1.佐藤恭一郎
一九二八年 十月 三日
空はまるで私を馬鹿にする様に晴れ渡っていた。
景色は通り過ぎるだけの絵でしかないと、いつも思っていた。
どんなに素晴らしい絵の掛かった美術館でも、絵に興味がなければただ通り過ぎるだけ。景色も同じようなもので興味がなければそれでお終いだが。
そんな街並みの絵の中、自分は足を止めた。
ここは最近まで通り過ぎるだけの絵であった建物だ。
豪華な西洋式の石造りの建物は、そこらにある一般的なビルディングとは違う独特の威圧感の様なものがあり、田舎に行くと目立って仕方がない帝國陸軍の軍服姿もなんだか様になって見えてくる。
――ワイマール共和国大使館、以前のドイツ大使館である。
ついこの間、私に転属命令が届いた。転属先は第五十六聯隊。たしか少し前あった軍縮で無くなった筈の聯隊だ。
私はある事件によって職場での立場を失い、それを見かねた上の方々が自分を誰とも関わらない様な職場へ異動させた。
いわば左遷である。
事件を起こした時からそうされるのは覚悟していたし、転属命令が来た時はやっと来たかという心持だった。だが、存在しない聯隊に送られるというのはあんまりな扱いではないだろうか。
「当てつけ、なのか? これは」
「失礼、そこの君」
どうでもいい感慨に耽っていると、突然背後から声を掛けられた。振り返るとそこには年季の入った陸軍の将校用の軍服を着た、四〇代ぐらいの男が立派な口髭を弄りながら佇んでいた。
「君が佐藤恭一郎君かな?」
ギクリとして背筋に緊張が走るのが分かった。
「な、なぜ――」
情けなくも突然のことであたふたとしてしまった。それを見た男は心底楽しそうに大声で笑い始めた。
「どうやら佐藤中尉は嘘がつけない性格のようだな」
咄嗟に背筋を伸ばし敬礼をした。
「はっ! 失礼しました。今日着任しました、佐藤恭一郎中尉であります」
挨拶をすると男は答礼をした。
「うむ、こちらも失礼した、挨拶が先だったね」
男はそのままの姿勢で一歩前に出た。
「私は大日本帝國陸軍第五十六聯隊隊長の新垣喜一と云う者だ」
聞いた瞬間、背筋が凍るのが分かった。
大使館前で待ち合わせして、誰か迎えを寄越すとは言い渡されていたものの、まさか隊長自らが迎えに来るとは思っていなかった。
転属命令の書類に書いてあった第五十六聯隊の隊長、新垣の階級は中佐――自分よりも三つも上の階級の人間だ。
ここまで階級の高い人物だと礼儀や軍規に厳しく、かなりお堅い人物のはずだ。妙な偏見を持たれては堪ったものではない。
「お会いできて光栄であります!」
「よろしくね。楽にしていいよ」
新垣はどうでもいいと言わんばかりに溜息をついた。
「私はあまり軍の上下関係というものが好きではなくてね。畏まられるとこっちがやり難い。人数の少ない部隊だ、あまり堅くならずに仲良くしようじゃないかね」
聞いた瞬間、つい固まってしまった。今まで持っていたお偉い様方への偏見が音を立てて崩れていく。
そんな風に固まってしまった姿を見た新垣は、ニヤリと口元を歪めるとまた大声で笑い始めた。
「まぁ、深くは考えんことだ!」
「は、はぁ」
新垣は私の背中をバンバン叩くと正門に向かって歩き出した。
「立ち話もなんだ、中に入ろうか」
私はなんとなく戸惑いながらその後をついて行くことしかできなかった。
この時点での新垣の印象はあまり規律を気にしない、大雑把な部類の人間ということだけだった。
* * *
新垣は何の説明もせず大使館の中に入って行った。
二階の廊下の突き当たりに位置する六畳ほどの部屋が新垣の執務室になっていた。
内装は外装と比べあまり豪華ではなく白い壁に形の揃った北向きの小窓が三つと、窓際に執務机と観葉植物、あとは来客用のソファーや机、本棚と紅茶を入れる道具があるだけだった。
「とりあえず掛けなさい」
「失礼します」
勧められるままにソファーに腰掛けると、沈み込むほど柔らかくいつも座っている硬い木の椅子を思い出し、なんだか子供みたいに浮かれたくなった。
「まぁ、楽にして」
新垣は書類を手に反対側に腰掛け、その書類を机に置いた。
短い沈黙の後、新垣が口を切った。
「さて、まずはようこそ第五十六聯隊へ。自己紹介はもういいとして、君がここに配属された理由はもう聞き及んでいるかな?」
「はい、あの……」
言葉が出てこなかった。語る機会は多々あったものの、またあの事件について事情を説明しなければいけないかと思うと嫌な気分になる。
中佐はしどろもどろになる私を最初は何を言い渋っているんだ、と言いたげな顔で見たが、少しして手からあぁと声を上げて手を打つと、すまんすまんと謝り始めた。
「悪かった、無神経だったな。だが、佐藤中尉は今回の転属をそれほど気に病む必要はないぞ」
「え?」
新垣からはあまりに予想外の言葉が飛んできた。この男は人を驚かせるのが好きなのだろうか? この手の人種は人を驚かせようと思っていろいろ言い渋った挙句、大事なことを言い逃す傾向がある。
事実、新垣が言うことが正直理解できなかった。
「今回君はあの事件が原因でこちらに転属してきたということになっているが、実際のところは違う」
新垣は机の上に置いてある書類を広げた。
「君の履歴書を読ませてもらったよ。陸軍士官学校を出た後、支那にいたそうだね。その時の戦果も華々しいもんだ」
新垣は私をなめるように見た。
「それに君はあの佐藤中将のご子息だっていうじゃないか、いやまったく驚いたよ」
やはり素性はばれていた。予想はしていたが、どこに行ってもこの手の話題がついて回る。自分の生まれを呪うばかりだ。
「私もあの方にはお世話になってね。第一線から退いたとはいえ、あの方は先の大戦の英雄だったからな――」
新垣は父のことを矢継ぎ早に誉めたてた。
私の親父は先の大戦、後に第一次世界大戦と呼ばれる戦争のアフリカ戦線に於いて、師団の参謀として活躍した佐藤源一郎中将だ。世間一般には英雄として祀り上げられたているが、そんなことはない。親父はただの臆病者だ。
今は親父に勘当されている。もちろん戻る気もない。
「いえ、私は今勘当されているので……」
新垣はそれを聞いた瞬間ピタリと黙り込み、しばらく沈黙を保った後目を逸らしながら、それはすまなかったと短く言った。
「まぁ、兎にも角にもあの事件以外、君の経歴には全く汚点はない。逆に言ってしまえば君のあの程度の失敗は普通は上層部で揉み消してしまう筈だ」
「しかし私は――」
「そう、左遷させられた。何かおかしいと思わなかったかね?」
ますます新垣の言うことの真意が見えなくなってきた。いったいこの男は何が言いたいのか。
