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 潮風がよく香る秋の日の夕暮れ時、町外れにあるその家の呼び鈴を一人の客人が鳴らした。

なめし革の(かばん)を片手に提げて枯葉色のコートを羽織った、四十代半ば程の男だ。だが彼自身は別段この家に用事があるわけではなかった。ただ数日前にこの家の主人から電話があり、「久しぶりに昔の思い出でも語らないか」と招かれただけのことだ。彼は突然の出来事に多少驚いたものの、高校時代に無二の親友であった男の誘いを断る理由は無く、快く応じた。かくして、この男はこうして扉の前に立っているのである。

 客人が呼び鈴を鳴らしてから十秒と待たず、その扉が開いて主人が現れた。客人よりもやや若く見える、黒い鳥打帽(とりうちぼう)を被った男だ。主人は人の良さそうな笑顔で「やあ、久しぶりだね」とだけ言い、客人を中へと招き入れた。

 

 客人が迎えられたのは玄関のすぐ脇にあるキッチンと繫がったリビングルームで、落ち着いたアンティークの調度品で統一された上品な部屋だった。テーブルには洒落たランプが置かれており、精緻な装飾の施されたガラス製の火屋(ほや)の中で(おぼろ)げに揺らめく火影が、柔らかい光で周囲を照らしている。部屋の電灯は点いておらず、卓上のランプが唯一の照明だ。

窓の外では、夕映えの残る黄昏の空が紺碧に包まれようとしていた。

「それにしても本当に久しぶりだ。十五年前の同窓会以来だろうか?」

 コートを掛け釘に掛けながら、客人が主人に問いかけた。ソファーに身を沈めた主人が、旧友を懐かしむように答える。

「そうだったかな。会いたいとは思っていたけど、接点が無いとなかなか会いづらくてね」

 そう言って、主人は苦笑いを浮かべた。それにつられるように客人も苦笑しながらソファーに腰掛け、テーブルを挟んで主人と向かい合った。そうして正面から主人の顔を見ると、積もり重なった老化がはっきりと見て取れ、会わなかった時間の長さをより一層感じてしまう。十五年前から比べれば自分の顔もさぞかし年を食っているだろうと思いながら、客人は数日前からの疑問を口にした。

「ところで、どうしていきなり私と会おうと思ったんだ? もちろん願ってもない誘いだったが、何かあったのかと思ってな」

 すると主人は飄々(ひょうひょう)とした様子で、当然のことだとばかりに答えた。

「いや、別にどうしてということも無いよ。ただ、君と話したいと思っただけさ。僕にとって無二の親友である、君にね」

「まったく、お前のそういうところは昔と変わらないな。いつだって、傍目には理解しがたい行動で人を驚かせる。言っちゃ悪いが、変わり者だとみんな言っていたよ」

 だからこそ気兼ねなく付き合えたのだが、という続きは心の中にしまって、客人は遠い過去に思いを馳せた。そしておもむろに口を開き、若き日の思い出を語り始める。

「そういえば、あの時もお前は――」

 

 話が一段落して客人がふと窓の外に視線を移すと、空はすでに漆黒の闇に包まれていた。青春時代の思い出話は尽きることを知らず、時間を忘れて話し続けてしまったのだ。壁際に置かれた振り子式の大きな時計を見ると、この部屋に来てからすでに三時間近くが経っている。

すると、時計の隣にあるこれも大きな食器棚が客人の目に止まった。キッチンに食器棚が無いところを見ると、ここから食器を取り出して使っているのだろう。

何とは無しに客人が食器棚の中身を眺めていると、三つ並んだ綺麗なカップが目に止まった。全体に薔薇の模様をあしらった、優美なティーカップだ。外国製だろうかと考えているうちに、客人はある矛盾に気付いた。

「お前は母親と二人暮らしだと言ってなかったか? 結婚でもしたのか?」

そう、食器棚には全ての食器が三つずつ収められていたのだ。些細な疑問ではあったが、全てが統一されているのには何かしらの理由があるのだろうと客人は思った。

客人が見ているものが食器棚だと気付いた主人は、わずかに表情を(かげ)らせてこう言った。

「あの食器のことか。あれは妹のだよ」

「そうだったのか。お前に妹がいるとは初耳だな」

「まあ、今は一緒に住んでいないんだけどね」

 そう言うと、主人は遠い目をして窓を見た。今晩は満月だ。東の空に爛々と輝く真円が幻想的な輝きを放ち、主人の元に射し込んでいる。そして彼は窓から客人に視線を移し、飽くまでも静かに尋ねた。

