■一、順調に育む

 

 エプロンを着た和臣(かずみ)が夕食の支度をしてくれている。

「ごめんね、よろしくね」

 和臣は、気にしないで行ってらっしゃい、と言う。私が体をひねって、二人通るには狭いキッチンを抜ける。和臣が向こうのキャリーバッグを取ってくれる。

 開きっぱなしの裏口から差してくる温かい陽の光が、名残惜しさをかき消す。草花と潮の匂いが鼻孔をくすぐる。

「行ってきます」

 旅立ちにはいい正午だと思う。

 今年ようやく二十歳を迎えた私は、成人式のため東京に帰省する。といっても成人式まで一週間ほどの余裕がある。講評の課題が忙しくて正月帰省できなかった分、春季休校に併せて帰ることにしたのだ。

 バス停までキャリーバッグを引っ張っていると、反対側の歩道に幼稚園児ぐらいの女の子と彼女の父親が散歩をしているのに気付いた。父親は私を見て、子の手を引いて近寄り「手伝いますか」と問う。

「いえ、慣れてますので」

 微笑みながら首を横に振るも、その父親はキャリーバッグの持ち手の方に手を差し出すので、ここで断るのも悪いと思い持ち手を渡す。

「どうもすみません」

 父親はいえいえと言いながら私の半歩前に進む。

 彼は三十歳前後で、メガネをかけていてチェックのネルシャツにチノパンをはいている。体躯のよさが服の上からでも分かる。この田舎ならどこにでもいそうな男性だ。

「めいもおてつだいするー」

 女の子は私のさっきまで持ち手を握っていた私の手をぎゅっと握る。

「ゆいちゃんがママのおなかにいたとき、パパがこうしてたのー」

 父親が照れ笑いをして、私もつられて微笑む。

「おねえさんどこいくのー?」

 私は東京に行く、と答える。すると女の子が、ママとゆいちゃんのいるとこ、とつぶやく。

「パパ、めいもとうきょういきたい」

 父親は少し困ったような表情をして、いい子にしてたらな、と言う。

 こんな幸せそうな家庭にも何か事情があるのかもしれない。うちだってそうだった。一見普通なのに、幸せそうなのに、他の家庭と違う事ばかりだった。

「東京だと、バスから瀬戸大橋線に乗り換えですかね」

 男性に訊ねられて私はそうです、と答える。

「高松駅からマリンライナー、岡山で新幹線に乗り換えます」

「静岡を通るのは陽が暮れるころ頃ですかね。夜景がきれいなんですよ」

男性はにこっと笑った。

 

 岡山に着いたのは十四時前だった。みどりの窓口へ行き、平日だっていうのに券売を求める人だかりの列に立ち並ぶ。

のぞみのチケットを買うのに十五分ばかり要したが、穏やかな心持ちのせいか時間の経過が気にならない。

みどりの窓口を出て、ホームへ向かう。改札で駅員にのぞみの出るホームを教えてもらう。

のぞみがホームに到着したのは、私が着いてすぐだった。私はグリーン車に乗り込み窓側の席に腰掛ける。右列には大人しそうな親子が席に着こうとしていた。その四人の家族は、母と小三ぐらいの少女が通路を挟んだ私の横の座席に、父と中一くらいの少年がその前に座る。

しばらくして電車が発車する。

通路側に座る少女がそわそわと周りを見渡し、私と視線が絡む。海岸沿いで会っためいちゃんを思い出す。けれど、めいちゃんとは対象的なその大人しげな少女は何かに怯えている様子だ。

電車が動きだし、少女は眉を小さくひそめる。乗り物が苦手なのだろうか。しかしその眉根もすぐに元に戻る。

少女と私はしばらく視線を交わしたままでいる。微笑むでもなく、ただただ真顔で見つめあっているのだ。逸らす理由もないのでじっと見ていたが、少女の奥にいる母が気付くと、子の名を呼び頭を撫でようと少女の頭上に手を振りかざす。

