私は、どちらかと言えば人ごみが好きだ。行き交う人々に囲まれている時は、詰め草に包まれているような安心感がある。だから、こんな駅前広場の雑踏なんていうのは特に心安らぐ場所だ。

 少し気の早いクリスマスツリーの根元でベンチに座り、私はのんびりと読書を楽しんでいた。

 読んでいるのは童話集の文庫本で、小学生の頃からのお気に入りだ。繊細な言葉で織り合わされた幻想世界を旅する時の感覚は、子供の頃から変わらない。

 本を読む時は眼鏡を外したほうが楽なのだけど、大学生になってからは四六時中かけっぱなしにしている。

 同じサークルの友人が言うには、私のださい赤縁(あかぶち)眼鏡とオサゲ髪は欠かすことの出来ない個性なのだとか。そのセットが無ければ誰だか分からないとまで言われるものだから、自分でも気にするようになってしまった。

 しかしやはり眼鏡での読書は疲れるもので、時おり顔を上げて景色を見ながら目を休めるようにしている。

 そうして眺めるのは、私のことなんて知らん顔で行き交う人々だ。右へ左へ流れる人並みは幾重にも重なった幕のようで、セロハン幻灯機のカラフルな明かりを見ている気分になる。

 さらに上のほうへ視界を移すと、すりガラスの青空が見えて、息を吐きかけたような曇りが所々に浮かんでいた。時たま木枯らしが広場を駆け抜け、私のコートの中まで寒さが染み込んでくる。

 その時、私は寒風の中に不思議な歌声を聴いた。すぐ近くで歌っているかのような、少年の澄んだ歌声だ。

 ――吹雪の晩です、夜ふけです。どこかで夜鴨(よがも)が鳴いてます。明かりもチラチラ見えてます。

 私はその歌に聞き覚えがあった。ずっと昔、ラジオから流れてきたのを聴いて以来、はっきりと耳に残っている歌だ。

 一体どんな男の子が歌っているのだろう。この歌を知っている人と会ったことが今までに無かったので、私は気になって立ち上がり、声のするほうへ歩き出した。

 ――私は見てます、待ってます。なんだかそわそわ待たれます。うちでは時計も鳴ってます。

 さっきは近くで聞こえたはずなのに、いざ歌声を辿ってみると意外に遠い。そうして辿り着いたのは駅の入口近くに立つオブジェだった。

 おそらく立ち木を模しているのだろう。まっすぐに伸びた耐食鋼のポールから、何本も横枝が伸びている。

 ――鈴です、鳴ります、聞こえます。あれあれ、ソリです、もう来ます。いえいえ、風です、吹雪です――

 しかし私が近くへ来た途端、歌の途中で声は止んでしまった。確かにこの辺りから聞こえていたはずなのだけど。

「ここだよ」

 不意に頭上から声が降ってきた。少し大人びたような落ち着きのある、男の子の澄んだ声だ。

 自分が呼ばれたのかと驚いて見上げると、オブジェの枝に小さな少年が腰掛けていた。先ほどからそこで歌っていたのだろうけど、声を掛けられるまでは不思議と気付かなかった。

 彼はツヤのある黒髪を短く垂らし、無感情だけど冷たさの無い表情でこちらを見ている。着ているのは上下ともに空色のゆったりとした寝巻――あれは病人服だろうか。その背中には小さなリュックサックを背負っている。

 無機質な樹木の上で、彼の姿は存在そのものが薄らいで見え、まるで背後の空に溶け消えてしまいそうだった。悲しげでも寂しげでもなく、ただひたすらに底無しの透明感だけが漂っているのだ。