「君が転属、もとい左遷させられた理由は他にあるということだよ。これからその説明をする」
私はすでに戸惑いを隠せずにいた。思考が停止しそうな中、新垣に肩を叩かれた。
「混乱しているようだな。紅茶でも淹れよう」
そう言って新垣が席を離れたとき、扉が三回ノックされた。新垣が許可を出すと、廊下から、2メートルはあろうかというワイマール共和国軍の軍服を着た外国人が入ってきた。黒いサングラスにボサボサの髭で、短い金髪を掻き上げている。年齢的には新垣の少し下だろうか。
「失礼する――あれ、来客中だったか。出直そうか?」
「いや、呼ぶ手間が省けた。ここにいてくれ」
外国人の大男は流暢な日本語で会話を始めた。日本語が通じなかったらどうしようかと思ったが、その心配はなさそうだ。
「彼が佐藤恭一郎君だ」
新垣が紹介すると男は、あぁ君が! と感激した様子で近寄ってきた。
「佐藤恭一郎ってのは君か! いやぁ会えてうれしいよ。これからよろしく頼むぞ」
「は、はい」
なんとなくそのまま返事を返す。
「あ、あの、あなたは……」
とりあえず名前を聞くことにした。
「なんだ、新垣。まだ紹介もしてないのか」
ガッカリしたように男が肩を落としながら新垣に言う。
「彼はついさっき来たばかりだ。説明はこれからするよ。それより用があったんじゃないのか?」
「いや、俺はまだ新しい小隊長がまだ来ないのかと思って急かしに来ただけだったが……ちょうどよかったみたいだな」
新垣はその通りだと相槌を打ち、近く男をソファーに座らせ自分も座った。
「彼はこの大使館の駐在武官のマーク・トレイター少佐だ」
よろしくと言いながらマークが握手を求めてきた。
なんとなく握手をすると、その手の大きさに驚かされた。私の1.5倍はあろうかという大きさの手は、それに応じた力を持っていて、ものすごい力で握られ手が折れたんじゃないかと思ったが、本人はそんなつもりはないようで、平然としていた。
マークはドイツ人らしからぬ名前だろと自虐的に笑う。
「では役者がそろったところで、全て一から説明しようじゃないか」
新垣が三人分の紅茶を机に置いて言った。
「君が転属になった理由だが、そもそもの始まりは先の大戦でのドイツの敗戦にある」
話は予想もできそうにないところから始まった。
「ドイツは敗戦国として無理矢理結ばされた条約の賠償金のせいでえらく貧窮した。国内ではインフレが起こり、政治情勢も悪くなる一方だ。そこでだ、ドイツ国内のある重大な研究をしている人間が、このままでは研究すら儘ならないと悟り、日本政府に協力を求めてきた。要は泣き寝入りだな」
「はぁ。しかし、それと我々にどんな関係があるというのですか?」
その説明は俺がしよう、とマークは言った。
「新垣はいろいろ端折りすぎだ。インフレが起こった後、研究は一旦凍結された。あまりに金がかかりすぎる。だがその研究に興味を持った日本人の資産家がいて、その人が研究に出資をしてくれると言ってくれた。おかげで研究は続けられるようになったが、これがまた複雑で――」
ここでマークは一度紅茶を啜った。さすがに一度に話すのは疲れるようだ。
「続けるが、研究の内容というのもいくらか関係してくる。その資産家は政府とも親交があって、そのせいで上層部でもいろいろ揉めたらしいんだが結論から言うと、我々はある特殊な兵器の研究開発している。そのために政府、要は大日本帝国の軍部は信用できる人物を研究所に置き、監視に回すことで決着したらしい。間違いないだろ、新垣?」
「お前も十分説明が下手だよ」
新垣は笑いながら言った。
「とにかくだ、君にはこれからその研究をしている研究所で、監視の仕事を担ってもらう」
「待ってください! 私の転属先は第五十六聯隊ではなかったのですか?」
「その通り、正式な名称は独立特別実験聯隊。軍の管轄下ではあるが、師団や旅団には属さず軍から完全に独立した聯隊となっている」
「し、しかし私はドイツ語も喋れなければ監視なんてものも――」
「心配する必要はない。研究所には俺もいるし、分からないことは聞けばいい」
そういってマークは微笑んだ。
「でも、なぜ私なのでしょうか?」
「私も君の経歴は見させてもらったよ。すばらしいじゃないか。君ほど優秀な兵士もあまりいない気がするがね。それに君を選んだのは私だ。何人かの候補者の中で君を選んだんだ」
そういうとマークはその候補者リストと書いた書類を机の上に置いた。
「私より階級が高い方ばかりのようですが……」
「そうだ。研究はその高い秘匿性から訳ありの人材しか使えない。君はむこうである事件を起こしただろ? あまり重大じゃないが、小さい損害ともいえない。こちらに持ってくるにはちょうど良い理由になった」
「そ、そんな……」
私は唖然としてしまった。そんな理由で出世の道を絶たれ、何処とも分からぬ研究所の監視をさせられるなどあんまりである。
しかし私はその時感じた絶望と、それに対する憤りを胸にしまいこむことしかできなかった。
「そんな顔すんなって。普段は何でもない案件をわざわざ軍法会議まで発展させて君をここに配属させたんだから、君は評価されていると喜ぶべきだぞ」
もう何も言えなかった。ただ私はこれを自分が犯した過ちへの懲罰だと思い、それに甘んじることしかできないと感じるばかりであった。
「君の軍歴に傷がついたことは謝らなければいけない」
「い、いえ、私は気にしていませんので」
「そうは見えないぞ」
マークはまぁ、君が気に病む必要などないさ、と言い席を立ち扉に向かった。
「給金は向こうよりは良い筈だ、確かに出世は難しいかもしれんが、そう悪いものでもない」
新垣はその通りだ、と相槌を打つ。
「君は選ばれたんだよ。決して我々もおざなりに君を選んだ訳ではないということは、理解してほしい」
「……了解しました」
もう考えることはやめることにした。軍からの転属命令が出た時点で逆らえないのは決まっている。本当はこうやって事情の説明をする事すら稀であろう。
「今日は疲れただろう。来るのは明日からでいいから、今日はゆっくり体を休めてくれ。ところで中尉は今、どこに泊まっているのかな?」
「はい、むこうからは一昨日帰国し、今は友人の米問屋の納屋を借りています」
マークはそれはちょうどいい、と頷いた。
「明日からこちらが用意する宿舎で生活してもらう。今日中に荷物を纏められるかね?」
「はい、明日にはもう引き払うことになっていましたので」
マークそれは好都合、と言って明日の待ち合わせ場所を告げた後、部屋を出て行った。