「少し長くなるけど、聞いてくれるかい?」

「もちろんだ。多少遅くなっても構わない」

 すると主人は「あまり面と向かって語りづらい話なんでね」と言い、卓上のランプを消した。すると途端に夜闇が部屋を侵食し、月明かりだけが部屋を満たしてゆく。

 わずか数メートルの距離にいる主人の姿は月光に照らされ、闇の中で幻のように浮かび上がった。しかしいくら満月の明かりといっても、その表情を正確に読み取ることはできない。

 客人は、どこか現実離れしたその光景に息を飲んだ。そして、昔話でも聞かせるかのように主人が語りだす。

「僕が十四歳だった時の話だ。僕の妹は――」

 

       *  *  *

 

 僕の妹は、なんとも矛盾した性格だった。子供らしい性格、と言い換えることも可能だ。僕がそう思う理由を一言で表すのは非常に難しく、実際の具体的な体験談を聞いてもらったほうが早いだろう。似たような出来事は何度もあったが、僕が最も印象深く思っているのは十四歳の頃のことだ。

 

 ある休日の朝、僕は春の朝日の眩しさで眠りから覚めた。大きな伸びをしてベッドから身を起こし、少し寝坊したかなと思いながらクローゼットに向かう。そして僕は着替えを一通り済ませ、あることに気付いた。

帽子が無い。

いつもならベッド脇の本棚の上に必ず置いてあるはずの黒い鳥打帽が、その日は影も形も無かった。部屋の中で思い当たる場所は探したが、やはり見付からない。物に執着する僕にとって、あるべき場所にあるべき物が無いのは異常事態だ。

その上、僕にとってその帽子は特に重要な意味を持っている。その帽子は僕がまだ四歳の頃、父さんが外国で買ってきてくれたものだ。昔のことなのであまり明確な記憶は無いが、父さんがぶかぶかな帽子を僕に被せながら「今のお前にはまだ大きいが、やがて丁度良くなる。その頃には、お前は立派な男になっていることだろう」と言ったことはよく覚えている。それ以来その帽子は僕のお気に入りとなり、可能な限りいつでも被っている。それが無くなったとあれば大変な一大事だ。

僕は眠たい頭を叩き起こし、大急ぎで記憶を辿った。確か、前日の夜は本棚の上に置いたはずだ。ならばどうして? もしかしたら、誰かが動かしたのかもしれない。そう思い、僕は急いで部屋を出た。

リビングでは母さんが朝食の皿を並べ、その隣で妹が紅茶を苦そうな顔ですすっている。ちなみに、母さんの好みに合わせて我が家のお茶は紅茶で統一されていた。しかしながら妹の口にはあまり合わないようで、いつも顔をしかめて飲んでいる。

慌ただしい足音と共に駆け込んだ僕は、息を切らして二人に尋ねた。

「ねえ、僕の帽子知らない? 昨日の夜は本棚の上に置いといたんだけど……」

 できるだけ落ち着いた口調で言おうと努めてはいたが、声が上擦っているのが自分でも分かる。しかし母さんはいたって落ち着いた様子で、首を傾げながら答えた。

「さあ、知らないわよ? 私は帽子なんていじらないもの」

 母さんの声は三十代後半とは思えない程若々しく、口調もどことなく少女のような幼さを宿している。その上容姿にも老化の翳りは見えず、二十歳と言われても疑う者はいないだろう。しかも母さんはその容姿に相応しく、どこまでも純粋な性格だった。

 そのため、母さんが嘘をついているとは考えづらい。だいたい犯人の見当が付いた僕は、俯いたまま黙々と食を進めている妹を見る。

「ねえ、僕の帽子は?」

 妹の顔を覗き込むようにして聞いてやると、大袈裟に首を振りながら調子の狂った声で答えた。

「う、ううん? 知らないよ? そんなの」

言うまでも無く、僕の妹は嘘をつくのが下手だ。口調がわざとらしいし、目線が泳いでいる。

「ははぁん、さてはまた隠したな」

 僕は顎をさすりながら、探偵のような口ぶりで妹の目を見た。すると彼女は「私がやりました」と言わんばかりに、不自然な動作で目を逸らす。これはもう確定的だ。

「どこに隠したの? さあ、怒らないから言ってごらん?」

 僕はできる限りの優しい口調で、妹を問いただす。その途端、そっぽを向いていた妹の顔が突然テーブルの下に消えた。僕が呆気に取られているうちに、妹は見事にテーブルの脇を抜けて行く。