 彼は軽い身のこなしで枝から飛び下り、落ち葉のようにフワリと私の隣へ着地した。それでもあまり元気そうに見えないのは、病人服のせいだろうか。

 思わず身じろぎした私の顔を見上げながら、彼は飄々と話しかけてきた。

瀬渡(せど)駅への行き方を教えてほしいんだ」

 突然そんなことを言われ、私は戸惑って言葉を詰まらせてしまう。いくら子供とはいえ、初対面の相手にここまではっきりと要求を突き付けられたのは初めてだ。

 そのため私は深く考えるヒマも無く、音叉(おんさ)が叩かれたように反射的な答えを返してしまった。

「あ、うん、行き方は分かるけど、どうやって説明したらいいのかな、ええっと……」

 どんくさい頭を頑張って働かせ、どう伝えるべきか急いで考える。でも実をいうと、私は他にまず言うべきことがあるように思えた。

 この服装からして、彼は病院を脱走して来たのかもしれない。だとしたら通報したほうがいいような気もする。

 だけど私はもう彼の相談に乗ってしまったわけだし、どこから来たのか、なんてこのタイミングで尋ねる勇気も無かった。正直なところ、私は人と話すのが苦手なのだと思う。

 とりあえず、何を言うにしてもまずは相談に答えてからだ。それから彼のことを尋ねよう。

「この駅からの行き方だよね。それだと、まず上りの電車に乗って、西川野駅で乗り換えて……あ、そうだ、駅名はメモに書いて渡したほうがいいのかな」

 なんとか説明しようとするのだけど、思考の糸が四方八方から折り重なって絡まってしまう。どうも私の親切は不親切に立ち回る性質がある。

 すると彼は首を横に振って、私の言葉を遮った。

「僕、一人で電車に乗るの初めてだから、乗り方も教えてよ」

 そこまで言われると、どうしたらいいか分からなくなってしまった。今まで必死に伝えようとしていた内容が前提から崩れ去っていく。

 電車の乗り方なんて、とても口で説明できる自信が無かった。私だって、母さんが隣で教えてくれたから切符の買い方を覚えられたのだ。

「ええっと、じゃあ、瀬渡駅まで私が一緒に付いて行ってあげるよ。それでいいかな?」

「うん、いいよ」

 彼が首肯したのを見て、私は少し安心しながらも複雑な心境だった。見ず知らずの子供を連れて歩くなんて、何か誰かに叱られるのではないか。

 そう思いながらも、自分が言ってしまった手前は仕方が無い。私は彼の手を引いて駅へと続く階段を下りていった。

 

 券売機を操作して私が二人分の切符を買っている間、彼は隣に立って私の手元をじっと見つめていた。ただ面白くて見ているのか、それとも切符の買い方を覚えようとしているのかもしれない。

 しかし私からすると気が気ではなかった。何しろ病人服の子供を隣に連れているのだ。まさか誘拐犯とは思われないだろうけど、人目に付くのは間違い無い。

「はい、これが君の切符。あそこの改札機に入れるんだよ」

 子供料金の切符を手渡しながら改札機を指差すと、彼は頷いて歩き出した。もちろん私も後から付いて行き、一緒に改札を通る。

 ホームに下りると丁度電車が着いたところで、私は彼の手を引いて電車に乗った。足元に気を付けてとか、そんな言葉を掛けていると私は彼のお姉さんになったような気分で、後ろめたさも薄らいでいった。

 私が端っこの席に座り、リュックサックを抱えた想太が隣に座る。

 休日の昼間なので、電車の中はガラ空きだ。だから会話を聞かれることも無いだろうと思い、私は彼自身のことを尋ねてみた。

「ねえ、君の名前は何ていうの?」

「僕は想太。宮本想太だよ。お姉さんは?」

「智子よ、よろしくね」

 そう言って私は彼に手を差し伸べる。ちょっと馴れ馴れし過ぎたかと思って後悔したけど、彼は迷うことなく手を握ってくれた。どうやら彼は大人しい性格なだけで、心は開いてくれているらしい。

「ところで、想太くんが着てるのって病院の服だよね?」

「うん、僕は生まれつき病気なんだ」

「お父さんやお母さんは、君が出かけてること知ってるのかな」

「いいや、知らないよ。でも大丈夫なんだ、僕は平気だから」

 それはつまり、脱走と呼ぶのではないだろうか。肝が冷えるのを感じながら、私は曖昧な苦笑いを返していた。

 なんだか、非常に好ましくない展開になってきた。これでは私が彼の脱走を手助けしたことになってしまう。もしも想太が実は重病で、突然倒れてしまったりしたら、私はどうすればいいのだろうか?

 想太の言葉をどこまで信じていいものか悩んでいると、今度は彼のほうから尋ねてきた。

「智子お姉さんは、どこかへ行くつもりだったの?」

 それは私にとって、あまり聞かれたくないことだった。でも彼に対して隠す理由は無いし、誤魔化すのは上手くないから正直に話そう。

「いや、実はね、今日は大学のサークルがあったんだけどサボってたの」

「サークルって?」

 彼は首を傾げながら、さらに尋ねてきた。聞いていて面白いものでもないだろうに。

「小説を書くサークル。でも私の小説ってあんまり評判が良くなくて、それで、最近なんだか空しくなっちゃったの」

 言ってしまってから、年下の子供に話すようなことではなかったと気付いた。想太からしても、こんな愚痴を言われたら答えに困るだろう。

 しかし、返ってきたのは意外にも確かな意思のある言葉だった。

「そんなことないよ。誰かに言われたからって、それで全部決まるわけじゃないもの」

 大人しいと思っていた想太が急にハッキリと意見を言ったから、私は驚いて何も返せなかった。どうして彼は、そこまで断言できるのだろうか。

「智子お姉さんの小説、僕は読んでみたいな」

「じゃあ、今度会う時に持ってきてあげるね」

 先ほどの言葉の余韻がまだ頭に残っていた私は、深く考えずにオザナリな返事で承諾してしまった。また会うかどうかも分からないのに。

 でも考えてみると、私の小説を想太に見せることは少し楽しみに思えた。なんだか、初めて自分の小説を人に読んでもらったあの日と同じドキドキだ。

 ――そうだ、あの日から変わったんだ。

 電車の窓から外を見ると、暗いトンネルの中に等間隔で設置されたライトが、いくつもいくつも後ろへ過ぎ去っていく。なんだか、あの日が――私の夢が決まったあの瞬間が近くにあるように感じた。

