昨日と同じ朝日が窓から射し込んで、ベッドに眠る幼い少年の瞼をくすぐる。それでも目覚めない少年を起こそうと、誰かが彼の体を揺すっていた。

 その刺激で少年の意識は、留め金が外れたように現実へ舞い戻る。そうしてバネ仕掛けのような挙動で身を起こすと、彼と同い年ぐらいの少女がベッドの脇に立っていた。

「もう朝だよ、寝坊助さん。いつもは早起きなのに、今日は私より遅いんだね。さっき何か、うなされてたの?」

 すると少年は俯き気味に、どもりながら話し始める。

「う、うん、お姉ちゃんの夢。あのね、お姉ちゃんがどこか遠くに行っちゃってね、僕だけ取り残されちゃうの。それでね、お姉ちゃんに会いに行ったら、お姉ちゃんが……」

 すると話しているうちに夢の怖さがぶり返してしまったらしく、少年の声が涙声に変わっていく。それを見かねた少女は慌てて、少年をなだめるように語りかけた。

「大丈夫だよ、私は遠くに行ったりしないよ。だからほら、お互いに約束しよう? 『私たち二人は、ずっと一緒です』って。さあ、約束を破らないおまじない」

 そう言って、少女は右の手の平を少年に向けた。少年も涙を拭いながら左手を出し、二人の手の平が鏡写しに合わされる。そして互い違いに指を絡ませ、彼らの手は固く結ばれた。

「これで大丈夫。もう怖い夢を見ても泣いたりしないね?」

 その言葉に少年は、零れかけの涙が煌めく笑顔で頷いた。握り合った彼らの手は、二つの体で一人分の祈りを捧げ続けている。ありふれた幸せを、手放すまいとするかのように。

 

       *  *  *

 

 夢を見ていた、ような気がする。記憶が曖昧でよく分からない。

理由も無く少し陰鬱な気分で目を覚ました私は、ベッドで横になったまま薄暗い天井を見上げていた。絹を張ったみたいな純白の天井から、精美な装飾の施されたシャンデリアが釣り下がって、ロウソクの灯りが星になって部屋を照らす。シーツに長く広がる金色の髪も、揺らぐ火影を映して淡く艶めいている。

 窓が無いから太陽の光は入らないけど、天井の照明が灯す幾つかの小さな炎が床に描く影模様は、自然の陽光も敵わないほどに優雅だった。

 周りを見れば、四方の壁にはたくさんの人形が並んでいる。どの人形も、お姫様や王子様みたいな可愛らしい装いだ。ルビーみたいな硝子の瞳は、私が眠る時には「おやすみ」と囁いて、私が起きた時には「おはよう」と呼びかけてくれる。

 私が仰向けになっているベッドは鮮やかな薔薇の模様に彩られ、その周りの床には本物の薔薇の花がいつでもたくさん散らばっている。だからこの部屋はいつでも甘い芳香に包まれていて、とても居心地がいい場所だ。

 でも、私はどうしてここにいるのだろうか。分からない。私は今、多分十歳ぐらいだと思うけど、覚えている限りではこの部屋にずっと住んでいる。それに、ここから出たことも無い。外へ出られそうなドアはあるけど、なぜだか外に出てはいけないような気がして、足がそっちに向かなかった。

 だけど私は、この部屋の中だけでも生きていける。こうして薔薇の花に囲まれ、素敵な部屋で毎日を過ごしているだけで充分だ。時には何かを忘れているような気持ちになることもあるけど、それが何なのかは分からない。だから、特に気にすることも無く生きてきた。

 一つ覚えているのは、チノという自分の名前だ。生まれも育ちも分からない私だけど、どうしてだか名前だけは自分のものとして頭の中に刻み込まれていた。

 こんなことを考えていても仕方無い、そろそろ起きよう。私はベッドから身を起こして、腰掛けたまま床に足を下ろした。足元には薔薇が落ちていたらしく、私の素足に踏まれたそれは音も立てずに潰れる。腰を上げて立ち上がると、足裏に感じるくすぐったい感触に思わず笑いそうになった。

 さて、起きたはいいけど、どうしようか。まず、目が覚めたばかりでお腹が減っている。だから、私は近くの床に転がっている薔薇の花を手に取った。私の手の平よりも大きい、ひときわ目立つ真紅の薔薇だ。

 私はその中から花びらを一枚、唇に挟んで引っ張った。プチンと小さな音を立てて取れたその花びらを、何度か噛みほぐして飲み込む。私の口の中いっぱいに、まろやかな香気と甘みが広がった。

 私は毎日、この薔薇の花だけを食べている。心安らぐ甘美なその味わいは食傷も感じさせないし、ほどよく空腹も満たしてくれる。しかも不思議なことに、この部屋に散らばっている花々は食べても食べても無くならない。それはまるで、天使からの贈り物みたいだ。

 私が二枚目の花びらを食べていると、扉の向こうから微かに物音がした。誰かの靴音らしき律動が、こっちへ近付いてくる。

 この部屋には時々、お客さんが尋ねてくることがある。その人たちが何を目的にここへ来るのかは分からないけど、私にとっては色んな人と話ができて楽しい時間だ。

 ワクワクしながら私が振り向くと、ドアノブが扉の向こうと連動して回るのが見えた。そして躊躇いがちに扉が開かれて、誰かが入ってくる。

 それは、白い短外套を羽織った金髪碧眼の少年だった。身長と顔付きからして十五才ぐらいだと思うけど、短く整った髪型のせいで少し子供っぽく見える。

 彼はキョロキョロと部屋の中を見回して、目を泳がせながら呆然としている。きっと、この部屋の甘い芳香と気高い趣向に魅了されてしまったのだろう。やがて彼は私の存在に気付き、驚きに目を丸くして問いかけてくる。