「明日からは忙しくなるだろう。今日はドタバタして悪かったね。とりあえず今日は、今聞いたことを誰にも喋らず、明日からの仕事に備えゆっくりと体を休めてくれたまえ」
こうして私、佐藤恭一郎は二十二歳の秋、よくわからないことに巻き込まれ始めたのだった。
2、拍子抜け
一九二八年 十月 四日
翌日、私は待ち合わせの場所に来ていた。研究所と聞いていたからそれなりに大仰な建物かと予想していたが、来てみればそこは町はずれにある数年前に閉鎖した造船所だった。扉を開け中に入っても人どころか猫一匹いない。
中はコの字型になっており、船を作ってそのまま海へ出せるようになっている。海側を向いた大扉は解放されていて、潮の匂いと波の音がするだけで造船所内は静まり返っていた。
「おかしいな。どうすれば良いだろう」
これから研究所の宿舎に泊まることになると昨日新垣から聞いていたため、軍服に着替えむこうから戻った時と同じ荷車を引いてきたが、これではどうしていいかわからない。
近くに落ちていた廃材に腰掛け、荷物を下ろし帽子と靴を脱いだ。足にマメはできていなかったものの多少蒸れていた。
入口に背を向けながら海を臨み、足を揉みほぐして手拭いで汗を拭う。もう十月だというのに体は思った以上に汗で濡れていた。
一息つき水を飲もうと水筒に口をつけた瞬間、足音が近づいてくるのが分かった。
「おい! そこのお前、動くな!」
直後に女の声が私を呼んだ。
ふと見ると、入ってきた扉の所に拳銃を構えた外国人がいて、足音を立てないような姿勢でこちらにゆっくりと近づいて来るのが見えた。もちろん足音で気が付いたのだから、それなりに大きな足音が立っていた。
女がこちらに近づくにつれ容姿がハッキリとしてきた。赤いベレー帽にネズミ色の軍服にブーツを履いている。軍人のようだが女の軍人というのは聞いたことがなかった。
一番驚いたのは声と見た目では間違いなく女だというのは分かったのだが、その頭髪は男と見間違えるほど短かったことだ。
とりあえず両手を挙げて戦意がないという意思表示をした。
女は私の3メートルほど手前で、拳銃を構えたまま足を止めた。近づいて初めて分かったが、身長は思った以上に大きく目線がぴたりとぶつかるほどの高さだった。顔の形も整っていて彫が深く、日本人にはない顔つきだ。
「あなた、ここで何をしていたの?」
どこか棘のある言い方だったが日本語が通じるだけまし、と思うことにした。
こういう相手に主導権を握られている場合は、下手に出ないとまずいというのは分かっていた。しかし、所詮は女。力的にも身体能力的にもおそらくこちらが上だろう。相手が手にしているのはスライド式の自動拳銃だった。何とかして拳銃を奪えないだろうか。
「何をしていたか聞いているの、答えなさい」
「私は今日ここに待ち合わせできているんだ」
「待ち合わせ? へぇ、こんな誰もいないところの廃棄された造船所で待ち合わせなんてするのかしら?」
だめだ、明らかに信じる気のない奴の喋り方だ。
この場合、奇跡でも起きない限り間違いなく最後は撃たれる。
「とりあえず銃を下してくれないか? 話しにくくてしょうがない」
正直に言ってもだめなら説得するしかないのか。
「だめよ、ここに私がいるのが知られた時点で、もうあなたを家へ帰らせる訳にはいかなくなったの」
もう何も言えなかった。はなから帰らせる気もない。説得もできない。
こちらもただで死ぬ気は毛頭ないのだが、状況が状況である。あまりに立場が不利すぎる。
この状況を打開する方法はもう一か八かの賭けしかなかったが、そのためには相手の隙を衝く必要があった。
しかし、それにはどうにかして相手の注意をひかなくては。
「ちょっと聞いているの!」
女は痺れを切らしたのか苛立ったような声を上げる。
ついに撃たれると思ったその時、
「Schwester! Was war dort?」
突然、女の来た方から、よくわからない言語の男の声がした。
女が反射的に男の方を見る。今までにない決定的な隙が生まれた。
この好機を逃すはずもなく、私は一気に間合いを詰めた。
女は拳銃を構え直そうとするが、その前に私は拳銃のスライド部分を掴み、手動で後退させた。女は必死に引き金を引こうとするも、撃鉄が下りず撃つことができない。
こうなってしまえばもう自動拳銃は使い物にならない。手首をねじりあげ拳銃を奪うと、そのあとはもう一瞬だった。そのままの勢いで相手の右袖と胸倉を掴み、背負い投げをしてやった。
女はろくに受け身もとらずコンクリートでできた床に叩き付けられ気絶した。
「ちょっと、あなた何してるんですか!」
男は心配そうに女に駆け寄りながら、流暢な日本語で怒り始めた。
「あぁ! 気絶してる! あなた何てことするんだ!」
男は女とは違い、体の線が細く、ぼさぼさの黒いちぢれた髪を肩まで伸ばしていて、凹凸の少ない東洋系の顔つきをしている。日本人とまではいかないが近い人種のように見える。かなり童顔で下手をすればまだ一〇代かそこらだ。
よく見れば男は女と同じデザインの軍服を着ている。ベレー帽は被っていないもののブーツのデザインも同じものだった。
女の仲間というのは間違いなさそうだった。
抵抗されても困るので念のため、主導権を握るために拳銃を向けることにした。
「立て! 立ったらそのまま両手を挙げるんだ」
男は拳銃を向けた瞬間、うゎと声を上げて動揺した。軍服を着てはいるが反応がまるで軍人のようには見えなかった。
「わ、分かったから撃たないで! お願いします!」
どうやら抵抗する意思はないようだ。それなら好都合と、このままの流れを変えないように話を進めた。
「お前らはいったい何者だ? いきなり拳銃なんか向けて、危ないじゃないか」
「それは私も同意見なんだけどなぁ」
「どういうことだ?」
「いや、だから私も今ここを通りかかったら、姉さんの叫んでる声がしたから何事かと思って……」
「その女はお前の姉なのか?」
男はこくこくと何度も小さく頷いた。
「血は繋がってないですけどね」
それは見て分かる、と言いそうになって飲み込んだ。聞きたいことは他に山ほどある。
「お前たちはどこから来た?」
「そ、それは私の口からは言えません」
「言え!」
「おい、何を叫んでるんだ?」
大声を出した瞬間、また別の方向から聞き知った男の声がした。
そこには目の前にいる女や男と同じ軍服を着た大男が立っていた。マーク・トレイターだった。
「おぉ、佐藤中尉じゃないか――って、おいおい、なんでいきなり修羅場になってんだ?」
マークは呆れたように言った。
「Major!」