 それは私が高校生の頃、同じクラスの女友達に自作の小説を読んでもらった日のことだ。今になって思えばお世辞だったのかもしれないけど、彼女は私の書く文章を褒めてくれた。

 その日から、私の夢は小説家に決まった。

 大学の文学部に入ったのも、そこなら小説家になるための勉強が出来ると勘違いしたからだ。だけど入学後すぐに現実を知り、そんな夢を人に話すことすら恥ずかしくなってしまった。

 ならばせめてと小説サークルに入ったのだけど、そこでも本気で小説家になろうなんて人はいない。挙句の果てに、同じサークルの人たちからは「子供みたいな文章」と馬鹿にされる始末だ。

 だから、私の小説を読みたいと言ってもらったのは久しぶりだった。

「ところで想太くんは本をよく読むの?」

「うん、ヒマな時はいつも読んでるんだ。この人の書いた童話が好き」

 そう言って彼がリュックの外ポケットから取り出したのは、私がさっき読んでいたのと同じ童話集だった。

「あ、それ私も読んでる。小さい頃から好きだったの」

「そうなんだ。智子お姉さんとは気が合うね」

 そう言って彼は微笑んだ。なんだか、喜びというより安堵のような笑顔だ。子供らしくない表情だな、と少し思った。

 それっきり私は何を話したらいいか分からなくなって、黙り込んでしまった。想太は本を読み始め、電車の周期的な振動だけが時を刻む。

 やがて何度目かのアナウンスが流れ、次の停車駅は私たちが乗り換える西川野駅になった。

「ねえ、想太くん、次の駅で降りるよ」

 私の呼びかけに想太は頷き、読みふけっていた本をリュックにしまった。

 電車が停まり、自動的に扉が開く。ホームへ降りた私たちは再び改札を通り、切符を買って次の電車に乗り換えた。

 今度の電車は、空いているどころか人影一つ見当たらなかった。想太の格好は車内でも目立ってしまうから、人がいないと少し安心する。

 私たちが座ると扉が閉まり、電車が緩やかに発車した。少し走ると線路は地上へ出て、窓の外に青空が広がる。

 想太は座席の上で膝立ちになって窓と向かい合っていた。隣に座った私から見ると、窓に映った彼の横顔に空が透けて見える。

「僕は、空が好きなんだ」

 私のほうを見ずに、想太がポツリと言った。

 彼の視線が向く窓の外には、後ろへ流れ行く町並みと、動かない空。漠々とした青に飛行機雲の白が線を引いていた。

「どうして?」

 前置きも無しにただ好きとだけ言った想太に、私が返せる言葉はそれだけだった。答える彼の瞳は空の色を――いや、ここから見える景色の全てを映し込んで、飽くまでも遠くへ向いている。

「自由、って感じがするから。あの空を飛び回れたら楽しいだろうなって、いつも思うんだ。何にも縛られない、在りのままの僕が空にいるように思えて」

 想太の言葉は大人びた物言いに思えたけど、彼自身は大人ぶっているようにも見えない。彼ぐらいの年頃はいつでも在りのままでいられるだろうに、一体何に縛られていると言うのだろうか。