「君は……誰?」

 私は手に持っていた薔薇をベッドに置いて腰を下ろし、口の中身を嚥下しながら答えた。

「私はチノ。今日はお客さんが来てくれたから、気分がいいの。あなたの名前は?」

「あ、う、うん、僕はユウだよ」

 そう言いながら、彼は不安げに私の表情をチラチラと窺っていた。この態度はもしかしたら、女の子と話すのが苦手で慣れないのかもしれない。私にはその様子が可愛らしくて、思わず小声で笑ってしまった。

「そんなに緊張しなくていいよ。ほら、隣に座って」

 ユウは困ったような苦笑いを浮かべて、足元の薔薇を几帳面に避けながら歩いてきた。そして私と一緒にベッドへ腰掛けて、私のほうを見る。

 距離が近くて恥ずかしいのか、彼は非常事態みたいにぎこちない表情をしていた。そんな雰囲気を紛らわすように、覚束ない動きでユウの口が私に問いかける。

「ところでチノ、君以外に人はいないの? 屋敷の人は?」

「ううん、分からないの。いつの間にか独りでここにいたから。時々お客さんは来るんだけど、みんなすぐ帰っちゃうの」

 ユウは俯いて「そうなんだ」と小さく答える。そして彼は私の目を見た。悲しみの雫を注いだような、少し潤んだ翡翠の瞳で。

 初対面なのに、会って間も無いのに、ユウは私の孤独な境遇を哀れんでくれるのだろうか。そんな彼の優しさが胸に染みて、私は彼を悲しませないために微笑みかけた。

「でも大丈夫だよ、私はとっても幸せなの」

 その時、私は不意に、お客さんには何か食べ物を振る舞うべきじゃないかと思い至った。お菓子や紅茶は無いけれど、私以外は誰も知らない素敵な食べ物がある。

 私はさっき食べかけた薔薇を手に取って、彼のほうに差し出した。

「ちょっと食べ物には見えないけど、これはとっても甘くて美味しいのよ。きっと元気が出るから、食べてみて」

 だけどユウは顔を引きつらせて、大げさな仕草で首を振って遠慮した。やっぱり、薔薇の花を食べるなんて一般的じゃないし、戸惑っているのだろうか。だけど、一度食べてもらえば理解してくれるはずだ。

「そんな遠慮しなくていいよ。ほら、こうやって食べるの」

 そう言って、私はさっきと同じように花びらを一枚くわえ取った。こんなに美味しいのに食べないなんて勿体無い。だけどユウは相変わらず躊躇しているようだから、私はとっておきを出すことにした。

 この花の奥のほうには、丁度私の小指ぐらいの白い果実が二つ実っている。これが私の大好物だ。私は一つを指先で摘み取り、手の平に載せてユウへ差し出した。

「これなら食べられる? ここが一番美味しいんだよ」

 だけどユウは相変わらずの様子だった。確かに、初めて食べるものは何でも不安だし、無理強いも良くないかもしれない。

 仕方が無いから、私がその実を食べることにした。決して小さい実じゃないけれど、唇を付けて軽く吸うと簡単に口の中へ滑り込んでくる。舌の上で転がして奥歯で噛むと、濃厚な果汁が一気に口腔へ広がった。味覚がとろけそうなほどに甘くて、自然と目が泳ぐ。

 その隣で、ユウはどうにも居づらそうにしていた。ソワソワと身を揺らして、困ったような眼差しで時々こっちを見る。女の子の隣に座っていることが恥ずかしいのだろうか。すると彼は突然立ち上がって、慌てて壁際へ走って行ってしまう。

 どうしたのかと思った私は、立ち上がってユウへ近付こうとした。だけど、気持ちは彼のほうへ向かおうとするのに、足は勝手に彼の少し手前で止まってしまう。

 私は無意識に、彼を引き留めることを躊躇っているのだろうか。それ以上はどうしても近付けなくて、私は視線だけで彼に「行かないで」と訴えた。

 するとユウはそんな私の姿を見て、自分の感情を持て余しているように苦しげな様子で言う。

「もうダメだ。僕はこれ以上、君を見ていられない……」

 そして、ユウは私に駆け寄って強く抱き締めた。私の顔に押し付けられた彼の胸が、激しく鼓動を打っている。

かなり強引なやり方だけど、これほど強く私を愛してくれることは嬉しかった。言葉足らずで不器用なところも、こんなことをされると愛しく感じてしまう。

 ユウの胸に抱かれて、私はだんだんと体の力が抜けていった。彼が与えてくれる安心感のせいか、少しずつ眠気が頭を浸していく。そして、私はユウの腕の中で眠りに落ちた。

 

       *  *  *

 

 僕は今、とある名家が住んでいるはずの屋敷を前にして立っている。だけど、目の前にある門は半開きのまま、とげとげしい茨が絡みついて花を咲かせていた。

 噂に聞いた通りで、人が住んでいるような気配は無い。ただ、手入れなんかされていないはずの薔薇だけが華々しく咲き誇っていた。

 僕がここへ来たのは、生き別れの姉さんを探すためだ。僕には、チノという双子の姉がいた。泣き虫の僕と違って元気で人当たりも良く、ちょっと食いしん坊で、銀鈴のような声のロマンチストだった。

 だけど、僕らの町を治めていたのはすこぶるタチの悪い領主で、非情な年貢を取り立てて村人を苦しめていたのだ。そのため僕の家には二人の子供を養うほどの余裕は無く、双子が生まれたのは不測の事態だった。

 だからチノは幼い頃に、隣町のこの屋敷へ小間使いとして売り渡されたのだ。

 だけど間も無く領主の代が替わってからは、幸いにも良心的な統治が行われてきた。だから多少はお金にも余裕ができて、僕は母さんに頼んでチノを引き取りに行ってもらったのだ。だけど、母さんは帰ってこなかった。

 その後僕がこの町の人から聞いた話によると、数年前から屋敷の人間を見ることが無くなり、調べに入った者も誰一人帰ってこないらしい。そのため屋敷は手入れする者も無く放置されて、空き家同然に荒れ果てているというのだ。