 それからは家中を使って追いかけっこだ。これは言ってしまえばいつものパターンであり、母さんは何も言わずに紅茶を飲みながら笑って見ている。

「こっちだよー! 捕まえられたら教えてあげる!」

「もう! あれは父さんから貰った大切な帽子だって、前にも言ったでしょ!」

 僕の妹は、時折このようないたずらをしては喜んでいた。どうしてこんな風に育ってしまったのだろうか。今にして考えると、父親がいなかったことが大きな原因だったのかもしれない。

父さんは僕の妹が生まれたその日に他界している。娘が生まれたと聞いて大急ぎで病院に向かっている最中、交差点でダンプカーに()ねられたそうだ。

そのため、妹は父親を知らずに生きてきた。親の愛を半分しか受けてこなかった彼女は、それを埋め合わせるようにいたずらで僕や母さんの気を引こうとしていたのだろう。

もっとも当時の僕にそんな心理分析ができていたわけではないが、僕は時間の許す限り妹のいたずらに付き合っていた。なんとなくではあるが、それが彼女のためだという気がしたからだ。

そんなわけで僕はしばらくの間追いかけっこに興じた後、物置部屋の隅に妹を追い込んで襟首を掴んだ。

「さあ捕まえた。僕の帽子、今度こそ返してもらうよ」

「えへへ、捕まっちゃった。じゃあ返してあげるね」

 妹はやたら満足げな笑顔で、リビングに向かって歩き出した。急な運動で額に汗を浮かべながら、僕もその後に続く。

 部屋に入るなり、妹はソファーに向かった。床に頬を付け、ソファーの下を覗き込んでいる。僕はその光景を、さぞや不安そうな面持ちで見ていたことだろう。そして僕の思った通り、妹は「こっちだったっけ」と呟いて別のソファーを探り始めた。しかしそこにも帽子は無かったらしく、今度は焦りの混じった表情でそこら中の棚やら何やらを漁っている。挙句の果てには、「どうしよう! 見付からなくなっちゃった!」と泣き付く始末だ。

 自分で隠しておいてその場所を忘れてしまうのだから、どうしようも無い。そして嘆かわしきことに、これもやはりいつものパターンなのだ。だが今回は物が物なだけに始末が悪い。

 妹は「ちょっと待ってて、絶対に見付けて返すから!」と言って、涙にまみれた顔のままで片っ端から家具を確かめだした。

 妹がそう言うからには、ちゃんと帽子を探し出して僕の元に返してくれるのだろう。そんな根拠の無い安心感ではあるが、彼女の言葉はそれだけの信頼に足るものだ。

 事実、妹は約束通りに帽子を見付け出してきた。ただし、その時にはすでに日は沈みかけていたが。どうやら、ソファーの上のクッションの下に隠してあったらしい。それに気付くまでの間、食事も取らずに探し続けていたのだ。

僕の妹は諦めるということを知らず、決して約束を違えない人間だった。そこが彼女のいいところであり、同時に不器用な短所でもあると思う。それが無ければ妹は単なるいたずらっ子だろうが、責任感あるその気質が彼女を矛盾した性格にしていた。何せ自分でいたずらをしてはその後始末に尽力し、その上反省をせずに何度も繰り返すのだから。

そしてそんな彼女だったからこそ、あの日の悲劇は起こってしまったのだ――。

 

それから半年が過ぎた、心地よい秋の日。僕と妹と母さんは、海から高く切り立った断崖絶壁の上に座っていた。家からは歩いて十分程の、絶え間なく激しい波が打ち寄せる岸壁だ。水平線を遠く見ながら、母さんが語り始めた。

「ここはね、お父さんが私にプロポーズした場所なのよ。私が突然電話で呼び出されてここにやって来ると、あの人が素敵なタキシードを着て待っていたの」

 ここは母さんのお気に入りの場所であり、しばしば僕たちを連れてきては思い出話を聞かせていた。もう何度も聞かされた話だが、僕と妹は母さんの隣に座って聞き入っている。岩壁に当たった波が砕ける音を背景にして、母さんは目の前に過去の光景が広がっているかのように話を続けた。

