなっても、気付かないはずだ。そう思い、シウは背を向けながら魔女の人形を懐に隠した。自分が何をしているのか考えると息が詰まり、鼓動が激しくなる。それでも、なんとか平静を装って店の扉を出ることが出来た。扉の小窓を見ると、おじいさんは未だに店の奥で座っている。
シウは心の底から安堵して、大きく息を吐いた。これで、素敵なプレゼントをリサに渡せる。そう思って顔を綻ばせたシウだったが、辺りを見回すと不思議なことに気付いた。
店の外で待っているはずの母親が、どこにも見当たらないのだ。確かに、ここで待っていると言ったはずなのに。
――もしかして、先に帰っちゃったの?
そう考えると急に心細くなり、シウのちっぽけな心を不安が飲み込んだ。シウはここからの帰り道が分からないのだ。母親がいなければ、家に帰ることもパーティーに行くことも出来ない。
「お母さん、どこにいるの?」
少しずつ闇が深まる晩秋の夜、見えない母親の影を探してシウは呼びかけた。しかし返事は返らないで、シウの足取りだけが闇雲に石畳をさ迷い歩く。
すると突然、シウの懐で何かが動いた。さっき盗んだ魔女の人形がゴソゴソと手足を動かし、懐から顔を出していた。
驚くシウを尻目に、魔女は勢い良く飛び立って空中にフワフワと漂う。外れた値札が地面に落ちて、カラリと小さく音を鳴らした。人形が右手に提げたカボチャの中で、赤い炎がチラチラと燃え始める。
「くつくつくつ、おいで、おいで」
魔女の人形は針のように細い目で笑い、頭上からシウに語りかけた。そしてくるりと背を向けて、宙を滑るように飛んでいく。
しばらく呆然としていたシウは不意に我に返り、慌てて人形の後を追いかけた。町角の迷路をスイスイ抜ける魔女を追って、小さな体で精一杯に走っていく。
走るうちに、シウの目に映る世界は少しずつ大きくなっていった。いや、シウが小さくなっているのだ。彼の体はすこしずつ縮んで、だんだんと軽くなっていく。一歩一歩がフワフワと弾んで、羽が舞うように軽快な感覚だった。それにあわせて、魔女も少しずつ高さを上げていく。
そしてついに、魔女はフワリと浮かび上がって屋根の上へ消えてしまった。シウもそれを追って、地面を思いきり蹴り付ける。軽くなったシウの体は鳥のように舞い上がり、屋根の上まで飛び上がった。
星の散りばめられた町の夜空を渡る魔女の人形。ずいぶん小さくなったシウも、ピョンピョンと屋根を飛び移って追いかける。今やシウの体は人形ほどの大きさになっていた。
どれほど追いかけっこを続けただろうか。この不思議な感覚に酔いしれていたシウには、時間の流れも今いる場所もよく分からなくなっていた。
ある時、魔女は不意に屋根へ下り立ち、こちらを振り向いた。その姿はもはや人形ではなく、体躯は人間の子供ほどになり、肌も布ではなく生身の身体そのものだ。
魔女は細い目を吊り上げ、ニヤリと不吉な笑みを浮かべた。マントのようなケープを掴んで大きく広げ、シウを手招く。すでに高く飛び上がっていたシウは逆らうことが出来ず、勢いそのままに魔女のほうへと突っ込んでいった。
小さなシウの目の前に魔女の真っ黒なケープが迫り、夜陰よりも暗い闇が視界を覆っていく。地面に落ちることも、何かにぶつかることも無く、奇妙な浮遊感が体を包み、シウは果ての無い闇の中を漂い始めた。
何も見えない、行き先も、自分の体も。どこへ行けばいいのか、何も分からない。
そんな中、遠くに明かりが見えた。あそこが出口かもしれない。シウはその輝きに引き寄せられるようにして、どんどん近付いていく。
しかし、シウは気付いた。その輝きは、魔女が持っていたカボチャのランプだった。彫りこまれた不気味な笑顔の中で、たゆたう炎が燃え盛っている。抗うことも出来ずに近付けば近付くほど、カボチャはどんどん大きくなっていった。
やがてカボチャは目の前まで迫り、その口でシウを飲み込むほどの大きさになった。ゴウゴウと燃え上がる炎に吸い寄せられて、シウはカボチャの中へ飛び込んだ。
熱くはない。シウが最後に感じたのは、体から何かが抜け出していく不思議な感覚だった。
「シウくん、どこに行っちゃったのかなぁ」
夜の闇がはびこる町角を、リサと母親が歩いていた。どこにもいなくなってしまったシウの姿を探して。
ある時、リサは路地裏に転がる小さな人形を見つけた。捨てられているにしては綺麗なその人形を取り上げ、リサは奇妙な顔をした。
「あれ? この人形、シウくんと似てる」
しかしリサはそれ以上に深く考えず、母親のカバンにしまった。そしてそのままその場を去り、二人は角を曲がって去っていった。
楽しげな声が町に響くハロウィーンの夜、先ほどより少し明るくなったカンテラを提げて、小さな魔女が空を横切る。しかし、その姿は誰に見られることも無く、遥か彼方へと消えていった。
『かりそめワールド』
一体、いつ頃からだろうか。使わなくなったものを彼のところに持っていくようになったのは。
そうするのが当たり前のことだと誰もが思っている。そして私も、小さな頃からそうしていたような気がする。
だけど実のところ、私は彼がどんな人間なのかよく覚えていない。私たちといつも関わっているはずなのに、彼は実体が無いかのようにとても曖昧な存在なのだ。
今、私はアスファルト舗装の道路脇を歩いている。私の家から彼のもとまで、幾度となく歩んできた数分の道のりだ。