男は一切動かずによくわからない言葉を叫んだ。
「わかったから、とりあえず佐藤中尉は拳銃を下すんだ。敵じゃない」
「先に拳銃を向けたのはそっちだ」
「すまなかったよ、中尉。こいつらは俺の部下なんだ。後でしっかり言っとくからここは納めてくれないか?」
ここまで言われてしまっては、諦めないわけにもいかず私は拳銃を下した。それを見て男はホッとしたように肩で息をした。
「まぁ、カーレッジはいいとして、なんでシンシアはそんなことになってんだ?」
マークがコンクリートの上で魚みたいに伸びている女を指す。
「何があったか説明しろ」
「私も姉さんの叫び声を聞いて来てみたら、姉さんが彼に銃を突き付けてて、次の瞬間には背負い投げされてこうなりました」
マークは大きなため息をつきながらガックリと肩を落とす。もう呆れてものも言えないようだった。
「シンシアは俺が連れて行くから、カーレッジは中尉を連れて研究所の俺の部屋に案内してくれ」
「わかりました。えっと――」
男は尻すぼみに返事をすると、こちらをチラチラと窺っている。どうやら名前がわからないようだ。
「佐藤だ。佐藤恭一郎」
それを聞いてカーレッジはにっこりと笑い、はい! と大きな声で返事をした。
「私はカーレッジ・マーティン少尉です。佐藤中尉」
彼は固く握手をしてくれた。
「外で待っています。では!」
それだけ言うと彼は早々に造船所を出た。
「悪かったな中尉、こいつらが迷惑をかけた」
「別に怪我をしたわけではないので大丈夫です。でも驚きました、そちらの軍には女の兵卒もいるんですね」
私は足元で伸びている女に目をやった。しっかり鍛えていて、服の上からでもそれが一目でわかる身体つきだった。
「まぁ、その辺についても後々説明はする。とりあえずカーレッジについていけばある程度の説明はしてくれるさ」
マークはちょっと複雑なんだよ、と面白くなさそうに笑った。
そしてそのまま先ほどシンシアと呼んでいた女を、まるで俵のように肩に担ぐと造船所の外へ行ってしまった。
私も、彼の後をついて造船所を出た。
カーレッジは造船所の外で煙草を吸っていた。
外に出た理由はこれだったようだった。
「もう話はいいのですか、佐藤中尉」
カーレッジは煙草を踏んで火を消すと造船所の真横にある地下の倉庫への入り口を開けた。
「ここから下に降りるんです」
言われるままについていく。倉庫中は暗くブーツがコツンコツンと床を叩く音が響く。
倉庫の中には工具やペンキなど様々な造船用の道具が並んでいた。カーッレッジは突き当り左から二番目の工具棚で足を止めた。
「ちょっと待ってください」
カーレッジは工具棚の奥に手を突っ込み、ゴソゴソと弄るとあった! と声を上げて何かを思いっきり引っ張った。すると、驚くことに一番右側の工具棚がゆっくりと内側に引っこみ、新しくさらに下に通じる階段が現れた。
「な、なんだこれは」
「中尉は初めてですから無理ないですよね。この先が研究所です。私も初めての時は驚きましたよ」
カーレッジは笑いながら工具棚の秘密のレバーのありかを教えてくれた。
さすがに私もこれには面食らった。こんな絡繰りまで用意しているとは、ますます何の研究をしているのか分からなくなった。
さらに階段を下るが、途中カーレッジが何を思ったのか突然話しかけてきた。
「佐藤中尉は以前どこにいたんですか?」
「唐突だな」
「すみません。何となく気になって」
カーレッジは下を向きながら言った。
暗い階段を進みながら足音と声だけが反響していた。
「私はこの間までは支那にいたんだ。陸軍士官学校を出てから向こうの聯隊に配属になって、ずっと向こうで暮らすものと思っていたよ」
でも、と言葉を続ける。
「向こうでちょっとしくじってしまってね。軍法会議にかけられて、最終的にここに左遷されたんだ」
左遷という言葉を嫌みのように使ったのだが、内心そんなに悪い気はしなかった。ここには転属と聞いた時は多少ショックではあったが、事故を起こした部隊にいつまでも居座り続けるのは、気まずいことこの上ない。
そう考えると、あのマークとか云う駐在武官の男には感謝にしなければいけないのかもしれない。
「そうですか・・・・・・でも、左遷なんて言わないで下さいよ。ここはあなたが思う以上にいいところかもしれませんよ――」
話を続けているうちに階段が途切れ、なにやら重厚な金属性の扉が現れた。扉にはノブが一つついていて、それ以外には鍵すらついていない。
「まだなにかあるのか?」
「これが最後です」
カーレッジはそのままノブを持って扉を開けた。鍵の音も一切せずに扉は軽く開いた。あまりの見かけ倒しに少々がっかりもしたが、それは期待し過ぎなのだろうか。
私は帽子を脱いで中へ入った。
中は小さな円形広場になっていて、中心には螺旋階段があり、広場の中心から放射状に五つの廊下が延びていた。
「ここは地下一階で基本的に地下一階と二階は、みんなの部屋になっています。一つの廊下に十部屋で、一階ごとに五十部屋。二階も合わせて百部屋ありますが、基本的に四人の相部屋なので四百人まで収容することができます」
「そんなに広いのか」
「まだ地下がありますよ。地下三階が食堂やトレーニングルーム、日常生活で必要になりそうなものがあったりします。地下五階と六階は研究所です。後で案内しますよ。他には――」
この時、私の中に一つの不審感が生まれた。
私はただ説明を聞くことしかできなかったが、一体どうやってこんな巨大な施設を作ったのだろうか。驚くべきは施設の大きさだけではない。これを作るには莫大な人員と資材、何より資金を導入する必要があるはずだ。いったいどこからそんなものがでてくるのだろうか。他にも不審な点はいくつかある。明らかに多すぎる収容人数もそうだが、ここは研究所と言うより、軍事基地や軍事拠点といったものに近い存在に思える。
「――で、以上がここの簡単な説明です。分からないことがあったら誰でも聞いてください。ここにいるのはほとんどがドイツ人ですけど、みんな日本語をしゃべれるようになっているので、言葉の壁は気にしないで下さい」
カーレッジは部屋に案内すると言って中央の階段を下りようとしたとき、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
「カーレッジー、たすけてよぉ。イーナがいじめるのぉ」
階段の下からパジャマ姿の少女がブロンドの長髪を揺らしながら階段を掛けあがり彼の足下にすがりついてきたのだ。
私は言葉を失った。
軍事基地かと思えば今度は子ども……いったい私はどんな部隊に配属されたんだ?