 そこまで考えて、想太が病人だということを思い出した。彼の病気の軽重を聞く勇気は無いけれど、病院にいたら自由を制限されることも多いだろう。

 空を見つめる想太の瞳の奥に、今までの彼が見せなかった願いがあるような気がした。

 でも私は彼の心の中まで読めないし、空について深く考えたことも無かったから、返事ではなく単なる感想を述べることしか出来ない。

「想太くんには、空が似合うね」

 何気なく言った一言だけど、嘘ではなく素直にそう思っていた。空を背景にすると、彼の横顔は一枚の絵画のように見えたから。

 すると彼は少し恥ずかしそうに笑顔を浮かべた。

「いつも、空ばっかり眺めてたからね」

 今度は確かに分かった。はにかんだ想太の表情には、自虐の気持ちが含まれているのだと。

 私の想像の中で、病室の窓から空を眺める想太の姿が、今の彼に重なって見えた。病気というコンプレックスが彼の心に覆い被さり、自由な心を(かげ)らせているのだろう。

「それでも、いいんじゃないかな。そんなところも含めて、想太くんだと思うよ」

 これでは何の励ましにもならないだろうか。でも私は正直に、今の彼がとても素敵に思えたのだ。

 すると想太は私のほうを向いて、ニッコリと笑った。

「そう、それが本当なんだよ。僕は空が好きなんだ。空を見ている、あの時間が大好きだった。そのことは誰にも変えられないんだよ」

 先ほどとは一転して、想太は驚くほど楽しそうな笑顔で語っていた。まるで話さずにはいられないと言わんばかりに。

「やっぱり智子お姉さんとは気が合うね。僕のこと、初めて本当に分かってもらえた気がする」

 よほど嬉しかったのか、想太は座ったまま横から私に抱き付いてきた。

 あまりにも突然で、私は思わず変な声を上げてしまった。

 密着した彼の体が、クスクスという笑い声で振動している。本当に嬉しいのか、からかわれているのか分からない。

「もう、悪い子だね想太君は」

 私は恥ずかしがっているのを悟られないように落ち着いて言い、想太の頭を撫でる。すると彼は体勢を変えて、私の膝に頭を乗せて横になった。

 他に乗客がいなくて本当に良かった。この子だったら、公衆の面前でも同じことをしてしまうような気がする。

「ねえ、もっと頭なでてよ」

 私は言われるまま、想太の頭を撫でた。彼の髪は滑らかで、私の指の間をサラサラ通っていく。その瞳は眠そうに閉じて、幸せそうな微笑を浮かべていた。

 こういう所は、想太も年齢相応な感覚を持っているらしい。いや、むしろ彼だからこそ初対面の私にここまで甘えられるように思えた。

 何となくだけど、彼は身内に甘えないタイプな気がしたから。でも、そう思えるのはどうしてだろう。

 考え事をしながら想太の頭に手を滑らせていると、微かな寝息が聞こえてきた。あと十分ちょっとで瀬渡駅なのに、寝てしまったようだ。

 私は小さく溜め息を吐き、安心しきった想太の寝顔を見ながら思わず微笑んでいた。

 

 私もウトウト眠くなり始めた頃、瀬渡駅への到着をアナウンスが予告した。危なかった、もう少しで乗り過ごしてしまうところだ。

「起きて、もうすぐ着くよ」

 想太の上体を起こしてあげると、彼はゆっくりと人形のように(まぶた)を開いた。起き上がるとまだ眠そうな目をこすりながら、大きく伸びをする。

 間も無く電車はスピードを落とし、半屋外の瀬渡駅に停車した。想太と一緒に駅のホームへ降りると、車内の暖房と冷たい外気の温度差が肌に染みる。

 私は歩きながらコートのボタンを留め、隣の想太に問いかけた。

「想太くんは、そんな薄着で寒くないの?」

「うん、平気。あんまり寒さって感じないんだ、僕は」

 そう言って想太は、縮こまって歩く私の手を引いていく。でも改札口を出たところで、私は大事なことに気付いた。

 今まで想太に頼まれるまま瀬渡駅まで案内してきたけど、彼はどこへ向かうのだろうか。私は彼が駅からどこへ行きたいのか、聞いていなかった。

「ねえ想太くん、これからどこへ行くの? もし良ければ私も付いて行ってあげるけど」

「じゃあ、この近くの瀬渡霊園ってところに連れてってくれるかな。前に来たことがあるんだけど、行き方を忘れちゃったんだ」

 彼が霊園へ行くというのは、私からすると意外に思えた。彼ぐらいの子供が行きたがる場所といえば友達の家とか玩具(おもちゃ)屋ぐらいだと思っていたけど、まさか墓地へ向かっていたなんて。

 彼は一人でお墓参りでもするつもりだろうか。もしかしたら、親しかった親戚がその霊園に眠っているのかもしれない。それならば彼が行きたがるのも納得だ。

 だから私は、彼がどうして霊園に行くのか尋ねることはしなかった。人の生き死にと関わることなんて、あまり聞きたくはない。

 しかし、まず私は瀬渡霊園という場所を知らなかった。どうしたらいいのだろう。

「瀬渡霊園、聞いたこと無いなぁ……。あ、あそこの地図で探してみようか」

 ちょうど駅の出口に地図が備え付けてあるのを見つけて、私たちは霊園の場所を探してみた。

「あった! ほら、現在地がここだから、南口から出て少し歩いたところだね」

 地図を指差しながら確認すると、想太も納得したようでコクリと頷いた。これで目的地も分かって、後は彼を案内するだけだ。病人服の想太を連れて外を歩くことに、多少の抵抗はあったけれど。

 