私はこれから彼にシャンプーを渡しに行く。私が昨日まで使っていて、まだ中身が二割ぐらい残った、だけどもう要らないシャンプー。中学校の友達の間で評判になっている新製品を使いたくて、ドラッグストアで買い換えたのだ。
きっと彼だったら最後まで使い切ってくれるだろう。ピチャピチャ音を立てるボトルを提げながら、私は真っ直ぐに歩いていった。
小さな月極駐車場の向かいで、彼は今日も地面に座り込んでいた。私と同い年ぐらいの、浅黒い肌をした少年だ。野ざらしで黒ずんだタンスや袋詰めの本に囲まれて、電池が切れかかった恐竜の玩具で遊んでいる。
私が彼の前に立つと、彼は恐竜を引っ掴んでおもむろに顔を上げた。木炭のようなガサガサの髪の間から、ボンヤリした瞳が私を見る。
キシキシと脚を動かし続ける恐竜を仰向けに置いて、彼は退屈そうな声で語り掛けてきた。
「何の用だい? ああ、いや、分かったよ言わなくていい。それはシャンプーだね」
どう話しかけようか迷いながら私が口ごもっていると、彼は勝手に話を進めていく。まあ彼に任せておけば間違いは無いし、私もそのつもりで来ているのだけど。
「さてと、シャンプーはこれだったかな」
彼は山積みの荷物から透明なビンを取り出して、地面に置いた。洋酒か何かの空きビンを再利用しているのだろうか。薄黄色のガラスの中で、ドロドロした灰色の液体が流動している。
彼は私が持ってきたシャンプーの容器を受け取ると、いきなり中身をビンに注ぎ込もうとした。
「え、ちょっと、全部混ぜちゃうの?」
彼の突然の行動に衝撃を受け、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。シャンプーを混ぜてしまったら、香りも何も分からなくなってしまうじゃないか。
彼は座り込んだまま手を止めて、文句あるかとでも言いたげに顔を上げた。私の返答によって何を変えるつもりも無く、話だけ聞いてやるという顔つきだ。
「だって、シャンプーを混ぜて使うなんて聞いたこと無いよ」
「混ぜると何か良くないことがある? 頭が洗えればそれでいいじゃないか」
彼はただ一つの正解を語る教師のように、ハッキリとした口調で言い切った。
よく考えれば確かに、シャンプーを混ぜたからって使えなくなるわけは無い。どうにも変な感じはするんだけど、何度首を傾げても納得のいく反論は浮かばなかった。
「そうだね、まあ、駄目ってことは無いかも。混ぜてもいいよ」
「よしきた」
彼は待ってましたとばかりにボトルを傾け、中身をトロトロと注ぎ始めた。灰色の液体に乳白色の柱が立ち、少しずつ混ざり合っていく。まるで底なし沼に飲まれているみたいだ。
流れ落ちるシャンプーを凝視するだけの数秒間が過ぎ、彼は最後の一滴までビンに注いで栓をする。
注ぎ込まれて沈んでいったシャンプーはもう跡形も無く、泥のような流動体の一部になってしまった。昨日までお気に入りだったはずのあのシャンプーは、もうどこにも無くなってしまった気がした。
タネの分からない手品を見せられたような不思議な気分が、私の心に淀んでいる。上手く割り切れない感情を持て余したまま、私は棒立ちで彼とビンを交互に見つめていた。
彼はカラになった容器をタンスの上へ置き、私のことなど気にも留めないように再び座り込む。
すると向こうから近所のおばさんが、小さな袋を提げてやってきた。あの人もやはり彼に用があるようだ。
「うちの子がパンの耳を嫌いでねえ、余っちゃってしょうがないのよ。今日も頼むわね」
彼はいつもそうしているように「ああ」と返事をして、後ろから大きなビニール袋を取り出した。野菜の欠片とご飯が一緒くたになったゴチャゴチャが、半透明の袋の中に薄く見える。
オバサンからパンの耳を受け取った彼は、袋の中にバラバラと落とし込んだ。食べ物とは到底思えない混沌の上に、パンの耳が降り注ぐ。
彼はあれを食べているのだろうか。食事をしているところを見たことは無いけれど、たぶん食べているのだろう。
とても食欲を催すようなものではないけれど、彼ならあまり気にしなそうだ。シャンプーの時と同じように、混ぜても中身は変わらないと言うのだろう。
そしておばちゃんが「ご苦労様」と言って去っていくと、その場には再び私と彼だけになる。普段なら彼とは必要最小限のやり取りしかしないのだけど、今日はなぜか帰るタイミングを見失ってしまった。いつも当たり前にしている動作を不意に忘れてしまった時のように、どうしようも無い違和感が私を満たす。
彼は座ったまま訝しげな目で私を見上げ、「まだ何か用?」と言い捨てた。言外に「用が無いなら帰ってくれ」と言われたような気がする。
「ううん、用は無いけど、あなたに聞きたいことがあって」
実を言うと、私は彼のことを知りたかった。でも、彼がどこで生まれてどこへ行くのか、なんてことを聞くわけじゃない。今の彼が何を思って何に生きているのか、ただそれが知りたかった。
「あなたは、何のために生きてるの? 大切なものは無いの?」
今までの人生で、こんな質問を誰かにしたのは初めてだ。友達に言っても相手にされないだろうし、そもそも友達の生き方なんて興味ないし。生きる以外のことを何もしていない彼だからこそ、こんなことを尋ねたくなったのだろう。
彼はキョトンとした顔で私を見返した後、しばらく首を傾げたりして考えた後に話し始めた。
「僕が生きてることに意味なんて無いよ。ただ死なないように生きてるんだ。大切なものだって無いね。だって、僕が持ってるものは、みんな君らが要らなくなって持ってきたものじゃないか」