「それで優しく私の手を取ってね、『僕と結婚してくれ』って言いながらそっと指輪をはめてくれたの。あの水平線に夕日が半分隠れた、とっても綺麗な夕映えだったわ」

 甘い追憶に浸る母さんの様子は、さながら夢見る乙女のようだ。

母さんは一旦話を止め、左手の薬指から指輪を外して見せた。とろりとした濃厚な緑色を宿した、シンプルな翡翠(ひすい)の指輪だ。

「ほら、これがその指輪よ。綺麗でしょう?」

 たしかに、吸い込まれるそうな程に深いその輝きは、綺麗などという言葉では言い尽くせない次元の美しさだった。この輝きを見れば、翡翠が魂と心を安定させるといわれるのも納得だ。

 妹も相当な興味を持ったようで、翡翠にも劣らずにその目を輝かせている。

「うん、すっごく綺麗! お願い、ちょっと私にも着けさせて!」

 母さんは嬉しそうな笑顔で「いいわよ」と答え、妹の小さな指にその指輪を()めた。サイズが合わないため若干不安定だが、妹はそんなことをまるで気にせずに満面の笑みを浮かべた。

「見て見て! お姫様みたい!」

 妹は指輪を太陽の光に(かざ)したり、手でひさしを作って影に入れたりしながら、嬉しそうにそこら中を跳ね回った。元気なのはいいことだが、場所が場所だけに心配になってくる。僕は妹に注意を喚起しようと口を開いた。

「あんまりはしゃぐと――」

 僕はその後に「落っこちるよ」と続けようとしたのだが、その言葉が僕の口から発せられることは無かった。僕の目に、その心配が現実のものとなった光景が映ったからだ。妹は小石か何かに蹴躓(けつまず)き、背中から倒れこむようにして断崖から落ちようとしていた。当然のことながら、この高さから落ちてその先が荒海では助かる術は無い。

恐怖というよりは驚きに満ちた妹の表情を見た途端、僕の体は考えるより先に動いていた。崖のへりまではほんの数メートル。その距離を走る時間が、僕にはスローモーションのように長く感じた。その間も、妹の体は重力に引っ張られて後ろへ傾いていく。

彼女のつま先が地面から離れたその瞬間、何とか間に合った僕の手が細い足首を掴んだ。しかし安心したのも束の間、僕の体は妹の体重に引っ張られ始める。妹の体は同年代で見てもかなり小柄なほうだったが、それでも引っ張り上げるだけの力は僕には無かったのだ。

このままでは僕も一緒に落ちてしまう! そう思ったその瞬間、後ろから抱くような形で僕の体が支えられた。優しくて温かい、母さんの手だ。これで本当に助かったという安心感が、僕の心を満たしていく。

しかしその時、僕は妹の手から海へと落ちていく何かを見た。言うまでもなく、母さんから借りた翡翠の指輪だ。深緑の輝きは海へと一直線に落ちていき、波間へと消えてしまった。僕の体に回された母さんの腕から、温もりが消えていくのがはっきりと分かる。

虚しく繰り返される波の音が、耳に痛かった。

 

 指輪を失ったその日から、母さんは母さんでは無くなってしまった。腑抜けたようにぼんやりとしていたり、夜中に突然叫び声を上げたり、人間らしさを全て失ってしまったのだ。それはまるで、母さんの魂や心がどこか遠くに行ってしまったかのようだった。言葉を発することも無いわけではなかったが、それはただ生理的な欲求を訴えかけるだけであり、家族の会話と呼べるものではない。

 ある日、僕は母さんを病院に連れて行った。ほとんど言うことを聞かない母さんを連れて行くのは容易ではなかったが、それで元の母さんに戻ってくれるのなら安いものだ。母さんの状態はきっと一時的な精神病の類であり、病院へ通えばやがて治るのだろうと僕は信じていた。だからこそ、そこで下された診断は僕に一層のショックを与えたのだ。

 若年性アルツハイマー。

そう告げられた。しかもかなりの末期症状であり、今まで普通に生活していたとは信じられない、と。僕にはその言葉が自分以外の誰かにかけられたもののように思えて、現実として受け入れることができなかった。しかし、拒絶してどうにかなる問題でもない。どうにかする手立ては無いのかと、僕は一言一句漏らすまいと医者の先生の話に耳を傾ける。しかし、聞かされるのは絶望的な話ばかりだった。

 薬の使いようが無い程に母さんの病気が進行していること。母さんの記憶がすでにほとんど失われていること。これからさらに悪化して、寝たきりになるかもしれないこと。話を聞けば聞くほど、目眩と吐き気が僕を苦しめた。