そしてその後ろからズボンにランニングシャツ姿の黒いショートヘアの女が追いかけてきた。
「ルーツィア待ちなさい! カーレッジ捕まえて!」
「イーナ、朝から何してるんだい? 新しい隊長がいらっしゃってるのに」
イーナと呼ばれた女は私を見て、え! 今日だったっけ? と慌てた様子で気を付けをして敬礼をした。
「お、おはようございます! イーナ・マーティン伍長です。あなたは……」
「佐藤恭一郎中尉だ」
イーナはよろしくお願いします、と元気よく挨拶した。
「ほら、ルーツィアも挨拶するんだ。これから一緒に暮らす佐藤恭一郎中尉だよ」
カーレッジが促すと、少女は彼の後ろに隠れながら、ルーツィアですという小さな声が微かに聞こえた。人見知りなのだろう。なんだか親戚の娘に初めて会ったときみたいな感じがしてむず痒かった。
「ところでルーツィアはどうしてこんなになってるんだい」
カーレッジが言うとイーナは大きな溜息をついた。
「だって、この子私が朝起こしたのにトレーニングから帰ってきても、まだ寝てたのよ? 部屋が同じなのはあるけど、朝ご飯は身だしなみ整えてからじゃないとシンシアがうるさいのよ。だからせっかく髪梳いてあげようとしたら逃げるんだもの」
「だってイーナがやると痛いんだもん! ねぇ、カーレッジがやってよ。カーレッジは優しいから痛くしないよね」
カーレッジはルーツィアを抱き上げニッコリと微笑んだ。
「わかったよ。後で私が梳いてあげるから、着替えて待ってて」
「ちょっと、カーレッジ! ルーツィアに甘いんじゃないの? あんまり甘やかすとまたシンシアにどやされるわよ」
カーレッジは苦笑いして少女を下しながら、怒られるのはいつもだからと半ば諦めながら言った。
「じゃあ私たちは少佐の部屋に用があるから」
「わかったわ。ルーツィア! 朝ごはんまでに着替えて髪も整えなさいよ」
ルーツィアはだるそうに返事をすると、イーナと共に廊下の奥へと姿を消した。
「随分と仲がいいのだな」
「えぇ、小さいころから一緒にいる家族ですから」
そう言ってカーレッジは口元に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「佐藤中尉にも大切な家族はいるでしょう?」
家族――なんだか懐かしい響きがした。実家にはもう五年以上戻っていない。だが、もう戻る気もしない。あの家に戻るぐらいなら敵の銃弾の前に倒れる方がまだマシだと思っているぐらいだ。
「中尉?」
私の顔を覗き込んだカーレッジは、まるで地面からむき出しになった地雷を見るような顔をしていた。
「どうした?」
「いえ、なんだかものすごく怖い顔をなさっていたので」
私はそんなにひどい顔をしていたのか。意識したつもりではないが、次からは気を付けることにしよう。
「そうだったか、悪かったな。気を付ける」
「いえ、私こそ何か気に障るようなことを聞いてしまったかと」
カーレッジは申し訳なさそうに言う。
「いや、気にすることはない。もう何でもない」
彼はそうですか、と言って階段を降り始めた。
次の階も上と同じ構造になっていて、広間で何人かの男女が談笑していた。カーレッジはそれを気に留める様子もなく、さらに下へと降りて行った。
次の階は雰囲気が一変した。階段が途切れ十字型の長い渡り廊下が現れた。
階段の傍に案内図があり食堂や講堂、トレーニングルームやシャワー室などの表記がしてある。
「本当にここは研究所なのか?」
つい聞いてみたくなり、カーレッジに声を掛けた。研究所と聞いていたが、やはりここにはそれらしい施設があまりに少なすぎるように思える。
「えぇ、間違いなく研究所です。うちの施設の軍人もいますから、そうは思えないかもしれませんが」
「ちょっと待て、軍が駐屯しているのか?」
カーレッジはうーっと考え込むと、詳しくは私からは話せません、と謝った。
「詳しい話はこれから少佐に訊いて下さい」
私はなるほど相槌を打った。
「それはいいが、君たちはいったい何語を喋っているんだ? ドイツ語を喋っていたと思ったら、今度はかなり流暢に日本語も喋る」
「それは少佐の教育なんです。昔から私達は少佐に英語やドイツ語、日本語を教えられてきました。私なんか今では五カ国語も喋れるんですよ」
「五カ国語も! すごいな」
カーレッジはうれしそうに笑うとある部屋の前で足を止め向き直った。
「ここが少佐の執務室です」
私がカーレッジにご苦労、と言うと彼は失礼しますと敬礼をしてその場を去った。
彼の仕事はここまでだ。
私は身嗜みを確認してから背筋を伸ばし扉を三度ノックすると、許可があったのでそのまま中へ入った。
部屋に入ると三人の男の視線が私に集中した。
部屋は正面には黒いタイプライターの置いてある執務机、その向って左側にはティーセットの並べてある棚、向かって右側には来客用の机と机を挟んで向かい合う様にして一人用のソファーが四つ配置してある。
三人のうち一人は新垣、もう一人は私と同じ陸軍士官用の軍服を着た男、もう一人は黒いスーツを着た若い日本人だった。
スーツの男は手前の壁側に座り、新垣はその正面、軍服の男はその隣という位置関係だった。
入ってすぐ全員が立ち上がり、頭を下げ室内の敬礼をすると新垣が答礼をした。これは儀礼的な意味と彼がこの場で最も階級が高いことを表していた。
「もうすぐ皆さん来るはずだ。自己紹介でもしながら待とうじゃないか」
新垣が言うと、軍服を着た男が一歩前に出て挨拶をした。
「初めまして、日疋 肇中尉であります」
挨拶を返し握手をする。
「佐藤恭一郎だ。よろしく」
「よろしく。階級は同じか、仲良くしようや」
日疋は体格のガッチリとした男だった。骨太で身長はあまり高くなく屈強そうに見えるのに、性格はかなり温厚のようだ。
「そして、そこの彼はこの後マークから説明があると思うが、研究に出資してくれる嘉幡財閥の代理人の花山殿だ」
「花山です」
関西の訛りの混じったいかにも愛想が良さそうな笑みを浮かべ、縦長の名刺を手渡された。一応、目を通すふりをした後、無造作にポケットに突っ込んだ。もちろん内容は覚えていない。
「失礼する」
花山が挨拶を終えるとノックもせずにマークが扉を開けた。
どことなく機嫌が悪そうに見えた。
マークは後ろに白衣を着た外国人の女を連れていた。女は肩まである茶色い髪を左手で掻きながら、反対の手で寝不足で隈のできた細い目を擦っている。
「遅れてすまなかった、ちょっと野暮用があってな」
「野暮用って、シンシアにお仕置きしてただけじゃい」
女は呆れたような口ぶりで言ったが、マークは知らぬ顔で話を続けた。
「では、まず諸君に紹介しなくてはなるまい、この独立特別実験聯隊の研究長、マーティン中佐だ」
「よろしく、エレン・マーティンよ。一応この中で階級が一番高いのは私と新垣中佐だけど中隊の指揮権は私にもあるから外出や基本的な許可は私を通してね」
「ちょっと待っていただきたい」
口を出したのは日疋だった。
「私は新垣中佐が聯隊長とお聞きしたのだが……」
日疋が口を出すのも頷ける。指揮権を有しているということはつまり、自分たちの命を握らせているのと変わらないからだ。
「そうよ、聯隊長は新垣中佐で間違いないわ。私はあくまで一研究員であって、隊長でもなんでもない。でもね、研究するにあたって軍の方々には私の命令に従ってもらわないと困る場面が多々あるのよ。だから私はオーバースト・ロイトナント、つまりあなた方で言う中佐の階級を与えられているの。ご理解いただけたかしら?」
「――し、失礼、しました」
日疋は了承したが納得していないというのが面に滲み出ている。
「説明は私からした方がよさそうだな」
空気を読んだマークがエレンの前に出た。
質問は後から受け付けるという前置きの後、マークは淡々と語り始めた。
「まず、ようこそ独立特別実験聯隊及び、陸軍化学兵器研究所シャングリラへ。君らに忠告しておくが、この部隊は全てが特別だ。今までの軍の常識は一切通じないものと思ってくれ。もう分かっているかもしれないが、ここにいるのは軍人でだけでなく女、子ども、とりわけ子供が多数を占めている。ここの収容人数は四百人、そのほとんどの部屋が今埋まっている状態だが、成人年齢に満たない者、及び非戦闘員はそのうち三百六十人。そのため軍として以外の仕事もあるが、そこは追々説明する」
そんな調子でマークは淡々と話を続けた。
内容は様々だが、とりわけ関係があるものは聯隊とは体裁上のもので、部隊は二個小隊しかないこと、指揮権の行使と運用、訓練の日程ぐらいのものだった。
話が終わった後、マークは質問を受け付けた。
「ということは、部隊の人数は二十人満たないということでしょうか?」
質問は全て日疋からだった。
「説明した通りだ」
「子供が多いことについては説明していただけるのでしょうか?」
「君らが気にかけるような問題ではない」
「つまり、答えられないと」
マークは黙り込んだ。
「もぉ、あんまり面倒な質問はしないでほしいなあ。さっきから頭痛がひどくて気持ちが悪いのよね」
今までじっとしていたエレンはソファーに倒れるようにして寝転がった。
「エレン、いい加減にしろ。部下の前だぞ」
エレンはうるさいと言わんばかりに体を捩り、あからさまに嫌な顔をした。
「それに気分が悪いのは徹夜ばかりでロクに寝もしないからだ」
マークは小さく溜息をつきエレンに皮肉を込めた眼差しを向ける。
それを見たエレンは、眉を吊り上げさらに不機嫌そうな顔をする。
「うるさいわねぇ、あなたこそ敬語はどうしたのよ、敬語は! 上官には敬語を使わなければいけないんじゃないの? それともあなたが日頃からやめろって言ってる公私混同をしようっていうの?」
マークの溜息は、半ば諦めを含んだ落胆へ変わっていた。
「中佐としての自覚を持てと言っているんだ!」
「だから敬語を使えって言ってるでしょ! あなたは私より階級が高いのかしら? 何様のつもり?」
――お前こそ何様だ!