少女がハッとして振り返ると迫ってきた綺麗な細い手に驚き「きゃっ」と小さく悲鳴を上げ頭を仰け反らせる。子が驚いたことに驚いたのか母は子に謝る。

少女が何に怯えているのか分かる気がする。もし状況が違えば悲鳴を上げてしまうのは私だったかもしれない、と。

私は窓の外を眺める。少女の母の手があの記憶を呼び出す。幼い頃の、おぼろげな思い出である。

私は父と髪を後ろで結った女の人と遊園地にいた。なぜそこに行く過程になったかは思い出せないのだが、私がその女の人に「あなたは誰?」と尋ねたら「あなたのお父さんの上司だよ」と言われたことをはっきりと覚えている。

そして何かの拍子に、私の頭をなでようとしていた彼女のひどく美しい手が目に焼き付いている。なぜなでようとしていたのか、それさえも分からない。覚えていないのだ。

幼い私には父とその上司が不倫していたなんて分かりもしなかった。そもそも上司という言葉の意味が分からず、その女性の名前だと思っていたほどだ。

夢ならいいと何度も望んだが、事実は無情だ。あの出来事を現実だと証明するものがある。園児のときに記していた絵日記だ。拙いタッチの絵と、私の絵日記帳には手と私のであろう顔が描かれ、それぞれその一寸上にすずこ∞じょうし≠ニ書いてある。鈴子とはもちろん私の名前である。

腑に落ちないのは、私は母にこの絵日記帳を見せていたことだ。母は父の不倫をこの時点で気付いていたに違いない。だから母は父に問い詰めるなりするはずなのだ――もし母が父を愛していたなら。

私の家庭が特異だと気づいたのは中学生になったときだった。再び絵日記帳を開き、あの一瞬を脳裏が思い出したのだ。そして上司という言葉や不倫を理解できるようになったために父へに嫌悪が溢れ出した。いや、父だけでない。嫌悪ほどでないが母にも嫌気を抱いくことになった。

母の手が、あの日の女の手だと思おうとしたころもあった。だけれど母の手はふっくらとして小さく、目に焼きついている手とは大分印象が違う。そもそも母ならば上司と名乗るのが不自然である。

不倫という一幕が身近になったあの晩、私は母の寝室を訪れ、あのときの記憶や絵日記帳のことを話した。母は普段の微笑みを絶やさないまま「昔の話だわ」と流した。何故かその笑顔に慈悲深さを感じた。

父母は決してうまくいってないわけではなかった。むしろ居心地よい優しさだとか、相手を尊重する気持ちだとかをお互いに示していて、うまく順調な結婚生活だった。父が陽性の白血病だと判明し入院して一家の家計が急変したときも、父の回復までなんとか絆が我が家を持ちこたえさせた。でもそれは絆で、一切愛ではなかったのだ。

 中学生の私はとても叫びたかった。友達が進路や恋に悩みをあからさまに声にあげて相談してくるのに対し、私は自分のことを話すのはただ一度としてなかった。叫ぼうとしたことは何度だってあった。だけれど怖かった。私たちのことを喋るのは怖かった。

 思春期であったからか、父が入退院を繰り返していたことに負い目があったからかは分からない。誰にも言うことができずに私は卒業を迎えようとしていた。

私の忘れられない記憶はもう一つある。鹿瀬という男子の手の記憶だ。

私が高校生になった頃には家族について考えるのをやめた。前から興味のあったガーデニングの勉強をするために大学受験に躍起になった。父と母はとても応援してくれた。第一志望には受からなかったが第二志望に合格し、卒業を待つのみとなった。