しかし一つ不思議だったのは、指輪を失くすまでの間、母さんがいたって正常だったことだ。もしかしたら、父さんとの思い出の詰まった指輪が母さんの心を繫ぎ止めていたのかもしれない。しかし、父さんが遺した最後の奇跡とでも言うべき指輪は失われてしまった。

もうどうしようも無いのだ。そんな絶望感を胸に抱え、僕は重い足取りで病院を出た。全てを投げ出したいという思いが僕の中に立ち込めて、母さんを置いて帰ろうかとすら思った。しかし僕と妹を十年も一人で育ててくれた母さんに対して、そんなことができるわけも無い。結局、僕は何の解決策も掴めないまま母さんとの生活を続けたのだ。

 

 僕たちは資産家だった父さんが遺した莫大な遺産で生活していたので、母さんが病気になっても経済的な心配は不要だった。家事も大変ではあったが、僕と妹がそれ以上に危惧していたのは母さんの病状だ。

 その後も母さんの病状は一向に良くならず、むしろ悪くなっていた。

僕が最も悲しかったのは、何かを要求する時に僕のことを名前で呼んでいた母さんが、ある時から僕のことを「お手伝いさん」と呼ぶようになったことだ。医者の先生が言うには、母さんはすでに僕のことを覚えていないらしい。母さんにとって、僕は「誰だか知らないけど世話をしてくれる人」になってしまったのだ。

 妹も母さんの変わりように相当のショックを受けたようで、部屋にこもることが多くなった。彼女の部屋の前を通ると、すすり泣きの声が聞こえることもある。僕は妹の悲しみをなんとか和らげたいと思っていたが、誰よりも親の愛情を求めていた彼女を慰められる言葉など、どこにも無かった。

 

 それからほどなくした、いまにも雪が降り出しそうなある冬の日。僕が学校から帰ると、テーブルの上に紙きれが置いてあった。取り上げてみるとそれは二つ折りにされたノートの切れ端のようで、中には妹の文字でこう書かれていた。

『お母さんの病気を治すために、指輪を探しに行ってきます』

 その文章の内容を理解してすぐ、僕の脳裏に嫌な予感が走った。玄関に妹の靴が無かったので、家の中にはいないだろう。ならばどこへ? 思い当たる場所は一ヵ所しか無い。僕は鞄を放り出し、すぐさまあの場所へと走った。

 

 僕が岸壁に着くと、崖のへりに佇む妹の後ろ姿が見えた。

「来ないで!」

 妹の元へ駆け寄ろうとしていた僕は、驚く程強い意志を宿したその声に思わず足を止めてしまう。海からの風を浴びて服と髪をはためかせるその姿は、絶対的な威圧感のようなものを放っていた。

「私には、やらなくちゃいけないことがあるの。お母さんの指輪を失くしたのは、私なんだから」

 妹が何をしようとしているのかは明白だった。それを止めるべきであることも分かっている。しかし妹の言葉に込められた決意の響きが僕の足をがんじがらめに縛っていた。ぴくりとも動かない自分の足を恨みながら、僕はあらん限りの大声で彼女に呼びかけた。

「やめるんだ! 死んじゃったら何の意味も――」

 すると妹はくるりと僕のほうに振り向き、親が子を諭すような微笑みを浮かべながら僕の言葉を遮った。

「大丈夫だよ。私は絶対に、お母さんの指輪を見付けて帰ってくるから」

 その言葉はさながら絶対的な決定であり、僕は何一つ反論できなかった。

「じゃあ、行ってくるね」

 そう一言だけ言い残し、妹は最後まで僕のほうを見ながら崖から落ちていく。その瞬間、弾かれるように僕の体が動き、夢中で崖の際に駆け寄った。しかしあの日とは違い、僕の手が彼女を救うことはできなかった。

僕が慌てて崖の下を覗き込むと、天を仰いで落ちていく妹の姿が見えた。穏やかに微笑む、妹の姿が。そして妹は海に吸い込まれるように、荒波の中へ消えていった。僕はその後も海面を見つめ続けていたが、そこにはただ波が渦巻くだけで妹の姿は影も見えない。

 心の中が希薄になっていくのを感じながら、僕はゆっくりと立ち上がった。断続的な波の音に混じって、妹が遺した言葉が頭の中で反響する。「帰ってくる」と、妹はそう言った。実に彼女らしい、自信と責任に満ちた声で。きっと、彼女がそう言うからには帰ってくるのだ。そんな漠然とした確信が、からっぽな僕の心に湧いてくる。そうだ、僕は妹の帰りを待たなければならない。彼女は物探しが下手だからなかなか見付けられないかもしれないけど、いつまでだって待つんだ。ふらりと妹が帰ってきた時、「おかえり」と笑って言えるように。