 瀬渡駅はそれほど人通りの多い駅ではなく、急行も停まらない普通の駅だ。普通というより、少し寂れたような印象も受ける。

 だからこうして想太と歩いていても、あまり駅前通りという実感が湧かなかった。私たちが来た駅と違って、道往く人影も疎らだ。

 くたびれたブロック塀が左右に続く道の真ん中を、私たちは手を繋いで歩いていた。駅を出てからは話すタイミングを見つけられず、二人とも無言のままだ。

 やがて道の脇に広い土地が広がり、石畳と墓石が見えてきた。ここが瀬渡霊園のようだ。

 最近できた小奇麗な霊園ではなく、本当にお墓があるだけの場所だった。人の姿は無く木枯らしばかりが吹いて、どうしても寂しさを感じさせる場所だ。

 門扉も無い入り口から中へ入ると、想太は私の前を歩き始めた。

「ここから先は覚えてるから大丈夫だよ。僕、おばあちゃんのお墓参りで来たことがあるんだ」

 そう言って想太は、立ち並ぶ墓の間を抜けていく。彼に従って歩いていくと、辿り着いたのは霊園の端っこで、すぐ隣には舗装されていない地面が剥き出しだった。

 そこには宮本家之墓≠ニ書かれた墓石が立っている。たぶん想太の家の墓なのだろう。

 想太は墓の前にしゃがみ込み、リュックサックを下ろした。何かお供え物でも出すのだろうか。

 何気なく覗き込んでいた私は、彼がリュックから取り出したものを見て驚きを隠せなかった。

 想太の掌に包まれているのは、純白の羽毛に覆われた物体。

 ギョッとして身を強ばらせる私に、彼は両手に載せたものを見せてきた。力なく翼を投げ出した白い小鳥がそこにいた。

「これは、人形?」

 私は突然の出来事に動揺して尋ねたけれど、そんなことは分かりきっている。グッタリと横たわる姿を見れば、作り物でないことは明らかだ。

「いいや、本物だよ。だけど死んでる。もう何年も一緒だったけど、昨日の夜に死んじゃったんだ」

 想太は申し訳なさそうな顔で小鳥を見下ろしながら、石畳の上に優しく置いた。すると今度は、リュックの中からシャベルを二つ取り出す。

 その一つを私に手渡して、想太は「手伝って」とだけ言った。そして墓石の隣へ行き、そこだけ剥き出しの地面を掘り始めた。

 少しばかり呆けていた私も、すぐ彼の隣に並んで一緒に土を掻き出していく。

 どうやら想太は、この小鳥を埋めるために霊園へ来たらしい。これぐらいなら適当に公園へ埋めたっていいだろうに。わざわざ霊園まで持ってくるあたり、子供らしいというか何というか。