風が吹くようにサラサラと言ってのけ、彼は小さく溜息をつく。
私はなぜだか、彼の物言いに少し腹が立つのを感じた。確かに、私が彼に渡すのは要らないものばかりだけど、彼自身にそう言われるのは嫌な感じがしたのだ。
「でもあなたは、私たちが持ってきたものが無いと生きていけないでしょう」
意地悪な言い方だとは思いながらも、彼を困らせるための言葉を吐く。言い終えてしまってから、私は自分の物言いがひどく短気で浅ましいことに気付いた。
しかし彼は、私に怒ることも軽蔑の視線を送ることもせず、淡々と答えた。
「その通りさ。だから僕が生きる意味なんて無いんだよ。僕の命は全部、君らが要らないと言ったもので出来てるんだから」
私は彼の理論を十分に理解することは出来なかったけど、反論のしようが無いことは分かった。彼の言葉は正しい――鏡のように明らかで、何を映すことも無い。
さっきまでキイキイと脚を動かし続けていた恐竜は、いつの間にか電池が切れて止まっていた。
なぜだか、私はやけに悲しくなってきた。私には彼を救う言葉も手段も無く、救うという概念さえ彼には当てはまらない。
私たちは彼を生かすことも殺すことも出来ないのだ。いや、出来るけれどしない、する必要が無いから。
「何を変な顔してるんだ、さあ、僕は質問に答えたよ。まだ何かある?」
彼は決まりが悪そうに視線を逸らしながら吐き捨てた。霧のように孤独を纏いながら、身体の全てで私に「帰ってくれ」と訴えかけているようだ。
もう私には何も言葉が無い。これ以上は何も聞いてはいけない気がした。
「ううん、もういいよ。話してくれてありがとうね」
やっと終わったかと彼が溜息をついたのを見届けて、私は来た道を引き返した。あとは家に帰るだけ、結局いつもと何も変わらない。
その時、不意に後ろから彼の声がした。
「まったく、君は不可解だな。そんな風に話しかけてきたのは君が初めてだよ」
振り向いて見ると、彼は私のほうを見ずにブロック塀と背中を合わせていた。まっすぐ向かいの駐車場を、やけに真剣な顔で見つめている。
「君がくれたシャンプー、大事に使わせてもらうよ。ありがとう」
まるで独り言のように、だけど私にハッキリと聞こえる声で彼は言った。なんだか彼らしくないな、と思いながらも、私の胸は薄紅色の安心に包まれていく。
彼という存在が背負う悲しさを、少しだけ和らげることが出来たような気がした。
「うん、またね」
私は彼に微笑みかけて手を振り、再び歩き出した。薄汚れて透き通った彼の横顔が、幻視のように私の目に浮かぶ。
それっきり、私は振り向かずに家路を辿った。
普段は彼とろくに話もしないのに、今日はどうして命の話なんてしたのだろう。たぶん深い意味なんて無い。いつもと同じ繰り返しの中で、たまたま彼の不思議に気付いてしまっただけのような気がする。
想像も付かないぐらい低い確率の、無意味な奇跡。きっと数分後には私も彼も、さっきの会話なんて無かったかのように今まで通りの生活へ戻るのだろう。
それでも私には、この単純で短いやり取りがとても幸せなものに思えた。
その翌朝も、私は彼のところへ向かった。部屋の片づけで出てきた古い玩具たちを、袋に詰めて彼に渡しに行く。
からくり仕掛けで形が変わる不思議な立方体や、電池で音が鳴る太鼓など、子供の頃に遊び古した玩具だ。
こんなものでも彼は楽しく遊んでくれるだろうか。不安なような楽しみなような、ちょっとドキドキした気持ちでいつもの場所に歩いていく。
しかし今日は、そこに彼の姿は無かった。黒褐色の見慣れたタンスも、本の山も無い。ただゴチャゴチャとものを詰めた大きなビニール袋が積み上がっている。
その袋の一つに、灰色の液体を入れたビンが見えた。一体これはどういうことなのだろうか。
どうすればいいか分からず私が立ち尽くしていると、向こうから昨日のおばさんが歩いてきた。両手には大きなビニール袋を提げている。
おばさんは私を見て愛想よく「おはよう」と言い、私も「おはようございます」と返した。そしておばさんは当たり前のように、彼がいるべき場所に袋を重ねた。
何か私の知らない事実を、おばさんは知っているのかもしれない。聞いてみよう。
「あの、ここにいた男の子はどこに行ったんですか?」
「男の子?」
私の言いたいことは伝わらなかったようで、おばさんは不思議そうな顔をしている。
「ここに住んでいる男の子です。いつもみんなからものを貰っている男の子」
「何のお話? まさかゴミ捨て場に人が住んでいるわけないじゃないの」
おばさんは本当に分からないようで、眉根を寄せながら首を傾げている。
だけど私も何を言われたのかよく分からず、戸惑いを隠せなかった。なんで急にゴミ捨て場なんて言葉が出てきたのだろう?
「ここは、ゴミ捨て場になったんですか?」
「何を言ってるのよ、ここはずっと前からゴミ捨て場でしょう。あなたも時々お手伝いでゴミを捨てに来てるじゃない」
おばさんは驚いたような顔で、当然だとばかりに言い切った。
ここがゴミ捨て場? ここに少年なんて住んでいない?
確かによく考えてみれば、私は何度もここにゴミを捨てに来た覚えがある。肌寒い冬の朝も、爽やかな夏の朝も。なんだか、ずっと前からここはゴミ捨て場だったような気もする。
だけど、それなら彼はどうしてしまったのだろう? 私が話していた彼は本当に存在していたのだろうか?