ここにいるエレン以外の全員がそう考えた。
マークは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込み、少し間を置いて失礼しました、と頭を下げた。エレンはというとソファーに寝そべり、してやったりという顔ですっかりご満悦だった。
――大丈夫なのか? 本当にこの人に我々の命を預けても……
本気で心配し始める自分がいた。
しかし、ここで引き下がるマークではなかった。マークは腕時計を確認すると、ニヤリと嫌な笑みを浮かべソファーに寝そべるエレンを抱き上げ肩に担いだ。
「ちょっと! 何するのよ、下ろしなさい!」
「失礼、次の検診のまで時間がないので少々手荒な真似をしてしまいました、お許しください」
まったく感情の籠っていない棒読みだった。それに見た目だけではわからないが、相当ガッチリと抑え込まれているようでエレンは手足をバタつかせる程度の抵抗しかできていない。
「マーク! よくも恥を掻かせてくれたわね。覚えておきなさいよ、絶対にひどい目にあわせてやるんだから!」
「おお、こわいこわい。それに、恥ならとっくに掻いていることに気付んだな」
喚くエレンを余所にマークは扉へ向かい振り向かずに新垣に向かって後を頼みます、と言って部屋を出た。
出る直前マークが向きを変えようとしたとき、扉の縁に肩に担いだエレンの頭が直撃し、廊下から彼女の断末魔が響いてきた。
彼女の声が聞こえなくなってから、しばらくして部屋全体が溜息でいっぱいになった。全身から力が抜ける。
――拍子抜けだ。
ただそう思った。
「ふざけるな!」
しかし、日疋は痺れを切らしたように思いきり壁を殴った。
「なんだあの女は! 私はあの女の命令を聞く気はないぞ!」
「まあ、落ち着きなさい」
新垣は日疋を制止するが、彼は止まらなかった。
「そもそもなぜ我が軍に女がおるのですか! やはり私は納得がいきません」
「確かに軍人さんの言う通り、あの調子では私らも出資できのおなってしまいます」
日疋の意見に花山も同調した。
「そう言いたくなる気持ちもよくわかる。だが上層部の決定を覆すことは私にはできない。それに、私がここに着任したのは諸君らより一月早かったが、一月前から毎日この調子だ。諦めてくれ」
――毎日だったのか……
全員が言葉を失った。
「だが彼女は間違いなく研究を成功させるだろう」
「本当にそう言い切れるのですか?」
花山は訝しげに新垣を見る。
「その根拠は何処から来るのでしょうかねえ」
「私が保証する。それでは不十分かな?」
新垣の眼差しを見た花山は、仕方がないと頷いた。
「では次の話に進むとしよう。今回二人にはこの部隊に所属している小隊の隊長、及び教官の任に就いて貰うことになっているのは、既に配られている命令書に記載してあった筈だ」
確かにその内容は命令書に書いてあった。日疋も同じ任に就くようになっているらしく、頷きながら話を聞いている。
「幸いなことに、諸君らはあまり彼女と関わる機会がない」
「それはどういう意味でありますか?」
「彼女は中佐だがほとんど研究室に籠りきりだ。諸君らは存分に兵の調練に励んでくれ、訓練の口出しもしないように私から言っておく」
日疋はやっと怒りが収まってきたのか、はたまた冷静でいられなかった自分を恥じているのか、しゅんと静かになってしまった。
「この後その部隊員たちと顔合わせがある。ついてきなさい」
そうして我々は部屋を後にした。
3、第二小隊
その後新垣は私たちを連れだって、一つ上の階に上がった。先ほど通った地下二階の円形ホールである。
花山は仕事があると言って去って行った。ホールには九人のドイツ人が一列応対で並んでいた。年齢層は低く、ほとんど私と同年代である。
しかし私も日疋もこの時点で既に言葉を失っていた。九人のうち三人が女性だったのだ。
男は国を守り女は家を守る、というのが世間一般での考え方であり、その光景は私と響きには異常に感じてしまうのは仕方がないことだった。
「ワイマール共和国軍は女性の志願兵もいるのですね」
「そんなわけあるまい」
日疋がなんとかこの状況を正当化するための、苦し紛れの言い訳を新垣は一蹴した。
「だから言いているだろう、この部隊は特別なのだ。彼らは日本人ではないが、もう帝國陸軍の一兵卒なのだ」
新垣はもう説明するのが面倒になったのか、彼らに自己紹介するように促した。
九人の内、五人が私が担当する第二小隊だった。
中にはさっき会ったカーレッジとその姉の姿もあった。しかし、問題は三人しかいないはずの女性が、全員私の小隊だということだ。
新垣に聞くと日疋は男女の壁を許せないから、という返答があった。
かくいう私も、男女の壁を作ってしまうのは必然と思うが、上からの命令を覆せるわけでもなし、今この状況に甘んじるしかないと自分に言い聞かせる。納得はできないが仕方がない。
気を取り直し自己紹介の為に横一列で並ぶ第二小隊の隊員のもとへ向かった。
右からカーレジ、そしてその姉の順に並んでいる。見知った顔の方がいいと思うカーレッジから話し掛けることにした。
「二度目の自己紹介ですね、中尉。カーレッジ・マーティン少尉です。本国では歩兵をしていました」
既に自己紹介が済んでいることもあり、彼とは握手だけに留めることにした。
「シンシア・マーティン中尉、空挺部隊所属」
挨拶をするや否や、シンシアと名乗った髪の短い金髪女は、端的且つ無愛想にそう言った。絶対に目線を合わせようとしない様は、まるで拗ねた子どものようだった。
よく見ると頬には簡単な手当の跡が見受けられる。殴られたようだ。
先ほど投げ飛ばしたという経緯もあり、傷のことを気遣うのもなんだろう。何か言うと面倒そうだったので次に行くことにした。
「ライラ・ライラック曹長であります」
次の隊員も女だった。肌はやや浅黒く、彫が深い。豊かな黒髪を後ろで束ねている。ラテン系だろうか。年齢は自分とかあまり変わらないように見えるが、かなり大人びて見える。
「本国では騎兵隊長を務めておりました」
カーレッジなどと比べると少しお堅いイメージがあるが、よく考えればこれが普通なのだと気づきなんだか後ろ向きな気持ちになった。
「イーナ・マーティン伍長です、中尉。衛生部に所属しています」
黒いショートヘアーの彼女は先ほど廊下であったその人だった。彼女も同じ小隊なのか、と知り合いだと思い安心する反面、本当に女ばっかりだと不安を抱かずにいられなかった。