その頃、一人だけ仲のよい男子がいた。卒業式の日に第二ボタンを渡してきた同級生だ。それが鹿瀬だ。

初め私はそのボタンを拒んだ。でも鹿瀬はどうしても忘れられたくない、と言って私にボタンを無理に握らせて去った。

鹿瀬の手はごつごつとしてた、と一人その場に取り残された私は記憶した。それと同時に心に違和感を覚えた。なぜ私は鹿瀬の顔でなく手を見ていたのだろうかと。

家に帰り自室に戻った私はボタンをブレザーのポケットから取り出すと姿見を見つめた。真顔の私はぼんやりと鹿瀬とのボタンのやり取りを思い返し出した。彼の男らしい手を思い出す内にあれだけ仲のよかった鹿瀬の顔が思い出せなくなった。彼がどういう人だったか、どうして仲良くなったか、次々とこぼれるように思い出せなくなった。それはポロポロとこぼれるように次々と失われていった。

残ったのは彼の手の印象だけだった。ふと、あの上司の美しい手を思い出した。すると姿見の向こうから何本ものその美しい手が出てきて、私にべたべたと張り付いた。それはやけにひんやりとしていた。首すじにある一つがきゅっと脈ごと肌を抑えつけた途端、とくっとくっと浅く遅く脈打つ音が聞こえた。

私は悲鳴をあげたくなった。だけれど喉が震えるばかりか、身体中に張り付くそれを払うこともできずに硬直してしまった。観念の目を閉じた。

「鹿瀬……」

彼の名を呼んだのには自分でも驚いた。震えが止まり、そっと目を開くと、幻覚はやみいつもの部屋と私が映っていた。

まただ、と思った。また名前と手以外忘れてしまった、と。

 

「お父さん、キレイ」

 少女の声がして瞳を開ける。いつの間にか寝ていたのだろう。夕暮れに染まる静岡を通り抜ける。

 陸側の何やら分からぬ建物にオレンジ色の陽が優しく差し込んでいる。バス停までの道中にキャリーバッグを運ぶのを手伝ってくれた男性が言っていたのはこの景色だということを思い出した。今はまだ夜景ではないが、ああ確かに、と感嘆する。確かに、もう少し暗くなれば美しくなるだろう。

 やがて窓は田んぼや工場を映しだし、視線を車内に戻すと少女と目が合う。家族は皆眠りこけているようで寂しそうに私を見つめている。

「あの……起こしてしまってごめんなさい」

 私はふっと笑って、そんなことないよ、こんな綺麗な景色のときに起こしてくれてありがとう、と言う。

 少女は肩の力を抜いてにっこり笑う。

 

■二、間引く

実家に着く。とっくに陽も暮れ、北風が吹きすさぶ。キャリーバッグを運んで疲れた両手はいつの間にか赤くなっていた。

私は一軒の家を見上げる。築二十一年のその家は未だに外壁に傷や汚れがついていない。庭の芝生はきちんと刈られ、寒椿はその身体に幾つかの花を咲かせる。この家が建つ前からあったといわれる桜の木はつぼみを宿している。全てが、二年前とちっとも変わらない。

インターホンを鳴らすと、母の「どちらさまですか」という懐かしい声が聞こえる。

「私だよ、お母さん」

するとすぐにアーチゲートの鍵が開いた。私は扉を開けて入る。いつだったか父と選んで敷いた石畳を歩む。ガチャン、とアーチゲートの扉が閉まった音がした。

玄関のドアを開けようと手を伸ばすと、内側から鍵を開ける音が聞こえ腕を下ろす。

エプロン姿の母がドアを開けてくれる。

「おかえりなさい」

私はただいま、と言ってほほ笑んだ。母は少し戸惑った表情を浮かべていたが、すぐにいつもの慈悲深い笑みを浮かべる。

「電話ぐらい寄越してくれればいいのに。冷えちゃうわ、早く入りなさい」

「なかなか忙しくて。ごめんなさい」

母はサンダルを脱ぎ廊下にあがる。私も後に続き家の中に入る。

私は訊ねたくてうずうずと母を見つめる。どうして何も言わないのって、どうして何も聞かないのって。理解のある母のフリをして、理解のある妻のフリをして何が楽しいのって。何一つ理解してないくせに。