私は目の前の景色が歪んで回りだすような錯覚に囚われた。何かがおかしい、頭の中がゴチャゴチャする。
ダメだ、取りあえず冷静にならないと。
「すいません、なんだか寝ぼけてたみたいで……」
「まったくもう、しっかりしなさいよ」
ひとまず全ての違和感から目を逸らし、私は照れ笑いでごまかした。おばさんのほうもあまり気にしなかったらしく、笑顔を見せて帰っていった。
もう一度、落ち着いて考えてみる。ここは彼が住む場所なのか、ゴミ捨て場なのか。私の記憶の中ではどちらも本当なのだ。でも、両方なんて答えはあり得ない。
今の状況を信じるなら、ここはゴミ捨て場だと考えるのが自然かもしれない。でも私の中には何かためらうような気持ちがあって、一概には決められなかった。
しばらくすると、向こうからゴミ収集車がゆっくりと走ってきて、私の前に――というよりゴミ捨て場の前に――停車した。青い帽子を被った二人の清掃員が降りてきて、ゴミ袋の山を手早く車に放り込んでいく。
淡々と続けられるその作業を私はボンヤリと眺めていた。収集車の後ろのほうから、プレス機がゴミを咀嚼する音が聞こえてくる。
全てのゴミ袋を片付け終えて、清掃員の一人が私を見た。両手に袋を持って立ち尽くす私に、
「それもゴミですか?」
その一言に私は焦った。なぜか心を掻き乱されるような感じがして、狭まる喉を震わせて叫ぶ。
「ち、違います!」
私が急に大声を出したものだから、清掃員は驚いて顔を引きつらせながら「すいません」と短く答えた。
彼らは仕事を終えるなり素早く車に乗り込み、そそくさと去っていった。後に残ったのは私一人だけ。自然と息が上がっていた。
私はどうして、この袋を清掃員に渡さなかったのだろう。中身はもう使うことも無い玩具だけなのに。
多分、私は「ゴミ」という言葉を恐れたのだと思う。今も心の中にいる彼を守り続けたかったから。
「ゴミなんかじゃないよ……」
淋しい風を背中に浴びながら、私は誰にともなく呟いた。いや、むしろ、自分の心に向けて語っていると言ったほうが正しいような気がする。
これがゴミだなんて、認めることは出来なかった。全てをゴミにして片付けようとする自分から逃げたかったのだ。
本当は捨ててしまってもいいものなのだけど、でも私の中には変な意地があって、捨てるなんてことは出来なかった。
私は臆病者なのかもしれない。玩具を捨てることも躊躇ってしまうほどに小さな存在なのかもしれない。
ここに彼がいれば、こんなことで悩まないのに。彼に渡せばゴミにならずに済むのに。でも今、私の前に彼はいないのだ。
今になって考えてみると、私にとって彼はどんな存在だったのだろう。要らないものを処分するために体よく利用していただけ、と言われても仕方ないと思う。
でも昨日だけは違った。あの時の私は一人の人間として彼に接していたし、彼が人間であることこそが重要だった。
彼が生きる意味は、本当に無いのだろうか。確かに、彼がいてもいなくても結果は同じかもしれない。だけどそれなら私はどうして、こんなにも悲しい気持ちに苛まれているのか。
もう私には分からない。自分の中にさえ矛盾を抱えているのだから、私が彼のことを決められるわけが無いのだ。
それでも私は、彼の生きる意味を望んでいるのだろう。この玩具たちの行き先を――思い出のやり場を見付けるために。
何も無くなって張り紙だけが残ったゴミ捨て場を、私はジッと見つめていた。両手の荷物がやけに重く感じて、家に帰る気にもなれなかった。
いつも見慣れた近所の町並みが、知らない町みたいに感じられた。
『人恋しくて 〜やりばの無い歌パロ〜』
午後七時三十分、僕は隣の部屋の振り子時計が鳴らす鐘の音で目を覚ました。
早めの夕飯を食べたから、うっかり眠ってしまったのだ。こんな時にまで寝てしまう呑気者な自分を恨むと同時に、焦りが湧いてきた。
すぐに出かける支度をしないと、八時までに間に合わなくなってしまう。
僕はクローゼットを開けて、パッと目についた黒のジャンパーを選んで羽織る。夜とは言え中秋だからそれほどは冷え込まないし、これぐらいが妥当だろう。
洗面所に行って顔を洗い、急いで歯を磨く。髪型は、別に普段から気にしてないから構わない。
部屋に戻るとショルダーバッグにまとめてある荷物を持ち、電気を消した。廊下から漏れる明りを残して部屋は真っ暗になり、カチコチと鳴る秒針の音が妙に大きく聞こえる。
誰もいない廊下を通って玄関に行き、いつものスニーカーを履いた。玄関まで暗くしたら不用心だから、ここは電気を点けておこうか。
今日は父さんも母さんも親戚のお通夜で遠方に泊まってるから、家には僕一人なのだ。そうでもなければ、こんな夜中に中学生が一人歩きなんて出来ない。
僕は自転車の鍵を取ろうとして、しかし鍵が無いことに少し驚いた。何か悪いことが起こったのかと一瞬だけ不安になった後、単なる鍵のかけ忘れだと気付く。僕は時々、自転車の鍵を差しっぱなしにしてしまうことがあるのだ。
改めて自分の防犯意識の低さに呆れながら、僕は玄関を開けて外に出た。
思った通り、外の気温は心地良い涼しさで、風は程よく湿気を含んでいた。濃紺色の夜空は八割ほどが黒々と雲に覆われ、時どき雲の切れ間から明るい満月が覗いている。
雲の流れが速いから好転するかもしれないけど、残念ながらお月見に丁度いい天気とは言えない。
僕はこれから、彼女とお月見に行くのだ。もちろん、月を見るだけなら場所はいくらでもあると思うけど、僕たちは隣町の河川敷で待ち合わせることになっている。
対岸の河川敷だから僕の家からは少し遠いけど、川の向こう側に住んでる彼女にとっては近いのだ。向こう岸には草野球のグランドが無いし、ウォーキングコースからも離れているから、二人きりになるには丁度いい。
付き合い始めた頃から僕らのデートはいつも河川敷で、初めてキスをしたのも川沿いの高架下だった。