 そうして、僕はチノと母さんの安否も含めて屋敷の様子を調べるためにここへ来た。もちろん恐怖心はあるけど、チノと過ごした日々の記憶を思うと勇気が湧いてくる。優しくて可愛らしい彼女のことを、僕は今でも忘れられないのだ。

 屋敷へ入る決心を付けた僕は、門扉をくぐって庭に踏み入った。まっすぐ続く石畳は荒れきって、左右から迫る茨が道を狭めている。そのため、屋敷までの道は脇に逸れようも無く一本道だった。考え過ぎかもしれないけど、両脇に咲き狂う真紅の花々が僕を招いているような気がした。

 庭道を抜けて屋敷の前に着くと、玄関の扉も半開きになっている。おぞましいことに、その扉は絡みつく茨に突き破られて穴だらけだった。

 いや、それどころか、いざ近付いて見ると屋敷の壁全体が茨に侵蝕されている。石壁を貫いて生え出た薔薇が花を咲かせるその光景は、異世界のような不気味さを放っていた。

 僕は扉の隙間に体を滑り込ませ、屋敷のエントランスへ入ってみる。するとそこでは全ての窓がカーテンに隠され、その破れ目から射し込む微かな陽光が唯一の光源だった。そのため部屋の隅には闇がわだかまり、エントランスを包む薄暗さが視界を阻む。

 しかし外から見て分かる通り、室内の壁が茨の侵蝕を受けてひび割れていることは視認できた。一体どうして、誰も世話をしていない薔薇がこんなにも育っているのだろうか。

 とにかく、僕は一つずつ部屋を回ってみることにした。しかし、一階の部屋を全て回ってみたけど人はいない。それも何か異常な事変を感じさせる様相ではなく、はびこった茨以外は何一つ変哲が無かった。

 調理場を覗いて見れば、使われた後の食器がそのまま洗い場に残されている。まるで、昨日まで住人たちが生活していたみたいだ。

 そして、僕は階段を上って二階の部屋を調べ始める。しかし、ある廊下に差し掛かった時、明らかに異常な臭気を感じた。肉を腐らせたような、ひどく鼻をつく臭いだ。

 その悪臭が廊下右側の部屋から発せられていることに気付いた僕は、慎重の限りにその扉を開いてみた。隙間から覗いてみると、そこは他の部屋と違って灯りが灯されている。しかしその輝きを生む灯心はロウソクではなく、クリーム色をした薔薇の花だった。

 そして視線を落とせば、じゅうたんが敷かれた床には陰惨な光景が広がっている。

 そこにあったのは、おびただしい数の生首だった。腐敗が進んでいるようで皮膚は醜く歪み、中には肉が無くなって頭蓋骨だけになっているものも多い。

 ひび割れた四方の壁を見ると、何人もの人間が力無く背中を預けていた。いや、違う、どう見てもおかしい。それは生者ではなく、首の無くなった死体だった。体中を刺し貫く茨のつるで壁に縫い止められ、首の断面へ差し込まれた茨に赤黒い体液を吸い上げられている。

 それはまさに、薔薇が人の命を食らって咲いているかのような光景だった。

 その狂的な様相に戦慄しながらも、僕は部屋の中へ踏み入った。耐えがたい汚臭に気は進まないけど、ここは絶対に調べなくてはいけない。

 すると、ベッドの脇で立っている一人の少女に僕は気付いた。あまりに異様な周囲の光景に気を取られて、今までその存在に気付けなかったのだ。

 そこにいたのは、僕と同じ金髪碧眼の小柄な少女だった。血に汚れた白いワンピースを身に着けたその姿は、十歳ぐらいに見える。僕は、彼女の顔に見覚えがあった。忘れるはずも無い、僕の姉さん――チノだ。だけど、妙だ。

 僕と同い年の双子にしては、背が小さすぎる。それに、この惨劇の中で平然としているその姿は明らかに異様だった。

 僕は彼女がチノなのか分からなくなって、独り言のように彼女へ問いかけた。

「君は……誰?」

 すると彼女は手に持っていたものをベッドに置いて、ちょっとすました丁寧な動作で腰掛けた。食事中だったらしく何かを飲み込みながら、彼女の口が銀鈴のような声で答える。

「私はチノ。今日はお客さんが来てくれたから、気分がいいの。あなたの名前は?」

「あ、う、うん、僕はユウだよ」

 そう答えながら、僕は彼女が姉さんだということを仕方無く納得した。しかしそれと同時に、今度は別の疑念が湧き上がってくる。もしかして、チノは僕のことを覚えていないのだろうか?

 彼女の口ぶりや表情を見る限りでは、僕のことを初対面だと思っているらしい。もう何年もが経っているから、成長した僕のことが彼女には分からないのだろうか。

 すると、チノは突然僕に微笑みかけてベッドを手で叩いた。

「そんなに緊張しなくていいよ。ほら、隣に座って」

 彼女が叩いたベッドのシーツは、まるで真紅の菊花を描いたみたいに血痕で汚れていた。そんなところに座りたくはないけど、シーツが汚いからと断るのは流石に失礼だ。僕は足元の人頭を踏まないように注意しながらチノへ歩み寄り、その隣に注意深く腰掛ける。

 しかしその時、僕は恐ろしいものを目にしてしまった。

 僕が何気なく見たチノの体。その背中には、幾重にも絡まった茨の束が、ワンピースの白地を無惨に引き裂いて突き刺さっていた。その茨は背後の壁から伸び、とげとげしい縛鎖となってチノを繋ぎ止めている。