久しぶりに居間に入る。いつもであれば野球やサッカーに食いつく父の姿がない。

「あれ、お父さんは?」

母が悲しげに眉をひそめて答える。

「……CMLが再発したって。つい一週間前から入院してるわ。でも成人式は絶対に行くって聞かないの」

CMLというのは父の白血病の種類だ。父の白血病は完治が難しいらしい。多くの白血病は赤血球の減少により起きるのだが、父は違う。白血球が過剰に生成され、赤血球とのバランスが崩れるため数年後には急性白血病を引き起こすといわれている。だけれど父が初めて発症してから十年ぐらい経つが、未だなんてことない。投薬治療が終わった後、忘れた頃に再発を繰り返す。

母が台所からハーブティーを運んできた。私はその匂いを嗅いで思わずローズマリー、とつぶやいていた。

「そうよ、沢山間引いて育ちが早くて、毎日二杯は飲まないとなくならないのよ。みかこちゃんのお母さんとか、さよちゃんのお母さんに好評でね。あげてるの」

ふうん、と相槌を打つ。懐かしい響きの名前だ。確か小学生の頃の同級生だった気がする。家が近くてよく遊んだ覚えがある。

母は楽しそうに話を続ける。

「二人とも成人式来ないんだって。みかこちゃんは高校生のときから駆け落ちしてから音信不通だっていうし、さよちゃんは沖縄での生活が大変なんだってねぇ、子供が五人もいるんだって」

そう言われても中学は別々だったし何も思わない。

「鈴子は――」

母は私の手元に目をやる。

「明日お父さんのところにお見舞いに行く?」

「うん、きっと病院じゃ寂しくしてそうだしね、行くよ」

病院でも――というつっこみが脳裏をよぎる。それを私は無理矢理ひっこめた。

まさかみかこちゃんが駆け落ちなんてばかばかしい。私が知っているみかこちゃんは駆け落ちするような子ではなかった。クラスの誰よりも大人だった。勉強もスポーツもできたしはつらつとして人気者だった。

人は変わる。でも私は変われない。

「お母さん、ローズマリーなんだけど」

「うん?」

「いっそのことおば様方のお庭に間引きに行けば」

母は首を横に傾げた。

「ううん……それだとちゃんと育ててくれるか心配で」

私は妙にその言葉が引っかかった。

 

■三、産壕と海

私は質素な個室でりんごの皮をむいていた。父は老眼鏡をかけながら読書に夢中だ。

「お父さん、あのね」

「なんだ」

父は本に視線を落としたまま答えた。

「私が今住んでる町、海辺なんだけどね」

父があぁ、と抑揚のない声で相槌を打つ。

「産壕っていう砂浜があるの。遠い昔にね、ある神様に呪われる年があったんだって。その呪われた年に子供を宿した夫婦はね、その子供を育てると不幸になるって占われたんだって。だから、子供を産んだらみんなで砂浜に埋めたんだって」

父がぱたんと本を閉じる。父の瞳に宿った光がかすかに煌めいている。

「それはな、鈴子。その年は疫病が流行ったんだ。戦国時代だったからね。ついで大きな争いの真っ只中でね。戦は長引くわ、疫病で人は死んでいくわで子供を育てる余裕なんてなかったんだ」