当然ながら初デートの時も河川敷だ。その頃はまだ僕には――たぶん彼女にも――恋人なんて意識は無かったけど。
きっかけはあの日、僕が数学の授業中に席を外してトイレに向かったことだった。そして教室に戻る途中、何気なく見上げた階段の上に彼女がいたのだ。屋上へ続く扉の前で彼女は僕を一瞬だけ見下ろし、すぐに視線を逸らした。
当時の僕にとって彼女は、数学や科学の授業になると教室から消える不思議なクラスメイトぐらいの認識しか無かった。嫌いな授業だからサボるという考え方を全く知らなかった僕は、彼女を見上げながら「教室に戻ろう」と話しかけた。
彼女は僕を睨み付けたけど、僕は彼女が何か言うものと思ってずっと待っていた。すると彼女は抵抗するのも面倒臭くなったようで、決まりが悪そうな顔をしながら階段を下りて来た。その時の彼女の表情は、今にして思えば「空気を読め」と暗に語っていたのだろう。
僕が彼女を後ろに連れて教室に入ると、クラス全員が目を丸くした。ただ一人、彼女の顔を覚えていない数学の先生だけが困ったように首を傾げていた。
その日の放課後、僕は彼女に呼び出された。帰り際に「話があるから体育館裏に来い」と告げられたのだ。
言われた通りに行ってみると、なんで私に関わるのか、放っておけばいいだろう、とか次々に文句を言われた。でも僕は彼女と関わろうとしたつもりは無いし、なんでそんなことを言われるのか分からなかった。
どうして授業を受けないのか僕が尋ねると、彼女は「余計なお世話だ」と言い捨てて呆れ顔をした。僕と彼女の間には考え方のズレがあり過ぎたようで、要領を得ない会話が続いた。
すると彼女は急に視線を逸らして憎々しげに舌打ちをした。彼女の視線の先を追ってみると、体育館の陰から数人の女子がこちらを見ている。僕たちに気付かれたと気付くやいなや、女子たちはわざとらしく姿を隠した。
わけが分からずに僕が首を傾げていると、彼女は僕の腕を掴んで強引に歩き出した。
「付いて来い、歩きながら話す。裏門から出るぞ」
僕は戸惑ってしまって抵抗も出来ず、彼女に引っ張られるまま裏門のほうへ向かった。
「あれ、お前ら、なんでこんなところにいるんだ」
いきなり背後から声を掛けながら振り向くと、校舎の裏口で担任の先生が立っていた。いつもの生真面目な姿とは違ってサングラスを掛け、ハードボイルドな雰囲気を漂わせながら煙草をふかしている。
「あんたこそ、なんでこんなとこにいるんだよ」
彼女が吐き捨てるように言うと、先生は煙を吐きながら笑った。
「校長も副校長も嫌煙家だからさ、校内で煙草をふかすと死活問題なんだ。ここだって見つかれば逃げ場も無いし、安全じゃないけどな。まったく、あの御人たちとは心のひとつも解り合えない」
校舎の外壁にもたれながら空を仰ぎ、先生は携帯灰皿に煙草を押し込む。
彼女は興味も無さそうに再び歩き始め、わざと先生に聞こえるように口走った。
「大人のクセに、くだらないことやってるんだな」
僕は相変わらず彼女に引っ張られていたので、先生がどんな反応をしたのかはよく見られなかった。ただ、僕たちが裏門から出る頃には次の煙草に火を点けていた。
その後、僕らは相変わらず要領を得ない会話をしながら歩いて行った。そのまま川の向こうまで歩いて、それでも話の決着が付かないから河川敷へ下りた。
芝生が生えた土手の斜面に彼女が座り、僕も彼女に倣って座る。川の向こう岸に見える僕らの学校が、夕陽に赤く染まって見えた。
「なんだか馬鹿みたいだな。一体何がしたいんだ、お前は」
「それ、どちらかと言うと僕の台詞だと思うんだけど」
お互い様か、彼女は呟くように言って仰向けになった。僕も真似をしようかと思ったけど、背中が汚れそうだからやめた。
「ところで、お前にとって、授業を受けることはそんなに大事か?」
「大事でもそうじゃなくても、授業は受けるものでしょ」
僕が返したその答えは、いかにも僕らしい言葉だったと思う。この時点では、彼女と僕の認識は全く噛み合っていなかった。
もちろん、彼女からしたら納得のいかない答えだっただろう。彼女が話そうとしていた論点は、僕より一歩も二歩も先に進んでいた。
「やっぱりお前は変なやつだな。私が授業に出たって、落書きの教科書と窓の外を見てるだけだ。何の意味も無い」
あの時、僕はどんな言葉を返したのだろうか。記憶が曖昧だけど、ろくな言葉を返せなかったことは覚えている。僕と彼女の価値観の違いを把握し始めたのは、この言葉からだったと思う。
その後は話が途絶えてしまい、時間も遅かったから僕は帰ることにした。僕が土手の上から手を振ると、彼女はおもむろに問いかけてくる。
「なあ、お前から見て私はどんな人間だ?」
僕は特に深いことを考えず、率直な思いを口にした。
「不思議な人、かな。話も噛み合わないし」
「そんなもんかな。私からしたらお前のほうが不思議でしょうがないさ」
それっきり彼女が何も言わなかったので、僕は再び土手の上を歩きだした。
僕の帰り道が彼女の家と真逆の方向であることは、最後まで言えなかった。
それからというもの、僕と彼女はいつも一緒に裏門から帰るようになった。特に周囲の目を意識することも無く歩いて行き、そして土手に座りながら話をする。最初のうちは彼女が延々と愚痴を言うだけだったけど、次第に笑顔も増えるようになった。
そうやって少しずつ仲良くなりながら、僕たちは同じような毎日を繰り返してきた。恋人同士という関係も、手を繋いだりキスしたりする中で自然に発生したものだ。
そして今日の夕方、僕は彼女とお月見の約束をした。今日がちょうど中秋の名月で、しかも両親が外泊することを聞いていたのは幸運だった。こんな夜遅くに彼女と会うのなんて初めてだ。
僕は胸の高鳴りを感じながら、家の裏に停めてある自転車へ向かった。しかし驚いたことに、そこには自転車の影も形も無かった。まさか、鍵をかけていなかったから盗まれてしまったのだろうか?