 いつしか、小雪が舞い始めていた。

 

       *  *  *

 

「それから僕は来る日も来る日も妹を待ち続けた。そして、今も待ち続けている。だから食器も全て三人分用意してあるんだ」

 とても現実に起こったこととは思えない主人の話に、客人は言葉を失った。主人が卓上のランプに火を灯すと、闇に包まれていた部屋に橙色の光が滲んでいく。

「僕と妹の話はこれでお終いだよ。その後は、何も変わらないただ待つだけの日々さ」

 客人は自分が当然のように付き合っていた相手のことを改めて知り、驚嘆に貫かれた。いつも元気に何気なく振る舞っていた親友が、こんなにも残酷な過去を背負い、今も孤独と戦い続けているということに。

 主人は部屋の窓を開け、無限遠を見つめながら呟くように言った。

「君は僕を狂ったやつだと思うかも知れない。でも、僕は今も信じているんだ。いつか、妹がこの家のドアを叩く日のことを」

 開け放たれた窓から、湿気を含んだ夜風と共に潮の香りが漂ってくる。主人の話の中にあった、断崖の海から香ってくるのだろう。主人は窓辺に立って目を瞑り、深く息をした。その瞼の裏にどんな景色が映っているのか、客人には想像も付かない。客人は少しためらいながら、主人に向かって一つの質問を口にした。

「そういえば、お前の母親はどうしたんだ?」

「ああ、二階にいるよ。案内するから、ついておいで。母さんがどんな状態か、君だけには知っておいてほしいんだ」

 主人は深刻な表情でそう言い、客人を手で促して部屋を出た。客人は神妙な面持ちでその後について行く。

 

 主人は二階の一番奥にある扉の前で立ち止まり、その扉を開いた。中に入ると、そこは壁一面に人形が置かれた部屋だった。

「母さんの部屋だよ」

 子供のものとしか思えない部屋に驚いている客人に先立って、主人は部屋の隅に置かれたベッドに向かった。ピンク色のフリルが付いたそのベッドには、一人の女性が横たわっている。容姿の上では四十歳程に見えるその女性は、目は開いているがどこも見ていなかった。

「この人が、お前の――」

「そう、僕の母さんだ。二十年以上前から寝たきりさ。施設に預けることを勧められたけど、母さんの世話を他の人に押し付けるのが嫌でね」

 そこで主人は一つ溜め息をつき、気苦労の滲んだ声で話を続けた。

「医者の先生からは、もう五年と持たないって言われてたんだ。でも、母さんはそう言われてから二十五年も生きてる」

 それがどんなに大変な生活か、客人にも容易に想像できた。自力で動けない母親の世話を一人で行うのだから、心が休まる時間などほとんど無かったはずだ。

「僕は時々、自分が憎くなるんだ。心のどこかで母さんの死を望んでいる、恩知らずな自分が」

 主人は握り締めた拳を震わせ、激しい自己嫌悪の念が窺える。客人は何と声を掛けていいか分からず、言葉を探すようにして尋ねた。

「しかし、この人が死んだらお前は本当に独りになってしまうぞ。一体どうするつもりなんだ?」

「さあ、どうしようかな」

 主人の苦笑いは、どことなく淋しげに見えた。次に何を言うべきかと客人が考えていると、主人がやけに明るい笑顔を作ってこう言った。

「長い話に付き合ってくれてありがとう。君に話したおかげで、気持ちが少し楽になったよ。それに、僕たち家族のことを誰かに知っておいてほしかったんだ」

 主人は穏やかな眼差しで客人を見つめた後、どこか生気を欠いた動作で部屋の出入口に向かった。客人はベッドの上の女性を一瞥して、主人の後について行く。

部屋に一人残されたその女性の空虚な瞳は、流れるはずの無い涙で潤んでいた。

 

       *  *  *

 

「お前と久しぶりに話ができて、楽しかったよ。せっかくこうして会えたのだから、また近いうちに食事でも行こうか」

 彼は玄関で靴を履きながら、隣に立つ僕を見てそう言った。僕にとってはその言葉がひたすらに嬉しく、泣きそうになる程の笑顔でこれに答えた。

「そうだね、是非ともそうしたいよ」

 靴を履き終えた彼は返事の代わりに照れ笑いを返して、ゆっくりと扉を開いた。扉をくぐった彼に続いて、僕もスリッパのまま外に出る。

「わざわざ玄関まで出て来てもらって悪いな。では、失敬するよ」

「ああ、さようなら」

 彼は右手になめし革の鞄を提げて、左手で僕に手を振りながら夜の道を歩いて行く。僕もそれに応えて、鳥打帽を手に持って高く振った。彼の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと振った。どこからともなく、波の音が聞こえていた。