最後の一人、ずんぐりとした体格に彫の深い顔、身体も私より頭一つ分大きい巨躯をしている。やはり顔はラテン系のように見える。
彼は私の顔を見ると、慌てたように挨拶を始めた。
「ト、トビアス・ライラック、二等兵であります。あ、あの自分は入隊したばかりで――」
見かけに反してかなり小心者のようだ。それとも緊張しているのか。
ものをはっきりと言わず、なんだかイライラしてくる。
「気になったんだが君はライラック曹長と姉弟か?」
「はい、そうであります」
返事をしたのはライラだった。
「血の繋がった、れっきとした家族であります」
家族――やはりその単語に底知れない嫌なものを感じる。だがどう感じようが、私の考えが変わることはない。
――二度とあの家には帰らない。
「隊長殿!」
ライラが大声で私を呼んだのに気が付いたのは、何度呼ばれたころだったのだろうか。自分でも信じられないほど呆けていたようで、彼女の声はかなり大きかった。
「いかがなされましたか? もしや私がお気に障るようなことを……」
「大丈夫だ、すまない。ボーっとしてしまった」
「ご気分が優れないのでしたら――」
「本当に大丈夫だ。それより私の小隊員はこれで全員なのだな?」
何かと面倒そうだと思ったので、ライラの心配を押しのけ強引に話を逸らすことにした。
心配してくれるのはありがたいが人には触れてほしくない部分があることを察してほしい、と思うのは私の身勝手なのだろう。
その日は自己紹介が終わった後、私は日疋とともに部屋に案内された。
案内してくれたのは、イーナだった。
私達の部屋は他の兵達がいる地下の一階や二階ではなく、地下三階の少佐の部屋の近くだった。四人の相部屋が基本だと聞いていたのであまり期待はしていなかったが、驚くべきことに私と日疋には三畳ほどの個室が、それぞれ与えられた。こんなに良い待遇を受けていいものだろうかと質問すると、わざわざ来てくれたお礼と謝罪の意を込めて、とマークに言われているとイーナは答えた。
私も日疋も受け入れる理由があり、突っぱねる理由がないことからありがたく厚意を受けることにした。
残り時間は特に何をするでもなく施設内の見学と注意事項、細かい役割などを確認し、翌日から始まる訓練の計画と連絡を終え就寝した。
4.スグニ カヘレ
一九二八年 十月 五日
やっと陽光が射し始めようかという早朝、五時三十分。
初めて過ごす日本の秋を密かに楽しみにしている私、カーレッジ・マーティンは第二小隊の仲間と共に、研究所の外で一列横隊で並んでいた。左には姉さんのシンシアに、イーナ、ライラ、トビーの順に並んでいた。
ここは造船所の裏の古い船着場、木製の桟橋が海に向かって五、六メートルほど伸びている。
シンシアとライラは鉄仮面を被ったように眉ひとつ動かさず気を付けの体勢を崩さないが、イーナとトビーは欠伸をしたり目を擦ったりと、まだだいぶ眠たそうだ。
* * *
連絡があったのは昨晩の午後八時の放送だった。新しい隊長の佐藤中尉との顔合わせが終わった後、暇を持て余した我々第二小隊の仲間は施設内の子どもたちの指導を任されていた。
施設の子どもたちの世話は基本的に年長の子が、その下の子の面倒を見ることになっている。
この施設を管理している大人はトレイター少佐とマーティン中佐だけで、内情は基本的には放任、否、無法地帯と表現した方が正しかった。
常に喧嘩と悪戯が絶えないやんちゃ盛りの子どもばかり。
普通なら施設そのものが崩壊しそうなものだが、実はそれを数年前までたった一人で纏め上げているのがシンシアだった。この施設内の最年長者であり最古参である彼女はこの施設の全員を鉄拳だけで制していた。入ってくる子、全員がシンシアの洗礼(鉄拳)を受け、頭を垂れた。
最終的にはこの施設の子ども達は満十八歳で男女問わず、軍に無理矢理入隊させられることが決まっている。女性の入隊は認められていないはずの軍に、なぜかシンシア含め女も連れて行かれた。
軍に連れて行かれてシンシアがいなくなった後も、施設内を仕切るリーダー的存在はいたが、シンシアほどの暴君はいまだいない。
というより、シンシアのような悲劇を繰り返さないように、全員で仲良くなることを決めたのだった。
何はともあれ、施設内にはたくさんの子どもたちがいる。
食事や洗濯、そのほか全ての家事は自分で行い、他人に頼らないことを決まりにしているが、もちろんできない子も中に入る。そういう子たちのフォローをするために、この日を使うようにと少佐に言われていた。
放送は入ったのは、そんなことをしている最中だった。
“第二小隊に連絡、明朝午前五時三十分より訓練を開始する。各自遅れないように集合し、ライフルと背嚢を持参すること。繰り返す――”
佐藤中尉の声だった。
「五時半とか何考えてるのよ、あの男」
ぼそっと言ったのは姉さんだった。
「仕方ないでしょ、上官の命令には逆らえないわけだし。それに――」
疲れたようにライラは同調した。
基本的に全員、上官がいないときや軍行動の時以外は敬語を使わずにしゃべることを許されている。公私混同をしないでしっかり区別するように、小さい時から少佐にみんな叩き込まれてきたのだ。
「試してみるのもいいんじゃない? あの佐藤とかいう男」
「試すって?」
「困らせてやるのよ、何か事故とか起こして」
「ライラって普通にしてると真面目なのに、裏側は結構黒いわよね」
「シンシアに言われると一番腹が立つわ」
「どういう意味よ」
「姉さんは静かにしてると美人ってことだよ」
シンシアは横から口を出した私の腹を思いきり殴った。今も昔も鉄拳は健在のようだ。
「姉さん痛い」
「痛くしてんのよ」
「ホントあんたらって仲良いわよね」
「ライラもトビーと仲がいいじゃない」
「そりゃそうよ、唯一の肉親だもの。あんたらは血がつながってないでしょ?」
ライラはあっけらかんと言うが、それは今までずっと姉さんとの間でずっと話し合われてきたことだった。でもその話の決着はすでについていて、今となっては肉親も同然だ。
「血なんか関係ないわよ」
下を向きながらシンシアは言った。
「ここにいる奴らはもれなく全員私の家族よ」
その時の姉さんの横顔は、いつもよりたくましく見えた。
「佐藤中尉も?」
「それは審議中!」