自転車ならば充分に間に合うだろうと高を括っていたけれど、これは本格的にマズイ。今から全力で走っても間に合わないかもしれない。でも走るしか無いだろう。彼女は携帯電話を持っていないから、遅れるという連絡さえ出来ないのだ。
少し高くなってきた満月が雲間から顔を出し、夜の町は妙に青みがかって見えた。人も車も滅多に通らない道路を、僕は一心に走り出した。
見え隠れする月を斜め上に見ながら、静かな町に足音を響かせて駆け抜ける。
走り始めてからどれぐらい経っただろうか。頑張って精一杯に走っているつもりだけど、川への道のりはなかなか縮まらない。
その時、僕は唐突に誰かの叫び声を聞いた。
「誰か助けてくれ! 俺はこんなところでくたばりたくない!」
まだ若い、中高生ぐらいの声だ。驚いた僕が横道へ入って見に行くと、声の主は道端に捨てられた自転車だった。青い塗装がはげて赤錆の浮かんだ自転車が、ゴミ捨て場に縛り付けられて叫んでいたのだ。
「おい、あんた! そこのあんただ! この縄をほどいてくれ!」
自転車に荒っぽく呼びかけられて、僕は思わず立ちすくんだ。どうしたらいいのだろう。いくらゴミだって、そんなことをしたら窃盗罪だ。
「そんな、無理だよ。だって君は、捨てられたからここにいるんでしょ?」
「ふざけるな! 俺はまだ走れる! 俺は最期の瞬間まで走っていたい、誰にも縛られたくないんだ!」
息を切らしながら、自転車は噛み付くように叫ぶ。彼の強い語勢に押され、僕は彼の望みを叶えてあげたくなってきた。第一、僕はさっきまであんなに自転車を求めていたじゃないか。願ってもないことだ。
「分かったよ。でもその代わり、僕に力を貸してほしい。急いで行きたい場所があるんだ」
「合点だ。早く縄をほどいて乗れ」
固く結ばれた紐をなんとかほどき、僕は自転車にまたがった。
「悪いけど、飛ばしていくよ」
「おう、望むところだ。ぶっ壊れるまで走り抜いてやるよ!」
僕は地面を蹴って勢いを付け、思いきりペダルを踏み込んだ。スピードに乗り始めた自転車は滑るように町を駆け抜けていく。
「急いでるとこ悪いんだけどよ、お前は一体どこに向かっているんだ? 行き先も分からずに走るのは気持ち悪いんだ」
「川の向こうの河川敷だよ。水門があるあたり。もうすぐだから頑張ってよ、遅れるわけにはいかないんだ」
すると自転車は「なるほど」と呟いたきり、何かを考えるかのように黙り込んだ。
「もしかして彼女と待ち合わせか? そんな顔してるぞ」
まさか、自転車に胸の内を悟られるとは。僕は返事をする気が起きなかった。
「そう怒るなよ、悪くない理由だ。お前に拾われて良かったぜ」
やけに楽しげなその言い方は、なんだか茶化されてるような気もした。僕は適当に「どうも」とだけ答えて、暗い夜の帳りの中へ自転車を走らせた。
土手へ続く坂道を上り、僕は橋に差し掛かった。この橋を渡れば、もうすぐ彼女のところだ。車道はそれなりに車通りがあるけれど、歩道には誰もいないから堂々と自転車で走っていける。
この川は市の境目にもなっている大きな川で、渡ると景色もだいぶ変化する。僕の家や学校がある側は住宅地が多いけれど、彼女が住んでいる側はマンションやビル群が多いのだ。
橋を渡り終えた僕は土手の細道を走りながら彼女の姿を探した。土手の下には街灯の明りがあまり届かないから、暗くてよく見えず、彼女はなかなか見つからない。せっかく急いで来たのに、早くしないと。
僕が土手の下へ視線を彷徨わせていると、不意に自転車が声をかけてきた。
「おい、どうしたんだ? どこにいるんだよ、その彼女は」
「いま探してるんだってば。暗くてよく見えないや」
その時、急に自転車が前に傾いた。それに合わせて身体がつんのめって、僕はやっと事態を理解した。足元をよく見ていなかったから、前輪が斜面に乗り入れてしまったのだ!
「バカヤロー! ちゃんと運転しやがれ!」
自転車の叫びも虚しく、車輪は斜面へ滑り出してしまった。しかし急斜面の芝生でとっさにバランスを取れるわけも無く、派手に転んで土手を転がり落ちていく。
芝生の緑と夜空の黒がグルグル入れ替わり、自転車が転がる音が頭に響く。首筋に当たる芝生のチクチクした感触がやけにハッキリと感じられた。
一番下まで転がりきってやっと起き上がると、痛いというより目が回って気持ち悪い感じだ。足元に転がってきたバッグを拾い上げ、肩にかける。その時、自分の隣に転がっている自転車を見て、僕は一瞬で目が覚めた。
芝生の上に横たわったまま、バラバラに壊れていたのだ。タイヤが二つとも取れ、チェーンも外れている。こんな危ない状態で、さっきまでどうやって走っていたのだろう。
「ああ、ごめんね。大丈夫?」
声をかけてみても返事は無い。壊してしまって怒られると思っていただけに、なんだか心に穴が開いたような気分になった。ガサツだけど自由を求め続けた彼は、もういなくなってしまったのだ。
彼は本当に、ぶっ壊れるまで走り抜くという約束を守ってくれたのだ。その最期が僕の無様な転落事故になってしまったのは、美談にするにはいささか感動を欠いたエピソードだけど。
ところで結局、彼女はどこにいるのだろう?