 

 彼が帰った後、僕はキッチンで紅茶を淹れていた。なんだか心が落ち着かないので、紅茶を飲むことでそれを沈めようと思ったのだ。久し振りに旧友と会ったというのに、僕の心は晴れなかった。それはきっと、懐かしい思い出に浸れるだけの余裕が僕には無いからだろう。

 淹れ終わった紅茶を飲もうとして、ティーカップの取っ手に刻まれたハートマークに気付いた。母さんのものであることを表わすマークだ。どうやら、間違えて母さんのカップを使ってしまったらしい。

しかし今さら中身を捨てるわけにもいかないので、僕はそのまま紅茶を飲もうとした。しかしカップを持ち上げた時、僕は熱さで指を火傷しそうになった。カップの脇にヒビが入り、そこから中身が漏れ出ていたのだ。すぐさまハンカチを当てて、その上から手で押さえる。

しかしこんなヒビ、さっき見た時は無かったはずだが――。なぜだろうかと考えていると、理由の無い不安感が僕を突然襲った。もしや、母さんに何か良からぬことが起こったのでは。そう思い、僕はカップを持ったまま早足で母さんの部屋に向かった。

 

「そ、そんな……」

 部屋に入った瞬間、僕は目の前のありえない光景に愕然とした。僕の見間違いではないかとも思ったが、確かにはっきりと見える。それでも、僕は自分の目に映ったものを信じられなかった。

奥のベッドで、母さんが上体を起こしていたのだ。もう自力では指一本も動かせないと、医者に言われていた母さんが。

 母さんはこちらを向き、あまりの驚きに立ち尽くしている僕を見た。いつもの虚ろな目ではなく、昔と同じ温もりのある目で。

そして母さんははっきりと僕の名前を呼び、「もっと近くへおいで」と言った。忘れられたはずの僕の名前が呼ばれたことに動揺しながら、僕は少しぎこちない動作で母さんの元へ歩み寄る。母さんは近くに立った僕の頭から足先までを眺め、嬉しそうに微笑んでこう言った。

「随分と、立派な男になったね」

 その表情や口振りは僕が子供のころと全く同じで、病気にかかっていた時間なんて幻だったかのようだ。唯一の変化である顔の老化も、笑顔に隠れてしまうとほとんど見受けられない。

 母さんは僕が持っているティーカップを見て、少し驚いたように首を傾げた。

「あら、紅茶を淹れてきてくれたの? ありがとうね」

 本当は偶然持っていただけなのだけれど、いまだにこの状況が信じられないでいた僕は流されるままにカップを渡した。ティーカップに唇を付ける母さんの姿は、まさに昔のままだ。母さんは紅茶を一口飲み、ぽつりと言葉を漏らした。

「私ね、なんだか怖い夢を見たの」

「どんな夢?」

 すると母さんは、静かに語りだした。

「私の心が、どこか遠くに行っちゃう夢。それで空っぽになった私の体に意地悪な悪魔が入って操るの。でももうすぐその体が壊れるから、私に返してもらえたの」

 僕は初め、白昼夢のような母さんの話が信じられず冗談か何かだと思った。しかし母さんの目にあるのは実直の光のみで、嘘の様子は無かった。

母さんにとっては、全てが夢だったのだ。そう考えると、母さんが正気を失ってからのつらい日々も悪い夢だったように思えてくる。だって、あの頃の母さんは今もこうしてここにいるのだから。僕の目に、嬉しさだか懐かしさだか、よく分からない涙が溢れてくる。母さんは僕の頬を伝う雫を指で拭って、悲しげに微笑んだ。

「せっかくあなたに会えたけど、もうお別れみたい。今まで、私の帰る場所を残しておいてくれて、ありがとうね――」

 そして、糸が切れたように母さんの体がベッドに倒れ、指の間からティーカップが滑り落ちた。カップは甲高い音を響かせて床で砕け、割れた破片と中身が広がっていく。母さんの息は、すでに止まっていた。

「さあ、どうしようかな……」

 さっきと同じ言葉を道化めいた口調で言って、僕は深く溜め息をついた。

 