 ちょっと馬鹿げた遠出だった気もするけど、この不思議な少年を満足させることが出来たのなら、悪くはないかもしれない。

 風も止んで音の消えた霊園で、土に刃の刺さる音だけが響く。

「この小鳥ね、ブルーって名前なんだ。お母さんとお店に行って、僕が自分で決めたんだよ。名前を付けたのも僕」

 まどろむように目を細めて、想太は傍らのブルーに視線を落とした。

「こいつ、羽が片っぽ折れてるでしょ? 生まれつきなんだって」

 言われて見ると、右側の翼は真ん中で折れ曲がっていた。生きていたとしても、この様子では飛べそうにない。

「不良品って札が貼ってあって、値段も安かったんだ。それでね、なんだか、僕と似てるように思ったんだ」

「似てるって、生まれつきの病気だから?」

 お互いに俯いて地面を掘りながら話しているので、想太の顔をしっかりと見ているわけじゃない。でも、彼が返事をするまでには妙に間があった。

「いいや、生まれつきレッテルを貼られてるから。自分じゃない誰かの基準を押し付けられて生きてるんだ、僕もブルーも」

 押し付けられるなんて言葉が出てきたことに私は驚き、思わず想太の顔を見つめてしまった。彼は相変わらず地面のほうを向いたまま、口元だけで笑っている。

 今まで飄々としていた想太が、初めて私に見せた寂しげな表情だった。

「押し付けられるって、どんなことを? だって病気なのは本当なんでしょ?」

「そうだよ、でもそれだけなんだ。お母さんは僕に『早く治るといいね』って言うけど、それはどうでもいいことなんだよ」

「それは、どうして?」

 てっきり私は、病気の存在が彼を悩ませているのだと思っていた。その病気が治せれば彼の心は晴れるのだろうと。

「どうしてって、僕がそう思うからさ。もっと大事なものが、僕にはいっぱいあるんだ。たとえばブルーとかね」

 私は分かったような分からないような気持ちのまま、シャベルを動かしながら話を聞いていた。でも今、彼の表情から寂しさが薄まったことは分かった。

「僕の幸せは窓辺でブルーと空を見上げること。僕の夢はブルーとずっと一緒にいること。病気を治すことでも運動会で走ることでもないよ」

 想太は先ほどと同じ飄々とした様子にすっかり戻って、当然のことのように語った。

 彼のような心の持ち方、私には出来るだろうか。人の言葉に振り回されず、自分の信じる生き方を。

 きっと今の私には出来ない。これまで、自分を見つめることなんて忘れたままに生きてきたから。でも、いつか私も変わりたいとは思った。

「想太くんは不思議だね。なんだか私も勇気が出てきたみたい。今度誰かに会ったら、私の夢は小説家ですって正直に言えるような気がするよ」

「ははは、そうだね、智子お姉さんはそれが似合ってるよ」

 似合ってるというのが良い意味なのかよく分からないけど、私はなんだか嬉しい気分になって、彼と一緒に笑っていた。自分の存在を認めてもらえたような気がしたから。

「これぐらいでいいかな」

 小鳥を埋められそうな深さの穴が掘れて、想太はシャベルを置いた。傍らに横たわるブルーの下に優しく手を差し込み、ゆっくりと持ち上げる。

「またね、ブルー。そのうち迎えに来るから、待っててね」

 想太は動かない小鳥に語りかけ、穴の底へ置いた。その表情は離別の悲しみというより、少しワクワクしているように見える。

「じゃあ、埋めようか」

 シャベルを手に取り、想太は穴の中に土を戻し始めた。彼に聞いてみたいことはあったけど、とりあえず私も手伝う。

 掘るのには時間が掛かったけど、埋める時はあっという間だった。さっきまで穴があった場所と他の地面を見比べても少し色が違うだけで、まさか死んだ鳥が埋まっているなんて誰も思わないだろう。

「ああ良かった、ブルーのことだけが心残りだったんだ」

 私と想太はシャベルを置いて一息ついた。そこで私はさっき気になったことを聞いてみる。

「さっき言ってた、そのうち迎えに来るってどういうこと? 夏のお彼岸のことかな」

「ううん違うよ。いつかは僕も入るから、このお墓に」

「えっ?」

 想太がシャベルの土を落としながら言った言葉に、私は思わず聞き返してしまった。

「どうしてそんなこと言うの。お墓に入るって、死ぬってことでしょ?」

 口調が少し厳しくなっていることが自分でも分かった。まさか死ぬなんて、縁起でもない。

 想太はしばらく申し訳なさそうな顔をして、おもむろに口を開いた。

「ごめんね。でも僕は長生きなんて出来そうに無いし、したいとも思わないんだ。さっきも言ったでしょ、僕はブルーと一緒にいたいんだって」

 その一言で、想太の言っていることが全て繋がった。そうだ、どうして今まで考えなかったのだろう。こんな所まで彼がブルーを埋めにきた理由を。

 きっと想太は、死んだ後もブルーと一緒にいようとしているのだ。そのために彼の家の墓まで運んできたのだろう。さっき言った「そのうち迎えに来る」とは、そういう意味だったらしい。

 私は返す言葉に迷った。死を待つだけの人生なんて悲しすぎるけど、それが彼の望む生き方ならば無下には出来ない。

 きっと、想太が電車の中で言ったのはそういうことだったのだろう。彼自身のことは誰にも変えられない。空が好きなことも、その生き方も。

 そして私が想太の在り方を認めたから、彼は心を開いてくれた。

 今、彼を本当に救ってあげられるのは私だけなのかもしれない。私の口は、自然と言葉を紡いでいた。

「きっと、全部、想太くんが決めることだと思うよ。私の考え方を押し付けるのは、キミの大切なものを奪うのと同じだから」

 私の返事を待ちながらシャベルをしまっていた想太は、こちらを向いてニッコリと笑った。さっき会ってから彼が見せた表情の中で、一番明るく混じり気の無い笑顔だった。

「そう言ってくれると思ったよ。やっぱり智子お姉さんだね。大好きだよ」

 嬉しそうに言いながら、想太はリュックを背負って立ち上がった。そしてしゃがみ込んでいる私の隣に来て――私の頬に温かいものが触れた。

 それが想太の唇だと気付いた時には、彼はもう離れて私に微笑みかけていた。

「え? ちょ、ちょっと……」

 あまりにも唐突で、私の心は戸惑いと恥ずかしさでいっぱいになってしまった。顔全体が沸き立つように熱くなっていくのを感じる。

 想太は私を困らせて楽しんでいるのだろうか? そう思って彼を見ても、そこにあるのは飽くまでも無邪気な笑顔だけだった。

 そうだ、これはイタズラなんかじゃない。世間知らずでマイペースな想太の、精一杯の愛情表現なのだろう。

 そう思うと自然に羞恥心が消えて、いつの間にか私は想太と同じように笑っていた。

「ありがとう、私も想太くんのこと大好き」

 想太の小さな体を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。彼は体の力を抜いて、私に身を委ねている。