バッグから携帯電話を出して時間を見ると、八時ピッタリだった。とりあえず遅刻はしていない。
丁度その時、立ち尽くす僕の背中に声が掛けられた。
「一体何があったんだ?」
振り向くと、そこに彼女がいた。枯葉色のトレンチコートに身を包み、呆れたような眼差しで僕を見ている。
「とんでもない音がしたから来てみたけど、まったく、ひどいなこれは」
「ちょっと自転車で転んじゃっただけだよ。待った?」
「いや、いま来たところだ。家のすぐ近くなんだから、時間ピッタリに来るに決まってるだろ」
どうやら僕は絶妙なタイミングで間に合ったようだ。あの自転車には感謝しないと。
彼女はバラバラになった自転車のパーツを見下ろしながら、不思議そうに眉根を寄せて言った。
「こんなになるまで使い続けるなんて、逆に凄いぞ。――ん? お前の自転車ってこんなんだっけ?」
「いや、僕の自転車は無くしちゃったんだ。だからゴミ捨て場から拾ってきた。遅れそうだったから全力でこいできたよ」
僕はまるで武勇伝でも語るみたいに、愉快な気分で話した。彼女のために自転車を盗んでまで走ってきたことは、僕にとって凄い大冒険なのだ。
彼女は感心したように相槌を打ちながら、静かに僕を見つめている。
「なるほど、しかしお前らしくも無いな。そんなことをする度胸は無いと思っていたが」
「いいや、僕はもう、君のためなら何だって出来るんだ。あの自転車をこいでる時、僕はやっと自由になれた気がしたよ」
大袈裟なんかじゃなくて、僕の胸の中には本当にそれぐらい強い気持ちがあった。やり場の無い気持ちで満ちていた心に翼が生えて、大空への扉を突き破ったような感じだった。
自ずと熱い口調になってしまった僕の言葉を、彼女は笑いながら聞いている。
「大したもんだな。ところでお前、なんだか最近――」
そこで彼女は言葉を濁し、ごまかすように空を見上げた。
「いや、そんなことはどうでもいいんだが、今日は月を見に来たんだろう。どこにある、見えるか?」
彼女はコートのポケットに手を突っ込みながら、川のほうを向いて夜空に月を探している。
「そっちは西だよ、まだ時間が早いからこっち側にあるはず」
僕が土手のほうに向かって東の空を見上げると、舌打ちしながら彼女も同じように東を向く。
ビル群や街灯が煌めく街の上の、明るい夜空の中で黄金色の月が浮かんでいた。包み込むような柔らかい光線が降り注ぎ、僕らの足元には輝くほど鮮やかな芝生の緑色が広がっている。
「晴れたね、さっきまで曇ってたのに」
「まあ天気なんてすぐ変わるだろう。いま見えてるなら別にいいさ」
なんだか不思議な気分だった。高層ビルの上に輝く月は遠すぎて届かないけど、僕らは同じ月に思いを馳せているのだ。何十万メートルもの距離を越えて、僕らの視線が繋がっているかと思うと目眩がするようだった。
しばらく二人で夜空を見上げていると、急に肌寒い風が吹いてクシャミが出た。急いで自転車をこいできたから、汗をかいて身体が冷えてきているようだ。
隣に立つ彼女が僕のほうを見やり、いつかのように手を引いた。
「バカ、風邪ひくぞ。なんか温かい飲み物でも買ってやるから付いて来い」
彼女は僕を土手の向こう側まで連れて来て、そこには自動販売機があった。彼女はコートのポケットから財布を出して、さっさと百円玉二枚を入れている。おごってもらうのは少し悪いと思ったけど、僕のバッグは土手の下だし、今は彼女に甘えておこう。
僕は微糖の缶コーヒーを買い、彼女はブラックコーヒーを買った。甘くないコーヒーを飲むなんて修行かカッコ付けにしか思えないんだけど、本当に美味しいんだろうか。
僕らは温かい缶を握りしめて再び土手を下り、川を臨んで芝生に座った。月の光が背中に当たり、僕らの影が川面に揺れている。
缶コーヒーを開けて一口飲むと、冷えていた全身に食道から熱が伝わっていく。丁度良い甘みが口に広がって、後味は少し苦かった。
隣に座っている彼女もコーヒーを飲んで一息吐き、おもむろに僕へ問いかけた。
「お前は、今、幸せか?」
なんで急にそんな質問をされたのか分からず、僕は少し戸惑ったけど、答えに迷いは無かった。
「もちろん幸せだよ。こうやって君と一緒にいられて、幸せすぎて怖いぐらいだ。君がそばにいてくれれば、それだけで充分だよ」
「じゃあさ、お前にとって、私以外の存在は何なんだ? 学校とか家族とか」
今度の質問は少し考える必要があった。今の僕にとって、学校は何だろう。家族は何だろう。やっぱりそれも彼女を中心に回っているような気がする。学校に行けば人目に付かないようにキスしたり、家に帰れば親に隠れて彼女のことばかり考えている。今日だって親の目を盗んで彼女に会いに来たのだから。
「学校や家族も、僕にとっては、君に会うためのハードルだと思う。もし君がいなかったら、僕の人生なんてちっぽけで無意味で無力なものだと思うんだ」
なんだか自然と言葉が出てくるような、不思議に気持ち良い感覚だった。人に想いを伝えるって、こういうことなのかな。
彼女は僕の話を聞きながらコーヒーを飲み、話が終わると同時に一気に飲み干した。口角から少し垂れたコーヒーを手の甲で拭い取り、彼女が「そうか」と答える。
「それならいっそ、このまま私と一緒にどこかへ行かないか?」
「どこかって、どこへ行くの?」