       *  *  *

 

 東の空に上り始めた太陽に背を向け、なめし革の鞄を提げた男は海沿いの町を歩いていた。その男は昨日旧友の元を訪ねのだが、今日になってからコートを忘れたことに気付き取りに行く途中だ。男は朝冷えのする町並みを抜けて、町外れへと歩いて行く。

 

 玄関の前に立ち、男は昨日と同じように呼び鈴を鳴らした。だが、昨日と違って主人が現れる様子は無い。留守だろうかと思って扉を引いてみると、あっさりと開いた。中を覗いてみると、静まり返っていて人の気配が無い。不審に思った男は、コートだけ取らせてもらおうと扉をくぐった。

 男は昨日招かれたリビングルームに着き、部屋を見回す。すると、机の上に置かれた枯葉色のコートが目に止まった。手に取ってみると綺麗に畳まれており、主人が置いといてくれたのだろうと男は思う。すると男は、コートの下に隠すように置かれている紙切れに気付いた。昨夜に聞いた話と不吉な一致を感じた男が慌てて目を通すと、丁寧な文字でこう書かれていた。

『もはや待つ意味は無くなった。もう指輪は必要無いのだと、妹へ知らせに行く』

 それを読んだ瞬間、男の顔から血の気が引いていく。男はそこが他人の家であることすら忘れて、鞄もコートもその場に投げ出して玄関から飛び出した。この町の地理に詳しくない男は潮の香りを頼りにして、一心不乱に走り続ける。その口は無意識にか、「まだ行くな」と(しき)りに呟いていた。

 

 男が岸壁に着いた時、そこに友の姿は無かった。

息を切らしながら崖のふちに寄った男は、足元にぽつりと落ちているものに気付く。それは黒い鳥打帽だった。男の親友が肌身離さず身に着けていたものだ。しかし、その持ち主はもういない。彼によく似合う帽子だったなと思いを馳せながら、男はその帽子を拾い上げた。

そして水平線で隔てられた海と空を仰ぎ、男の口が小さく呟く。

「お前は最後まで、本当に変わったやつだったな」

 その時、強い突風が吹いて男の手から帽子を攫った。帽子は風に翻弄されて宙を舞った後、波立つ海面に吸い込まれていく。その帽子に託すように、男は物憂げに(ささや)いた。

「そういえば、まだお前との約束が残ったままだな。お前が妹を連れて帰って来たら、一緒に食事でも行こう。今度は、俺が待つ役だ」

 男は果て無く広がる海原を眺めながら、いつまでも立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

   後書き

 

 どうもこんにちは、初めましてだと思います。新入部員の()(どう)(まる)です。

入部した理由は、中学生の頃から小説を書くのが好きだったからです。しかしながら当時書いた物を読み返してみるとかなり酷い文章だったりします。直視すると脳とか目とか心とかが死にそうになるので、流し目で読んだりするほどに。だからといって今現在とその頃を比べてそんなに上達したのかと言えばそうでもないんですが。まあ、これからの成長に期待ということで。

ちなみに、ペンネームの鬼童丸には特に意味はありません。妖怪とかオカルトが好きなので、そっち方面から直感的に拝借しました。

 

 では、そろそろ作品の解説を。

 当然のことながら、この小説は自分が文芸部で発表する初めての作品です。そのため、結構無難な仕上がりになっていると思います。難有りだと感じた人がいたのならば、これからの成長に期待ということで勘弁してください。本人は、やる気に満ち溢れていますので。

 あと、自分が小説を書くと結構なペースで登場人物が亡くなっていきます。後書きから読む人にとってはネタバレになりますが、今回も四人中三人が亡くなられましたね。殺すつもりは無いんですが、物語の都合上でポンポン逝ってしまいます。気に入った登場人物の場合は、物語のためだと思って泣く泣く死なせます。じゃあ生かせばいいじゃないか、とか言われればその通りですが、どうも私情で話を書いてる感じがして嫌なんです。死ぬべき人物はしっかり殺すのが、小説に対する自分の基本姿勢ですから。

 今ふと思ったんですが、鳥打帽と言われてもピンとこない人のほうが多いですかね。別に変わった帽子ではないので、帽子なんだと把握しておけば充分です。ただし、烏帽子(えぼし)と間違えたりはしないでくださいね。あれは全く別物ですので。

 

長々と書いてきましたが、ここいらで終わりにしようと思います。

こんな長ったらしい文を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

 

以上、鬼童丸でした。