私は父の話している実話も、住んでいる場所のおとぎ話もどっちも知っている。父は地史について詳しいし語るのが好きなのだ。だからこの話を振った。

「じゃあなんで子供を作ったんだろうね、そんな暇だったのかな」

父は私の握る果物ナイフとりんごを見つめる。

「殺しちゃうぐらいなら作らなければいいのにね」

「鈴子……」

父が私の頭をそっとなでる。不器用にわさわさとなでる。

どうして愛してないなら、結婚なんてしたの。ただそう聞きたいだけなのに。どうして私みたいなわがままを産んだの。どうして。

 喉がきりきりと痛む。苦しい。

なんでどうして私が本当にほしいものはくれないの。どうして分かってくれないの。助けてくれないの。

「鈴子は幸せだろうから分からないかもしれないな」

どうして子どもに悲しい思いばかりさせるの。

「お父さん」

どうしてお母さんは泣かないの。平気でいられるの。死んでしまったら憎むことすら愚かなのに。誰に矛先を向けるの。お母さんしかいなくなっちゃうじゃない。

「……成人式、来なくていいからね。私がここに来るからね」

父がふっと微笑む。

「楽しみにしてる」

どうしてお父さんもお母さんも名前をさん&tけして呼ぶの。どうして手を繋がないの。どうして二人だけででかけないの。

私は誰と誰の子なの。どうしてこんなによそよそしいの。

「父の願いを聞いてくれないか、鈴子」

「なぁに?」

父は一度咳をする。口や目が笑いながらも少し眉をひそめる。父は照れたときこんな表情をする。

「お前のウェディングドレスが見たい。死ぬ前にどうしてもな」

私は泣きたいのに、悲鳴をあげたいのに、どんなときだって父や母は平然と微笑んでいる。慈悲深い笑みを浮かべて私を見る。

私は唖然としながらもりんごを向く手を休めない。休めてしまったら、本当に悲鳴をあげてしまいそうになる。

「死ぬ前なんて……縁起でもない」

私は苦笑いを浮かべる。どうしてそんなに軽いことを口走れるのだろうか。もう死を覚悟したのだろうか。

父がまた頭をなでる。

「こう……病室にいるとな。いつか急に死んでしまうかもしれないと思うことがあるんだ。たまにな」

「そう。お父さん、ごめんね。結婚はしないつもりよ。自分で食い繋いで生きていくって決めたの」

誰のせいで。私がずっと苦しんできたと思ってるの。どうしてお母さんは裏切られても笑っていられるの。

どうして人は死んじゃうの。殺しちゃうの。だったら最初っから産まなきゃいいのに。だったら最初っから一人でいればいいのに。誰も愛さずいればいいのに。

「それでお前が幸せなら……いいか」

 父は再び本を開き、私は皮のむけたりんごを食べやすい大きさに切っていく。りんごを切り終えるまで、父と私はしばらく黙っていた。

 つまようじを刺して、できたよ、と皿ごと渡す。

 父は美味い美味いと言いながら食べる。私が手にかけた食事は、インスタント食品でさえ美味いと言う。失敗した料理だって味なんて分からないんじゃないかってくらいに褒める。

 やることもなくなって、父の顔を見つめる。父は物憂げに涙を浮かべていた。

「なぁ、鈴子」

「うん?」

父は本の見返しを開く。一通の封筒が挟まっている。それを私に差し出す。封筒には鹿瀬敬陽(たかあき)≠ニ宛名だけが書かれている。

「これを届けてくれないか」

 脳裏に大きく男らしい手が思い浮かぶ。

 私はいつの間にか小さく頷いていた。

 

■四、可視

 午前八時五十分、私は開場前の遊園地の入り口にいる。鹿瀬の顔が主出せないので、代わりに彼の手を思い出す。

 私は昨日からその思い出せない鹿瀬と会うことで、何か今までのことを思い出すのではないかと考えていた。

 父について鹿瀬のことを追究したが、父は亡くなった親友の息子である、としか言わなかった。もしかしたら、その親友とは上司のことなんではないだろうか。根拠はないが父の交友は狭いから、そんな気がする。

 私は色褪せたレンガの上に座る。天気予報では快晴だと言っていたのに、空には厚い雲が覆っている。寒気を感じてバッグに入れていた毛布を膝からお腹まで覆うようにかける。

 入口横のチケット売り場兼ゲートはもう開いていて、若い売り子とよく目が合う。売り子はにこっとした微笑みを絶やすことなく、じーっと入口付近を見ている。

 他に客はいない。

 私はすることもなくてしんみりと空を見つめることにした。

 