 こんな時間がいつまでも続けばいいと私は願った。でも、それは許されないことだ。

「想太くん、お父さんやお母さんが心配してるんじゃない? そろそろ帰ったほうがいいんじゃないかな」

 すると想太は自分の足で立ち、私から少し離れて言った。

「悪いけど智子お姉さん、先に帰っててくれないかな。僕は一人でも大丈夫だから」

 彼が立っているのは、ブルーを埋めた場所の前だった。二人(・・)きりにしてほしいのだろうか。

 想太を一人で帰らせるのは心配だったけど、彼の願いを否定することは私には出来なかった。第一、私が言ったところで想太は考えを曲げないだろう。

「そう、それなら仕方ないね。道が分からなくなったら人に聞くんだよ、ちゃんと出来るね?」

 想太はしっかりと頷いた。もうこれ以上は、私が踏み込めない領域だ。

 不安ながらも帰ろうとする私に、想太は何かを思い出したように声を掛けてきた。

「そうだ、僕たちまた会おうよ。来月の今日、僕はここにいるから」

「うん、分かった。約束するよ、また会いに来る」

 私は想太に手を振り、その場を離れた。しばらく歩いて振り返ると、想太は先ほどの場所でしゃがみ込んで何かを話していた。

 その姿を見て切ないような気持ちが胸に込み上げてきたけど、どことなく清々しい気分でもある。私には、彼の生き方や考え方が美しく思えた。

 彼と再び会う日を楽しみにして、私は霊園を出た。

 晴れた冬空は青色にくすんで、上空の北風が遠く聞こえる。そのくせ地表は不思議と()いで、駅までの道のりは寒さを感じなかった。

 さあ、帰ろう。忘れかけていた自由の世界へ。

 

       *  *  *

 

 その日も空は晴れていた。ちょうど一ヶ月前のあの日みたいに。

 一月中旬、私は瀬渡霊園の前に来ていた。想太との約束を果たすためだ。

 想太と出会ったあの日から、私の在り方は大きく変わった気がする。

 まず眼鏡を変えた。以前から少し憧れていた(ふち)無し眼鏡だ。サークルの知り合いからは笑われたけど、自分では気に入っている。

 それと、サークル活動への姿勢も随分と変わったと思う。少なくとも、人から悪く言われて落ち込まない程度には心を強く持てるようになった。

 相変わらずの子供っぽい文章なのかもしれないけど、それでも努力する価値はあるように思えるから。

 もちろん、想太と交わしたもう一つの約束も忘れていない。彼に読んでもらうために書いた小説も、カバンに入れて持ってきた。

 霊園の中を歩いてこの前の場所に向かっていると、そこに誰かがいることに気付いた。優しそうな顔立ちをした三十代ぐらいの女性だ。近付いて見ると、その人が立っているのは確かに宮本家の墓の前だった。

 どうしたものかと私が戸惑っていると、女性はこちらに気付いて話しかけてきた。

「あら、お墓参りですか?」

「え、ええ、祖父の墓参りに……」

 私はいつもの癖で、とっさに適当な答えを考えてその場をしのいだ。

 すると女性は「まだ若いのに偉いですね」と言って、自分の前の墓石を見た。泣きボクロのあるその目は、悲しみと寂しさが同居しているように見える。

「うちは息子が亡くなりまして。先月の今日、病室のベッドで、眠るように息を引き取ったんです」

 その言葉を聞いた途端、私は肺に冷水を掛けられたような怖気(おぞけ)を感じた。この人の息子とは、もしかして想太のことではないか?

「生まれつきの病気ですか?」

「ええ、ずっと病院に掛かりっきりで、つらかったと思います。息子は病室で小鳥を飼っていたんですけど、その小鳥が死んだ日に、ショックで昏睡して、翌日には後を追うように……」

 悲しみが込み上げてきたのだろう、女性は言葉を詰まらせながら話してくれた。そして、それは想太がこの世を去ったことの確信へと繋がった。小鳥を飼っていた、という点が。

 でも、よく考えてみると辻褄が合わない。女性の話によれば、彼は小鳥が死んでから自らも死ぬまで眠り続けていたらしい。じゃあ、私が会ったのは誰なのだろう?