 実姉の惨たらしい姿に、僕は驚きと恐怖を隠せなかった。しかしチノは平然としたもので、不思議そうに僕の顔を見ている。

 そんな風に純粋な表情をされると、背中のことはどうしても聞きづらくなってしまう。仕方が無いから、僕は間接的に彼女の境遇を尋ねることにした。

「ところでチノ、君以外に人はいないの? 屋敷の人は?」

「ううん、分からないの。いつの間にか独りでここにいたから。時々お客さんは来るんだけど、みんなすぐ帰っちゃうの」

 その答えを聞くに、チノは記憶を失っているらしい。きっと母さんのことも、僕と暮らした日々さえ覚えてはいないのだろう。それにこの様子では、この屋敷に何が起こったのかも知り得ない。僕はどうしたらいいのかと頭を悩ませながら、「そうなんだ」と曖昧に返事をした。

 一体、彼女の身に何があったのだろうか。チノを連れ戻すという目的も非現実的に思えるほど、彼女の相貌は痛々しいものだった。彼女との幸せな生活は帰ってくるのだろうか。チノに目を向けるだけで、僕の瞳に悲嘆の涙が込み上げてくる。

 するとチノは何を勘違いしたのか、はつらつとした笑顔を僕に向けて言った。

「でも大丈夫だよ、私はとっても幸せなの」

 その言葉は、彼女の表情とは裏腹に僕の心を深く抉った。僕はとんだマヌケ者だ。チノを救うつもりでここに来たのに、彼女は今の悲惨な生活が幸せだなんて。もう、絶望以外に何ができるだろうか。

 するとチノは何かに気付いたらしく、後ろから奇妙な物体を取り上げて僕に差し出した。

「ちょっと食べ物には見えないけど、これはとっても甘くて美味しいのよ。きっと元気が出るから、食べてみて」

 彼女の両手に乗せられていたのは、半ば腐りかけた女性の生首だった。皮膚は崩れ落ちて所々に白い骨が覗き、開けっ放しの口からダラリと舌が垂れている。

 恐怖に見開かれたその瞳で僕を見つめるその顔は、母さんだった。チノを迎えにここへ来たはずの母さんが、みじめな姿でそこにいた。

 チノは、これを食べろと言っているのだろうか。僕は思わず叫びそうになるのを抑え込んで、全力で首を横に振った。するとチノは、優しい笑顔で僕に語りかける。

「そんな遠慮しなくていいよ。ほら、こうやって食べるの」

 言うが早いか、チノは母さんの生首を口元に近づけて、その頬にかじり付いた。腐敗のせいで肉が柔らかくなっているのか、チノが口で軽く引っ張ると、母さんの頬はブチブチと不快な音を立てて千切れる。黒ずんだ血の飛沫が跳ねて、チノの顔に赤黒い斑点が咲いた。

 チノは美味しそうに口の中身を咀嚼しながら、僕のほうを見る。だけど、僕は彼女の狂態に呆然とするばかりだった。

 ――ああ、もうやめて、お願いだ。母さんを、チノを、これ以上貶めないで。

 すると彼女は口の中身を飲み込み、突然母さんの眼窩に指を突っ込んだ。僕が驚く間も無く、チノは母さんの視神経を引き千切りながら眼球を引っ張り出していく。そしてその碧眼を手の平に載せ、僕へと差し出した。狂おしく血に濡れた唇で笑顔を浮かべ、僕に問いかける。

「これなら食べられる? ここが一番美味しいんだよ」

 僕が先ほどと同じように首を振ると、チノは残念そうな顔をしながら手を引っ込める。そして彼女はその眼球に口づけをして、口唇の間に滑り込ませた。口の中でしばらく転がした後、果実が潰れるような音を上げて噛み砕く。

 その間、チノはまどろむような目つきで恍惚の表情を浮かべていた。彼女は、母さんの眼球を心の底から美味しく感じているのだろうか。その様子に、昔見たチノの面影は微塵も感じられなかった。もはや、気が触れているとしか思えない。

 情けないことだけど、僕はチノに恐怖していた。母さんの血に濡れたチノの手が、次は僕の眼窩に突き込まれるのではないかと、僕は何度も彼女の顔色を窺っている。だけど、そこにあるのは眼球の汁を味わう痴態だけで、そのうちに見ていることさえ恐ろしくなった。

 胸を凍て付かせるような恐怖に耐えかねて、僕は部屋の出口へ向かって駆け出す。そうしてすぐに部屋を出ようかとも思ったけど、幼少期を共に過ごした大好きな姉を放っといて逃げることには躊躇いがあった。

 扉の前で振り返ると、僕を追ってチノが歩いてくる。だけど、その背中に突き刺さる茨が彼女の行動範囲を制限していた。

 僕の目の前でチノは進めなくなり、彼女が足を進めようとする度に茨のトゲが背中の肉を傷付ける。チノは僕のほうに血塗れた手を伸ばしながら、口惜しげに僕の目を見た。

 僕らの間に沈黙が流れ、チノの背中と茨が引っ張り合うギシギシという音だけが響く。彼女の目は泣きそうな輝きで僕を求めていた。何のために、食べるために?

 彼女の姿は、もはやチノではなかった。いや、それどころか人間ですらない。それほどまでに無惨で痛々しい姿だった。この瞬間もチノは自身の狂気など露知らず、僕に手を伸ばし続けている。その姿を見ているのは、僕にとってあまりにも悲しく残酷なことだった。

「もうダメだ。僕はこれ以上、君を見ていられない……」

 そう呟いて、僕は護身用に持っていたナイフを取り出す。これで、チノを眠らせなくてはいけない。この堕落した生活から、彼女を救うのだ。

 チノに気付かれないようにナイフを腰に構え、僕は一気に走り出した。彼女の体に腕を回して体を密着させ、その胸に全力で刃を突き立てる。僕が予想していたよりも呆気無い音を残して、刀身は鍔元まで一直線にチノの体内へ収まった。

 そして、僕の荒い呼吸だけが静寂を纏う。悲鳴も上げず身じろぎさえしないチノを、僕は抱き締め続けた。血を分けた家族へ白刃を突き立てることの罪深さは、分かっていたつもりだ。だけどやはり、目の前でチノが死んでゆくことを思うと心が痛み、彼女から離れられなかった。息が詰まり、鼓動が激しくなる。