「私たちを知ってるヤツが誰もいないところへ、どこまでも」
そう言って、彼女は真っ直ぐ前を見ながらニヤッと笑った。それはまるで悪魔が誘惑するような、イタズラな表情だ。
彼女の言葉が家出の誘いだと、僕でもすぐに理解できた。そして僕の中に湧き上がった色々な感情は、とても理解しがたい複雑なものだった。
家出なんてしていいのかという不安や、彼女が僕を誘ってくれた喜び、そして果てしなく世界が広がっていくような不思議な高揚感、そんな色々が混じり合って心の中が混沌としていく。
でも、僕の中には確かに、そんな生き方への憧れがあった。さっき僕が言ったように学校や家族が障害でしか無いなら、彼女以外の全てを捨ててしまえば、僕の人生は素晴らしいものになるかもしれない。
人生の決断をこんな簡単にしてしまっていいのかという不安はあったけど、ここで答えを出せないなら僕は死ぬまで答えを出せない気がする。
僕は心の中でハッキリと答えを決めて口を開いた。
「決めたよ、僕は――」
「冗談だよ」
僕の言葉に被せるように、彼女が不意に言い放った。その短い一言で、僕の決断は無為に崩れ落ちていく。
「え、冗談?」
「当たり前だろ、本当に家出すると思ったのか?」
「それは酷いよ、あんまりだ」
僕は突然のことに笑うしか出来ず、内心で少し残念に思いながら後ろに倒れ込んだ。視界一杯に暗い夜空が広がり、端のほうに月が見える。
彼女も僕と同じように寝転んだけど、なんとなく彼女のほうを見るのが恥ずかしくて、僕は彼女がどんな顔をしているのか分からなかった。
しばらく黙って一緒に空を見た後、彼女が不意に口を開く。
「なあ、少しの間、黙って聞いていてくれ。くだらない話だけど、すぐ終わるから」
彼女の声が思いのほか真剣で、少し哀愁さえ感じられて、僕は何も言わずに耳を傾けた。
「私は昔から、親や教師に指図されるのが大嫌いでさ。いつでも自由を求め続けていた。それでいつも親や教師の目が届かないところで好きなことをやって、自由になれた気がした。きっとお前も、同じような願望があると思う」
そこで彼女は少しだけ黙り込み、深く溜息をついた。
「だけど、それって本当は凄く悲しいことなんだ。いつの間にか私は、いないのが当たり前の人間になって、誰も目を向けなくなった。自分で居場所を壊してしまった」
そして彼女は顔をこっちに向けて、僕の目を見た。
「お前は、幸せなんだよ。何かあれば気にかけてくれる人がいるだろう」
彼女の目は優しく僕を見つめていたけど、それはどこか厳しい感情も孕んでいるように感じられた。
そして彼女は、少し声を小さくして言った。
「私がお前のことを好きになったのは、私を幸せにしてくれると思ったからだし」
僕は彼女のことを勘違いしていたような気がする。僕は常に彼女のほうに歩み寄ろうとしていたけど、彼女自身はそれを望んでいなかった。彼女が求めているのは、出会ったばかりの無垢だった僕なのかもしれない。
「それに、そろそろ将来のことだって考えなきゃいけないしな。私たちだってもう子供じゃ……あれ、私たちって何歳だっけ?」
Q.彼らは何歳でしょう?
『後書き』
どうもこんにちは、鬼童丸です。今年は会長になりました。
ちゃんと挨拶をしたいのですが、今は〆切の関係で時間が無いので、かなり手短な後書きになります。
会長挨拶のほうはちゃんと書きますから、ご容赦ください。
では、各作品の解説を書いておきます。
・闇夜の魔法
去年のハロウィーンでブログに掲載した作品を、少しだけ手直ししました。もっと本格的に直したかったのですが、時間不足で、どうしても必要な部分だけの修正になりました。比べ読みとかされると恥ずかしいので、出来ればご遠慮ください。
・かりそめワールド
特にメッセージ性は無く、ものの価値ってなんだろうという単純な疑問を形にした小説です。ゴミ問題とかとはあまり関係ありません。
シャンプーを混ぜて使うのは私の実体験でして、家族が使わなくなったシャンプーを適当に混ぜて使っています。それで、私の頭髪って維持費ゼロ円だな、と思ったのが書くきっかけだったり。で、それを生活の全てに適用したら維持費ゼロ円の人間が出来るのかなと。
つまり人の皮を被ったゴミ捨て場。
・人恋しくて 〜やり場の無い歌パロ〜
サブタイトルに歌パロとある通り、ある楽曲をパロディにして小説を書いてみました。執筆の所要時間は二日という驚きの記録を叩きだしました。答えを考えるクイズ形式にはなっていますが、普通に読んでも楽しめるように努力して書きました。
パロディというか言葉遊びなので、歌詞だけ残して内容は歌と乖離させたかったんですが、実際には歌のイメージ小説に近い仕上がりかもしれません。
実際、読んでる人がどれぐらいの段階で気付くのか、ちょっと不安ではあります。書いてる側は答えを知ってるから勝手が分からないんですね。二回目を読むと理解できる、という感じならベストですが。
分からない人のためにヒント(というか答え)ですが、満月の夜のことを別の言い方で何と呼びますか? それで彼らの年齢が出てきます。
ちなみに三本目には『骨の国』という別の作品が入る予定だったのですが、時間の都合で歌パロになりました。タイトルの『アトカタモナク』は消失をテーマにした短編集ということで付けたのですが、歌パロだけ毛色が違うのはそのせいです。