 十分待っていると、向こうの方から身長の高い短髪の男がやってくる。

 その男の見覚えのある手に、私は思わず立ち上がる。

「鹿瀬」

 見つめている手が挙がる。

「久しぶりだな、鈴子」

 改めて私は鹿瀬の容姿を見る。ほっそりとした顔立ちの割には体躯が良く、肌の浅黒さを金髪が引き立てている。

 和臣の趣味はサーファーで、夏になると肌を赤黒くして帰ってくるのだが、鹿瀬の肌はそのような日焼けとは違う。もっと生まれつきのようなものだと思う。

 鹿瀬はじっと見ている私を不思議に思ったのだろうか、髪をいじりながら口を開く。

「あ……これ染めたんだ。成人式のときは黒くしようと思ってるけど」

私はふぅんと気のない返事をする。鹿瀬は頭をかく。気を遣ってくれているって分かるのに。私が昔の鹿瀬を思い出せないばかりに。

「やめとくか、遊園地」

「……行こうよ。折角来たんだし」

「無理すんなよ。ちょっと待ってて」

 鹿瀬はチケット売り場へ行く。入園券と、幾枚の乗り物券を買ってくれる。

 戻ってきた鹿瀬は、ん、と言って私にチケットを渡す。

「ありがとう、お金……」

 私がバッグに手を伸ばすとボソッと、いい、と彼が言う。

「でも」

「いい。いつもジュースおごってくれたし」

 私は頷き歩き出す。

 

 鹿瀬は私が乗りたいと言ったアトラクションに嫌な顔せずに付き合ってくれた。

「次、観覧車がいいな」

 ん、と鹿瀬は軽く返事をする。さっきから鹿瀬も私も口を開かず、極めて静かだ。

 何か話をした方がいいのか、でも話をしたい気分ではないので口を開けられず。

 ゆっくりと歩いて行ると、鹿瀬が口を開く。

「なんで誘ってくれたの、急に」

「お父さんが渡してって。手紙」

 鹿瀬の足が止まる。彼の顔を見上げると鹿瀬は宙を見つめていた。

「お父さんとどういう関係なの? 病室じゃ何も教えてくれなくって」

「病気……なん、お父さん」

 鹿瀬は肩で呼吸をしはじめる。そしてすぐに口でゼェハァと息を繰り返す。たぶん過呼吸だ。

「白血病。……大丈夫?」

 私は鹿瀬の背中に手を回す。なでてあげると、しばらくして彼の呼吸は落ち着いていく。私たちは再び歩き出す。

 観覧車の前に着くまで沈黙は続く。

 チケットを一枚切り離し、係員に渡す。係員の人が茶色のカゴを捕まえる。

 私たちは促されてそのカゴに乗り込む。鹿瀬は向かい側に座る。

「鈴子」

 鹿瀬の黒い瞳が私を見つめる。

「うん」

「俺たちと初めて出会った時のこと覚えてるか」

 私を首を傾げる。私の記憶の中の鹿瀬は、高校の屋上にしかいない。

「そっか。小さい頃に、何度か会ったの覚えてないか」

 小さい頃? 私たちは高校の同級生ではないの?

 それに会ったことがあるなら絵日記に描くはずだ。なのに、上司の手がかりを探すために何度だってくまなく探したけれど、鹿瀬に繋がる日記は無かった。

「幼い頃、最後に出会ったのはここなんだ。俺の父があの木の下で――」

 鹿瀬が拓けた広場を指差す。夏になれば客が自由にブルーシートを広げ花火大会を観覧できる場所だ。そこの、中央にある名前の分からない大きな木である。

 いきなり、ガゴン、とカゴが急停止する。

「きゃっ」

 風が止まる。目の前で細く美しい手が鹿瀬の頭に手を伸ばす。目の前が急に暗くなる。

 