 ――全ては終わったんだ。気が狂ったチノを、僕が殺した。あまりにも空虚な結末だ。

 僕は胸が張り裂けるような思いで、チノの体からナイフを引き抜こうとした。

 だけど――抜けない。どんなに柄を引っ張っても、まるで刃を掴まれているように重たい手応えが返ってくる。白刃の突き立つ傷口を見ると、チノは一滴たりとも出血していない。

 やがて、チノはうつむいたまま体を震わせて笑い始めた。その狂笑に呼応するように、ナイフが開いた皮膚の裂け目から細い茨の蔓が這い出てくる。それは貪欲に蠢いて短剣の柄を絡め取り、僕の腕まで這い上がってきた。

 まさか、この茨が僕を捕らえようとしている! 壁に並んだ死体のように、このまま僕を彼女の糧にしようというのだろうか?

 僕は迫りくる恐怖に耐えきれず、思い切り叫んだ。目の前で笑い続けるチノが恐ろしくて、力の限りに彼女の腹を蹴飛ばす。鈍い打撃音と共にチノの軽い体は吹き飛び、それに伴ってナイフが抜けた。彼女の体に引っ張られて茨の束縛も解けたけど、腕に突き刺さっていたトゲが皮膚を引き裂いて激痛が走る。

 その瞬間に僕は我に帰り、自分がしたことに気付いた。恐怖に駆られていたとはいえ、自分の姉を蹴飛ばすなんて。吹き飛んだチノは、そのまま床に叩き付けられるように思えた。しかし次の瞬間、僕が予想もしなかったことが彼女の体に起こる。

 チノの背中を突き破って何本もの茨が伸び、床や壁に突き刺さって彼女の体を支えたのだ。そうして空中で静止したチノは、何事も無かったかのようにゆっくりと床へ舞い降りる。

 その瞬間、冷静を取り戻して僕は気付いた。チノの背中と壁を繋いでいた茨の縛鎖は、彼女の体に突き刺さっているのではない。彼女自身から生えていたのだ。もしかして、この屋敷にある薔薇は全てチノが……?

「逃がさなぁい……」

 俯いたままチノが言う。しかし、その口振りはさっきまでの純粋な少女のものではなく、ひどく歪んだ粘っこい口調だった。あたかも、その言葉自体が意思を持って僕を捕まえようとするかのように。

 そして、チノが顔を上げた。その表情はチノとは別人のもので、飢えた狼のように鋭い目つきが獰猛な笑みを浮かべていた。

 彼女の胸からは僕の血で濡れた蔓が垂れ、トカゲの尻尾のように激しくのたうっている。しかしある時、その動きは途端に大人しくなり、僕のほうへ緩慢に鎌首をもたげ始めた。

 チノの浮かべる狂気の笑みが、一層の鬼気を孕んだものへと変わる。

 本能的に危険を感じた僕は、とっさに横へ身を投げ出した。それと同時に、空を裂断する鋭い音を上げて一気に茨が伸ばされる。直前まで僕がいた空間を濃緑の鞭が貫き、轟音を立てて背後の壁を穿った。凶器と化した茨はすぐさま引き戻され、チノの体へ収まってゆく。

 貫かれた壁から舞い上がる砂煙を浴びながら、僕は震える足でなんとか立ち上がる。危ないところだった。回避が一瞬でも遅れれば、僕の腹には風穴が開いていただろう。

 その凶行がチノによるものだとは信じられず、引き裂かれた右腕の痛みさえ消えていた。

「やめてチノ! 一体、君の体に何が起こったの? 今の君は、まるで――」

 しかし彼女は僕の叫びを遮って、溜め息まじりに髪をかき上げながら答える。

「ごめんなさいね、私はチノだけどチノじゃないの。だって、さっきあなたと話していた彼女は今、私の中で眠っているんですもの」

 まるで抽象画をそのまま言葉にしたように曖昧な彼女の物言いに、僕は意味を飲み込めずに困惑した。

 チノだけど、チノじゃない? つまり今僕の前にいるのは、チノの体に宿った別人格ということだろうか。決して現実的な解釈ではないけれど、彼女の変わりようを見たら信じるしかなかった。

「チノがあんな風になったのは、君のせいなの? この屋敷の惨劇も?」

「まあ、そう言っても間違いじゃないかしら。この茨は私が操っているんですもの。茨姫、なんて呼んでもらえるとピッタリかもしれないわね」

 そう言いながら茨姫は狂気じみた薄笑いを浮かべ、視線を斜め上に飛ばす。少しも悪びれたところの無いその様子に、僕は明確な不信感を覚えた。

 彼女がチノの体を支配して、その体を操っているのだろうか。そして、チノをあんなに痛々しく醜悪な姿へ? この館の有り様も、チノの狂態も、みんな彼女のせいだというのだろうか?

 僕の胸の底で、黒く淀んだ感情が膨らんでいく。隙あらばと握っていたナイフを、僕は再び腰の高さに構え直した。

「よくも、チノを……!」

 僕の心からは、得体の知れない茨姫の恐ろしさも薄らいでいった。どの道、部屋の出口は僕と反対側にあるのだ。つまり、茨姫の横を抜けなければ逃げることもできない。それならば、チノを狂わせたことの報復に一矢を報いるのも悪くない試みだ。

 僕は生存本能と復讐心に駆られ、言葉にならない絶叫を上げながら走り出した。手汗をかくほどにナイフの柄を握り締め、疾走の速度を載せて茨姫の脳天へ打ち下ろす。

 しかし、やはりというべきか、その刃は彼女に効果を与えることはできなかった。頭上に掲げられた彼女の左手が、半ばまで切り裂かれながら刃を受け止めていたのだ。

 先ほどと同様に血は一滴も出ておらず、傷口からは緑色が覗いている。目の前で笑う茨姫の口元が、「懲りないのね」と小さく囁いた。

 そして次の瞬間、凄惨な音と共に彼女の胸を突き破って茨が伸びる。大きくしなった茨はトゲの鞭となり、唸りを上げて僕の腹部を激しく打ち据えた。逃げる間も無く衣服もろとも皮膚が引き裂かれ、茨姫と僕の間で血しぶきが弾ける。