話に笑いの花が咲いた。でも実際姉さんたちは、これから佐藤中尉のことを見極めていくつもりなのだろう。
――本当に信頼できるのか否か
* * *
「そろったな、じゃあ全員背嚢の中に砂を詰めろ」
中尉の言葉に全員が凍りついた。
「聞こえなかったのか? 砂を詰めればいいんだ」
よく意味は分からなかったが、全員とりあえず砂を詰めることにした。
軍で支給される背嚢は、大きく丈夫で砂を詰めると約十キロ程の重りになる。
「詰めたな? よし、ではそれを背負ってライフルを片手に海に飛び込め」
「は?」
声を上げたのはシンシアだった。納得できないという表情である。
「なんだ、何か問題があったか?」
「隊長、失礼ですが訓練の意図が読めません」
ライラはシンシアが切れる前に中尉に質問した。ここでシンシアが切れたら間違いなく中尉を殴っているだろう。そんなことになればただでは済まない。ライラはそれを見かねてあらかじめ危機回避をしてくれたのである。
「それに、ライフルを海水に浸けるにはどうかと思います」
中尉はニヤリと笑った。
「そうだな、説明するべきだった。まず、もしも重い荷物を持った状態で水中に投げ出されたらお前たちはどうする?」
「泳いで陸を目指します」
ライラは模範的な解答を返した。
「だろうな、じゃあもし君たちが今持っている砂袋ぐらい重かったら、どうする?」
「捨てて泳ぎます」
「それではだめなのだよ。君たちにはそれを持ったまま泳ぎ回れるくらいになってもらわねば困る」
習うより慣れろだ、と言って中尉は自ら砂の詰まった背嚢とライフルを持って海に飛び込んだ。
中尉はプカプカと手足を動かしながら水中に浮く。
「とりあえずこれを三十分続けてみろ。溺れそうになったら背嚢を捨てたり上がってもいいが、そうした場合全員が朝食は抜きだ。頑張れよ」
それを見てライラやイーナ、私も全員が背嚢を背負ったまま海に飛び込んだ。
しかし、これが見た目以上に難しい。十キロ以上ある背嚢に体を持って行かれそうになるのを必死に立て直そうとして、想像以上に体力を持って行かれる。全員を確認するが、中尉以外はみんな何とか浮いている状態だった。
そんな中、トビーことトビアス・ライラックの姿が見えなくなっていた。
「あれ、トビーは?」
気付いたライラが辺りを見回す。トビーの一番近くにいたのは彼女だった。
「さっきまでいたのに!」
「もしかして、沈んだ?」
「トビー!」
ライラはなりふり構わず背嚢を背負ったまま潜水した。
「まずい!」
そしてその後を中尉が追いかけた。
「姉さん、どうすればいいの?」
「私は浮いてるので精一杯よ!」
「わ、私、もう……」
イーナは溺れそうになり、そのまま桟橋につかまり上に上がった。
「中尉達は?」
「知らないわよ!」
自分が浮いているのに必死で私も姉さんも、自分で何を言っているのか、このときよくわかっていなかった。
しかし、次の瞬間イーナの真横にトビーとライラを肩に担いだ佐藤中尉が浮上してきた。ライラはまだ意識があるようでイーナにつかまり桟橋へ上がった。トビーは意識がなく桟橋の上で魚のように伸びていた。
「二人とも、上がってこい。早朝訓練は押しましだ」
そう言われ、姉さんと二人で上に上がった。
その後、トビーはイーナとライラによって医務室へ運ばれた。イーナは衛生部の人間だから何とかなるとは思うけど、ライラは今にも泣きそうな顔でトビーに縋り付いていた。
シンシアは文句を言いながらシャワーを浴びに行ってしまった。
桟橋には私と中尉だけが残された。
「佐藤中尉は力持ちですね。トビーだけでも百キロくらいあるのに」
「あれぐらいわけないさ。鍛え方が足りないぞ、お前ら」
彼は皮肉を言いつつも自信なさげに言葉をつなげる。
「こんなことになるはずじゃなかったんだがなぁ」
中尉はため息をつきながら桟橋に座り込んだ。
「もう少し基礎的なことから始めるべきだった」
「気を落とさないでください」
中尉はそうだな、と寂しそうに微笑んだ。
「まぁいい。じゃあ残ったお前だけここにあるライフルの整備をしていけ」
手渡されたライフルを見ると、完全に水没していてあっという間に錆びて使い物にならなくなってしまいそうだった。
中尉は優しくライフルの解体方法を教えてくれた。
「ライラック曹長は、本当に弟が大切なのだな」
ライフルを解体しながら彼はぼそりといった。
「ええ、彼女の唯一の肉親ですから」
彼はなるほど、と相槌を打った後に悪いことをした、と無塚しい顔で下を向いてしまった。
「だ、大丈夫ですよ。トービーって見た目の通り丈夫ですから」
明るく言っても表情は変わらなかった。何とかこの雰囲気を脱したい私は、ある質問を思いついた。
「中尉はご家族がおられますか……?」
「……ああ、いるよ。親父と妹がいる。親父から勘当食らってるがな」
「そうですか、私には姉さんがいますが血の繋がった人間は見たことがありません」
「そうなのか?」
彼は驚いたような顔をしたが、私はあくまで淡々と話し続けた。
「はい、ライラとトビーは先の戦争で両親が戦車に潰されて死ぬのを目の前で見てしまっています。みんなそんな感じでここにいるんですよ」
中尉はまた下を向いてしまった。
「だけど僕たちは同情してほしい訳じゃないんです。もっと強く生きなきゃいけないんです。だから――」
もう言い始めたら止まらなかった。言いたいことをここではっきりと言おうと思った。
「だから私たちを強くしてください」
中尉は私の目をまっすぐに見るともちろんだ、と笑顔で頷いてくれた。
そんな話をしている間にライフルの整備は終わり、きれいな朝焼けが海から一筋の光を届けてくれた。
「もう戻りましょう。みんな心配します」
「そうだな、ありがとう」
二人でライフルを抱え研究所に戻ろうと立ち上がった。
その時、桟橋に マーク・トレイター少佐が現れた。
二人でビシッと敬礼をしておはようございます、と挨拶する。
「おはよう、突然だが中尉。君に電報が来ている。規定上中を拝見させてもらったが――」
少佐は最後に言葉を濁した。
そして手には二つ折りにされた電報と、休暇届のが握られていた。
中尉はそれを受け取るとおもむろにそれを開いた。
「っな……!」
中尉の手が震えている。
気になった私は、ついその中身を盗み見てしまった。そこにはカタカナで短く、大きく書かれていた。
――チチキトク スグニ カヘレ――