「おかあさん!」

 少年の金切り声を聞いて振り向こうとした。頭の上に手が伸びた。ひらりと舞うように腕は私の額を掠めて落ちていった。

「おかあさ……ん」

 そうだ、そのとき私はおかあさんと呼んだのだ。

 白く繊細な肌がみるみる青くなっていった。父が彼に駆け寄った。

 彼はゆっくりと体を起こし、大丈夫、と力なく微笑んだ。浅黒く大きな父の腕が彼の背中を支えた。

 私は怖気づいていた。

 一人のスーツを着た女性が駆け寄ってきた。

「日向!」

 今思えばその小さくてふっくらとした手には見覚えがある。

 私は彼の前に立ちふさがり、そのスーツの女性を睨みつけた。

「おねえさん、だあれ?」

 その女性はひざをかがめて眉をひそめながら微笑むと、お父さんの上司よと言った。

 

 観覧車が再び動きだす。空を覆っていた雲も今は太陽に被さるものだけになっている。

 細く美しい手が再び過呼吸を起こした鹿瀬の背中をなでている。その背中も今は落ち着きを取り戻しかけつつある。今まで幻覚だと思っていた冷たい手が鹿瀬の首筋をさわる。とくっとくっと脈が波打つ。

「……俺、今医学部でさ。医者になりたいんだ。開業医に。俺、もう失いたくない。俺は……こうなることは分かっていたのに、遅かった」

 私は鹿瀬の髪を指で梳く。

射し込む太陽光がキラキラと鹿瀬の髪を透かす。

「分からないよ」

「え……?」

「お父さんはまだ、長いよ。私の勘ってたまによく当たるの」

 私はにっこりと笑う。久しぶりに愛想笑いでなく、自然に笑った。根拠はないのに、安心させるわけでもないのに、そんな気がした。

 

 

■五、空想と死と

今朝は快適な目覚めだった。

未だ鹿瀬との高校時代を思い出せないが、少なくとも実母を思い出せたことは大きな進歩のはずだから、気分がいいのかもしれない。

姿見に映る私は着物を着ている。

コンコンとドアノックをされ、私はどうしたのと問いながらドアを開けると、母が私をぎょっと見てから恐る恐る口を開く。

「お腹……どうしたの?」

私はすがすがしい気持ちで首に冷たい手を当てる。

 

 ――拝啓 日向殿

間引かれてもなお余ってしまった乳飲み子は産壕に埋められて息を閉ざす。海はただそれを飲み込まんと波を揺する。

愛を以って愛を滅する。

僕らは波にさらしてはいけなかった。埋めればよかった。

死を覚悟した今海はひどく無情だと気づく。そしてそれが僕らでもあると。

 産壕に埋めた愛を以って愛を欲する。

僕らの生まれる時代が少しでも違うなら、僕らは埋めずに済んだのに。

 

 

 

 


■後書き

 

 ごきげんよう。巨田兜舟です。

 最後までお付き合いくださりありがとうございます。

 先に謝辞を。

 今季刊発行に際して編集を施してくれた雪鳥氏、挿絵を担当してくれた本村集氏、ありがとうございました。

 本村氏には細かいことまで指示してしまいましたが希望にかなう絵を描いていただけて嬉しいです。一枚目の挿絵ですが、瞳の位置や手の向きで揉めました。私が入会して初めての挿絵の試みですが、万々歳です。

 

 小説についてですが、解説がないと全く理解されないかと思います。が、あえてネタバレはしません。

 

 (後書きが白い……。どうしよう)

 

 一つだけ書くことありました。

 名前の出ない父母達ですが一人だけ名前出てますね。日向さんです。好きな乙女ゲから取ったなんてそんなことないです。結局ソシャでお金と時間かかるので攻略するの諦めました。

 

そういえば前季刊の答えです。

・ 糸衿の代わりに飛び込み自殺した人 → 蒟蕗樹の屍気

 

ではまた次回の季刊で会えましたら。