 その激痛と衝撃で、僕はナイフを取り落として床に倒れ込んだ。徐々に熱を持ち始める腹腔の傷口を押さえ、僕は必死に床を這いずって唯一の武器へ手を伸ばす。

 しかし無情にも、僕の胴体に何かが絡み付いて進行を阻んだ。後ろを振り返って見れば、僕の体には茨が幾重にも巻き付いている。その反対側を目で辿ると、そこでは茨姫が僕を手招いていた。

 そして僕がかろうじてナイフを手に取るのと同時に、茨が思い切り僕を引き上げる。無数に食い込むトゲに痛みを感じたのも一瞬で、僕は宙吊りのまま茨姫の眼前に突き出された。

「酷いことをするのね。私はただ、あなたが欲しいだけなのに」

 そう言って、茨姫は僕の体に顔を近付けた。先ほど切り裂かれた腹部から溢れ出る鮮血を、彼女の舌が淫靡な動きで舐めとっていく。満足げに僕の肌から口を離した茨姫は、血の滴る口唇で言った。

「ほら、この子もきっと喜ぶわ。大好きなあなたが、そばにいてくれるなら」

 駄目だ、やはり逃げなくてはいけない。一矢を報いるどころか、このままじゃ僕が殺されるのも時間の問題だ。もはや僕は、自分が何者と喋っているのかさえ分からないほどに混乱していた。とにかく、この場を離れればどうにかなるはずだ。昨日までと同じように生きられるはずだ。

 ナイフを反転させて逆手に持ち替え、僕と茨姫を繋ぐ縛鎖に押し当てる。そしてそのまま全力で引き切ると、重い手応えを千切ってなんとか切断することができた。

 絡み付いた茨を無理矢理に引き剥がし、僕は痛みも忘れて走り出す。走って走って、無限のような数メートルの先に扉へ辿り着いた。

「ふふふ。そんなに慌てちゃって、ピエロみたい」

 一片の動揺も孕まない茨姫の嘲りに、僕はハッとして振り向いた。そこにあったのは、三日月のような微笑をたたえてベッドに腰掛ける茨姫の姿。そして、幾重にも束ねられた茨が槍の穂先となって、僕の左胸に向けられていた。

 なぶるように悠然と突き付けられる緑の切っ先に押され、後ずさる僕の背中が扉に付いた。茨の刃は僕を牽制しながら、皮一枚だけ刺し入って止まっている。

 僕は茨姫の一挙手一投足に注意を払いつつ、血だらけの右手を背中に隠してドアノブを握った。

 このまま瞬時に扉を開き、そこから逃げ出る。いや、無理だ、この茨が僕を貫くほうが圧倒的に速い。まず、彼女の気を逸らさないと勝機は無いだろう。

 僕は震える喉を落ち着かせて、おもむろに問いかけた。

「一体、君の目的は何? どうしてチノに取り憑くの?」

 僕の言葉から何らかの敵意を感じ取ったのか、茨姫は苦々しげに肩を竦めた。そして彼女は魅惑的な動きで足を組み、諭すように言葉を返す。

「勘違いしているようだけど、私は別に、この子に取り憑いたバケモノってわけじゃないわ。むしろ、この子が私を生み出したのよ」

 今にも扉を開こうとしていた僕の手は、その言葉を聞いて自ずと止まってしまった。チノが茨姫を生み出したとは、予想もしなかった。だとすれば、一体何のために? 茨姫の気を逸らすことよりも、僕は純粋にその答えを知りたくなっていった。

「それって、どういうことなの?」

「そうね、あなたになら、この子と私の関係を全て話してもいいかしら。この子の大切な弟だもの」

 僕に向けられていた茨は引き戻され、茨姫の表情からも殺気が消えていく。僕がチノの弟であることを彼女が知っていたのは不思議だけど、その理由もこれから話されるのだろう。

 今なら逃げることだって可能かもしれない。だけど、僕は彼女の話を聞いてみたかった。流血が這う右手や腹の痛みさえ苦にならないほど、全ての真相を知りたかった。

 天井に煌めく薔薇の灯し火は風も無しに揺らめき始め、茨姫の顔に陰影がたゆたう。そして、彼女は遠い目をしながら話し始めた。

「この屋敷に来てから、この子は一度も笑わなかったわ。家族と引き離されて、ここで酷い扱いを受けて、淋しかったのよ。あなたなら、この子がどれだけ苦しんだか分かるでしょう?」

 彼女の言葉に僕は黙って頷く。それは、僕がずっと目を逸らし続けてきたことだ。

 チノは明るい性格だったけど、痛ましいほどに淋しがり屋な一面を時折見せることがあった。彼女がこの屋敷へ売られた日もそうだ。なんとかなだめようとする母さんの言葉も聞かず、彼女は僕以上に泣き続けていた。

「そしてある日、この子は孤独に耐えられなくなってしまったの。心に痛みを呼び起こすもの全て――たとえば記憶や悲しみを自分から切り離して、もう一人の自分を作り出した。それが、この私なのよ」

「だから、君は僕のことを知っていた……」

「そういうことね。残念だけど、あなたとの思い出は、この子にとって痛みを呼び起こすものでしかなかったのよ」

 淡々と語られたその言葉は、僕の胸を締め付けるように痛みを与えた。

 僕の存在が、チノを苦しめていたなんて。いや、当然だ、家族と引き離されたら彼女は人一倍悲しむに決まっている。それなのに、僕はそのことに気付かず――いや、気付かないフリをしていたのだ。チノの性格ぐらい、分かっていたはずなのに。