 そう考えて思い出したのは、彼があの日に言った言葉だった。「ブルーのことだけが心残りだった」と、彼は言っていた。

 その時は奇妙なことを言うものだと思ったけど、きっと彼は自分が死ぬことを分かっていたのだろう。

 第一、今になって考えれば重病の患者が一人で病院を抜け出せるわけが無いのだ。すると彼は本当に心残り≠セけの存在だったのかもしれない。

 しかしそんな不思議なことが本当にあるのだろうか。ボンヤリと考えていた私は、女性の声で不意に現実へ立ち返った。

「長く話してしまってごめんなさい。では、私はお先に失礼します」

 女性は私の隣を通って去っていった。すれ違った時に見えた横顔には、目尻に涙が光っていた。

 その後姿が見えなくなってから、私は宮本家の墓――想太が眠る墓へ歩いていった。墓碑を見てみると、確かに宮本想太≠ニ刻まれている。

「想太くん、私、ちゃんと来たよ。約束だもんね」

 もちろん、答えは返ってこない。そのつもりで話しているのだ。

 でも彼のことだから、どこでともなく私の話を聞いているような気がした。

「ほら、私が書いた小説、持ってきたよ。私が読んであげるね」

 カバンの中からサークルの冊子を取り出し、ページをめくる。ちょうど読みやすい短めの作品があるのだ。

 私は墓石の前で、自分が書いた童話を読み上げ始めた。周りには誰もいない。なんだか空間に語りかけているような感じがした。

 それは時間にすれば数分だったのだろう。私は読み終えて本を閉じた。

 これで、彼に届いたのだろうか。そう思って顔を上げた時、私は驚きに目を見開いた。

 墓石の上に、いつの間にか二匹の小鳥が乗っていたのだ。空の色をした青い鳥と、雪のような純白の鳥。じっと動かずに、私のほうを見ている。

 やがて二匹の小鳥は羽ばたいて、一緒に並んで飛び去っていった。その時、小鳥たちが空に溶けて消えたように見えたのは、新しい眼鏡に慣れていないからかもしれない。

 でも、今の私は信じることが出来る。想太は小鳥になって、ブルーと一緒にあの空を飛びまわっているのだと。

 

 ――それでも見てます、待ってます。何かが来るよな気がします。遠くで夜鴨が鳴いてます。


   後書きックス リローデッド

 

 ドウモ コンニチハ ロボコップ デス ヨロシクネ☆

 はい、ごめんなさい、物凄く下らない冗談でした。後書きになると微妙にテンションが変わる鬼童丸です。去年もそうですが、冬季刊ってやる気が出ませんね。

 産技祭季刊で頑張りまくった反動でスランプになってますので、多少なりとも文章が覚束ないのは御了承ください。

 

 さて、言い訳も済んで作品解説ですね。とりあえず登場人物(といっても二人だけですが)について。

 ■智子…主人公の女子大生です。いまいち萌えないことで定評があります。自分としては結構好きなんですけどね、この人。

 書き始めの段階では性格が少し違っていて、もっとロマンチック乙女みたいな大胆な人でした。要するに、目を開けたまま夢をみる人です。それだと一人称の主人公としてマズいので、普通の内向的な人にしました。

 女性で一人称語りするのは難しいですね。私は女性じゃないんで(周知の事実だバカヤロー)。

 それ以前に私は一人称自体が苦手というのもあります。人物の気持ちを主観的に追いかけるのが上手く出来ません。

 ■想太…大人しいけれどマイペースな男の子です。この子の性格は表現するのが大変でした。ちゃんと一つの方向性はあるのですが、それが大人っぽいか子供っぽいかと聞かれると微妙です。

 彼が智子さんに甘えるのかどうかは非常に悩みました。読者からするとイメージが違うのではないかという気がしたんです。でも彼は自分の幸せに対して素直な性格ですから、甘えたい時には甘えるだろうと思いまして。

 

 念のため言っておきますと想太は幽体離脱をして智子と出会ったのですが、そこにも問題がありました。

 まずこの話のテーマとして「自分が思うならそれは自分にとって正しい」というのがあります。突き詰めれば、信じる者にとっては死後の世界も存在するということになります。

 そこが表現したい部分で、想太が小鳥を自分の墓に埋めたのもそういう意味合いがあります。

 ここで重要なのは、それが客観的には全く無意味であるということなんです。でも想太が幽体であることが事実だったら、死後の世界にも説得力が生まれてしまいますよね。

 だから、客観的なファンタジー要素はナシにしたかったんです。でも死期の迫った子供が病院を抜け出すのは無理がありますよね。というわけで仕方なく妥協して想太を幽体ということにしたんです。

 結局お前は何を書きたかったんだ、みたいな感じではありますが、物語としてまとまったので良いかなと。

 

 それと、作中で想太が歌ってたのは北原白秋作詞の『吹雪の晩』です。来るはずのない鈴の音を待つという内容が想太の考え方に合っていますし、時期的にも丁度よかったので。

 ちなみに、北原さんの作詞は既に著作権が切れてるので無問題です。いい歌なので、聴いてみてはいかがでしょうか。