 忸怩たる涙で頬を濡らした僕に構わず、茨姫はさらに言葉を重ねていく。

「そして私が生み出された丁度その時、この部屋に一人の男の子が入ってきたの。彼は屋敷の一人息子で、ここは彼の部屋、この子は部屋の掃除をしていた。その時ね、私は直感的に気付いてしまったのよ。自分が何をすべきなのか、この子が何を求めているのか」

 彼女がすべきこと、チノが彼女に求めていたこと。そう言われて想像できるのは一つしか無い。僕は自然と口に出していた。

「それが、人を殺すこと?」

「そうよ。この子の記憶が無くなっても、心の奥底から人恋しさが消えることは無かった。その潜在意識が、私を駆り立てたのでしょうね。気が付いた時には、私の体から生え出た茨が男の子を貫いていたわ」

 そして茨姫は空虚な笑みに口元を歪め、体から伸びる茨の蛇をくねらせた。

「この子の心は茨を通して、私に語りかけるわ。『もっと友達が欲しい』って。この茨は、この子の淋しさそのもの、この子を縛る鎖、そして全てを貪る触手。私はただ、その思念に従っているだけよ」

 その時、茨姫の表情には諦念のような哀愁が見えた。薄っぺらな笑顔の合間から、疲れ切った痛切な視線が僕に何かを求め促す。

「分かったでしょう? この子は既に、こんな形でしか人を求められないのよ。私にだって、どうにもできないの。だから、この子を恨まないであげて」

 彼女が最後に言った一言に、僕は「もちろん」と答えた。その声は涙交じりになっていて、僕は自分が泣いていることに初めて気付いた。

 まさか、チノを恨めるはずが無い。家族と引き離されて、孤独に飲み込まれて、記憶を失っても人を求め続けているチノを。彼女のどこに非があるだろうか。罪深いのは僕自身じゃないか。

 淋しさのあまり気を狂わせたチノ。それなのに僕はたった一晩の涙だけで、彼女を心配しているつもりでいた。

 全て間違いだったのだ。あの日――チノを見送った日からずっと、僕らは間違った人生を歩き続けてきた。僕たち姉弟は、離れるべきではなかったのだ。片割れの心を持って生まれた、双子なのだから。

 僕は欺瞞に満ちた今までを振り返り、ある決心をした。迷うこと無く背後の扉に向き直り、そのドアノブに手をかける。

「逃げるつもり?」

 茨姫の訝しげな声が投げかけられ、背後で茨が蠢く微かな音がする。しかし、僕はこの扉を開けるつもりなんて毛頭無い。僕は逆に扉の鍵を閉めて部屋を封鎖し、茨姫へ向き直って微笑みかけた。

「あの日、チノと約束したんだ。『僕らは、ずっと一緒だよ』って」

 茨姫は僕の行動が解せないというように僕を見つめながら、首を傾げて答える。

「ええ、私も覚えているわ。だけど、その約束は守られなかったでしょう?」

「うん、だからね。今度こそ約束を果たそうと思ってさ」

 そして、僕は血だらけの右手で涙を拭った。鉄臭い空気が鼻腔に刺さるけど、今さら気にすることでも無い。

 少し考えて茨姫も理解したようで、彼女らしく楽しげに口を歪ませた。しかし、残忍な笑みに彩られた表情の中で、その瞳だけが悲しげに見えたのは気のせいではないかもしれない。

「あなたと話せて良かったわ。さっきまで私は、何も知らせずにあなたを殺すつもりだったの。でも本当は私自身、このシナリオを初めから望んでいたのかもしれないわね。あなたが自分から、過ちを償ってくれることを」

 そう言った茨姫の双眸は、少し潤んでいるように見える。僕はてっきり、茨姫は加虐を楽しんでいるものだと思っていたけれど、この様子を見るとどうやら違うらしい。すると彼女は僕の内心を見透かしたように、少し感情的になって語り始めた。

「私に与えられた宿命は殺人だから、正気を保つことなんてとてもできなかった。嗜虐に気を狂わせるしかなかったのよ。でも、心のどこかに躊躇いがあったのも事実なの。特に、子供の頃からよく知っているあなたに関しては」

「僕を殺したくなかった?」

「それもそうだけど、何よりあなたに知ってほしかったのよ。この子と私に起こったこと全てを。だって、この子の気持ちをあなたに理解してほしかったから。それが、変わり果ててしまったこの子の魂への弔いになると思ったから」

 彼女の口からそんな言葉が出るとは意外だった。だけど、よく考えたら不思議なことではない。楽しい日々も、淋しい日々も、堕落した日々も、チノの全てを彼女は知っているのだから。きっと、茨姫はチノの悲しみを誰よりも理解しているのだろう。

 僕の中で、茨姫に対する見方は変わっていた。彼女は本当に、チノのためだけを思って行動しているのだろう。彼女の存在は、チノの守り神のようにさえ思えた。

 だけど、もうお別れを言わなくてはいけない。茨姫とは今日会ったばかりで、さっきまで殺そうとさえしていたのに、いつの間にか僕はこの別れを惜しんでいた。

「最後にさ、仲直り、してくれるかな? 今まで君にしたことを謝りたいんだ」

「そうね、それがいいわ。ケンカしたままじゃ後味が悪いもの」

 そうして僕は、茨姫の手を握ろうとした。だけどお互いに片手を怪我しているから、彼女は右手を、僕は左手を差し出す。そして僕らは指先を上にして、鏡写しのような形で手を握り合った。

「さっきはゴメンね、僕は本当に、君を傷付けてばかりで」

「いいわよ、許してあげる。だから、あなたのお姉さんにも同じことを言ってあげて」

 そうしていると僕の目から、一度は止まった涙が再び溢れ出し、乾いていた頬の血糊を湿らせた。次を最後の言葉にしようと決めた僕は、握っていた手をほどいて茨姫に語りかける。

「色々と話させちゃってゴメン、なんか、やりづらくなっちゃったね。じゃあ、さよなら茨姫。それと、ありがとう」

 そう言った後、僕は壁に背を預けて両手を広げた。そんな僕を見て、茨姫も痛切な笑みを浮かべて答える。

「ええ、さようなら。私の可愛い義弟(おとうと)

 全ての音が一瞬だけ消える。そして次の瞬間、僕の背後にある壁を突き破って無数の茨が躍り出た。僕の目に映ったのは、風にたなびく煙のような茨の群れで、その全てが僕に踊りかかる。

 茨の腕が僕を締め付け、四肢も腹も首も臓腑も、僕の全てを壁に縫い止めた。首に回された茨は僕の喉笛を締め上げ、脛骨が砕けて呼吸が止まって、壊れた笛の音だけが喉から出ていく。

 そうして茨姫が右手を僕に向けて掲げ、真一文字に虚空を切った。一瞬の後、その動きに呼応して、鋸を挽くような擦過音と共に茨が僕の喉を引き裂いた。目の前を真紅の紗幕が覆い、壊れた笛の音を僕の喉が鳴らす。

 それっきり痛みは消えてしまった。そして僕の視界は床の血だまりに落ち、見上げているのは首を載せずに佇む自分の体。

 すると、荒々しく息を切らした茨姫と目が合った。なんだか安心した。だんだんと意識が、薄れていく……。

 

 僕が目を覚ました時、床から部屋を見渡したらチノがいた。茨姫じゃない、確かにチノだ。僕が切り付けた傷跡も、草蛇のような茨も全部消えて、ワンピースの返り血だけが増えている。

 そしてチノはこっちへ歩いてきて、無造作に転がる僕をそっと持ち上げた。そして彼女はベッドに腰掛け、僕を膝に乗せる。嬉しそうに微笑んで、チノはその指を僕の眼窩に突き込んだ。少しの間だけ不快な音がした後、僕は彼女の手の平に乗せられていた。

 瑠璃の光を宿したチノの瞳が僕を見つめる。昔のチノと同じ、美味しいものを見つけた時の輝く眼差しだ。

 ああ、チノは昔と何も変わらない。昔と何も変わらない暮らしを求めて、今日までを生きてきたのだろうか。だけど昔≠忘れてしまったから、自分が何を探しているのかもチノにはもう分からない。

 ――ごめんね、僕が一緒にいれば、こんなことにはならなかったのに。

 数瞬の後、まるで口付けをするようにチノの顔が僕へ近付く。どこか遠くで母さんの声が聞こえて、チノの唇が僕を覆って、僕の周りは真っ暗になった。

 ――もういいんだよ、チノ。君が求めていたものは、もう手に入ったんだ。だから、そろそろ休もうよ。あの頃のように、僕ら二人、幸せな夢を一緒に見よう。おやすみ、チノ。


   『後書きってどんな味?』

 

 はい、こちら鬼童丸です、ピザのご注文でよろしいでしょうか? あ、後書きのご注文でしたか、失礼しました。では、これより後書きを始めさせていただきます。ちなみに、鬼童丸の後書きにはネタバレ成分が含まれておりますので、ご了承ください。

 

 今回は、この話を書き始めたきっかけでも話しましょうか。

 実を言いますと、「女の子に逆ギレで殺される」というシチュエーションを書きたかったのが純粋な動機です。この段階で、精神的に危ない女の子であることは決定ですね。

 それで逆ギレの理由ですが、やっぱり刃傷沙汰が書きたい。とすると、刺されても死なない女の子が必要です。それでどうするか考えていると、私が中学生の頃に書いた「血を吸って咲く薔薇」の詩を思い出しました。それで「植物に支配された女の子って、なんかイイなあ」と思って、半植物だから刺されても平気&茨の蔓で反撃できる女の子が生まれました。

 それなら、女の子が刺された理由も「半植物の化物だから」ということで決まります。また、彼女の異常性と純粋性を高めるために、幻覚と食人の設定を加えました。

 その段階で話の核は決まって、後は細かい設定を作りました。二人が生き別れの姉弟だったり、人身売買の話だったり、女の子の生活環境だったり。その結果として、幻覚を見続ける姉と絶望する弟のやり取りを各々の視点で描くという形式が決まりました。

 ちなみに、この段階での仮題は『血の誘惑』で、結局は別の題名を付けたのですが、この仮題からチノ様とユウの名前が決まりました。

 それと完全に予想外だったのは、茨姫の人格がかなり確立されたことです。彼女は当初チノ様の淋しさが具現化しただけの存在で、名前すらありませんでした。しかし事件の真相の語り役として彼女の人間性が必要になったので、性格や心情をじっくりと練ったら、思いのほか重要人物になってしまったというわけです。実際、ユウ視点では準主人公ぐらいの立場になっています。ちなみに、茨姫という名前はプロット内で便宜上使っていたもので、それがそのまま名前になってしまいました。

 

 まあ、こんなところですかね。制作の経緯を長々と書いてきましたが、「小説を書き始める時ってどんな感じ?」といった質問を時々受けるので、それに対する答えとして。結構毎回違うきっかけで書いているんですけど、今回はこんな感じということで。

 

 それと、この小説にはちょっとした仕掛けが組み込まれています。冒頭のプロローグが鍵になっているのですが、こういった秘密を自分で語るのは嫌いなので、ここには書きません。この冊子が配布されるぐらいのタイミングで、文芸のブログかホームページにでも書こうと思います。

 

 そういえば、前回に続いて腐臭が漂う物語になってしまいましたね。まあ、私はこんな雰囲気が結構好きですけど。狂ってる感じがいいんですよねぇ。もう、茨姫に素足で踏まれたい気分です。血だらけにされたいです。私は幸せ者です。

 

 次回予告をしておきますと、今回に続いてメルヘンで攻める予定です。異議がありますか? 受け付けませんよ。まあ、今回よりはマシなメルヘンということで。