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 朝冷えと静けさが立ち込める路地裏は、いまだ明けきらぬ昨夜の闇に包まれていた。道脇に立ち並ぶ古ぼけた家屋は、昏々とした眠りのままに沈黙を守っている。

 そんな静寂を微かに裂いて、短い律動を刻みながら小さな足音が響く。静まり返った無人の街路で、薄汚れた服を身に着けた少年が、麻袋を小脇に抱えながら走っていた。

 ひび割れてコケの生した石畳を少年の簡素な靴が叩く度に、乾いた短い黒髪が弱々しく揺れる。その背丈からして、年は十歳ほどだろうか。どちらかといえば頼りない顔立ちではあるが、透徹した黒瞳からは強い意志の光が感じられる。

 少年は脇目も振らずに、迷うことなく一つの道筋を辿ってゆく。刻限でいえば今は、東の地平線に暁光が滲む頃だろう。しかし、この町に朝日が差し込むことは無い。町をぐるりと囲む堅固な城壁が、地平線の全てを隠しているからだ。

 それに加えて、この細道には街灯の一つも立っていないため、足元から壁肌に至るまでの全てが夜の領分だった。闇に阻まれた少年の視野は足元が薄く見える程度で、石畳の崩れ目に何度もつま先を食われる。

 それでも走り続けて迷路のような道を抜けると、途端に視界が開けて広場にたどり着いた。しかし広場といっても、噴水や銅像などのオブジェが置かれているわけではない。レンガが丸く敷かれただけの、浩々とした駄々広い空間だ。

 その中心には十数人の人々が集まり、整然と一列に並んでいた。その姿は闇の中にぼんやりと浮かび上がり、誰もが少年と同じように麻袋を持っている。そして少年自身もそこへ駆け寄って行き、やはり同じように列の最後尾へ並んだ。

 その列は少しずつ前へ進んでいた。列の先頭で用事を済ませた人は、何かが一杯に詰められた重たい袋を背負って広場を出てゆく。

 先頭では灯りを焚いているようで、少年が前へ進むたびに足元の石畳からは闇が薄まり、橙色の揺らめく光が強まっていった。その間にも、後から来た人々が少年の後ろに列を作ってゆく。

 順番を待って並んでいる間、少年は額にうっすらと滲む汗を拭って呼吸を整えていた。走って来たために火照った顔が赤らんでいるが、淀んだ冷気が立ち込めるこの場所では丁度よく感じることだろう。

 やがて、少年は列の最前になった。そこでは、二人の男が行列を捌いていた。。一人は白髪の混じった壮年の男性で、その隣には大きな木箱が置かれている。もう一人は灰色の髪を後ろで縛った青年で、カンテラを提げて辺りを照らしていた。二人とも、だいぶ着込まれた白衣を身に着けている。その格好は、古めかしいこの町並みにあってはいささか異質な風貌だ。

 少年が麻袋を手渡すと、壮年の男性はその袋に木箱の中身を移し変え始めた。その中にあるのは、野菜、ジャーキー、乾パンなどで、どうやら食糧の受け渡しをしているらしい。

 ガラスの中でのたうつ炎に照らされて、三人の顔が薄闇の帳に浮かび上がる。少年は、食べ物が次々と麻袋へ放り込まれるのを見つめながら、赤い頬でほくほくとした笑みを浮かべている。壮年の男は、厳めしい無表情で淡々と仕事を続けている。灰髪の青年は、時々少年の方に視線を向ける意外は関心も示さずに、自分の髪の毛をいじっている。

 そんな若者の姿を瞳に映した少年は微かに不思議そうな表情をしたものの、それ以上の変化は無く再び食糧へ目を向けた。

 そうして流れるように静かな時間が過ぎ、袋は種々の食糧で満たされた。重たくなったその袋を少年がなんとか肩に担ぎ、二人の男へ小さく礼をして列から外れる。よろめきながら何歩か足を進めて振り返ると、既に次の人が少年と同じように食糧を待っていた。

 すると少年はカンテラの青年と不意に目が合ってしまい、はにかみながら向き直って再び歩き始める。そうして、おぼつかない足取りの少年はさっき入ってきたのと同じ道へ向かい、建物の陰へ消えていった。

 

       *  *  *

 

 うっすらと明るみ始めた町並みに、少年の荒い吐息とまばらな足音が響く。体に見合わない重さの荷を持って歩き続けてきたために、溜まった疲労が少年の全身を苛んでいた。その足取りは重く、一歩一歩を踏みしめるように苦しげで、しかしそれでも瞳だけは行く先を強く見据えている。

 この重たい食糧を家へと運ぶこと以外、少年の頭は考えていない。その仕事は、少年にとって欠かすことのできない責務だった。

 この町の住人は、管理者と呼ばれる白衣の集団から食糧の配給を受けることで生活している。週に一度の配給以外、住人たちが食糧を手に入れる手段は無い。そのため、生活を維持するためには配給へ足を運ぶことが絶対だった。

 もちろん、少年の家も同様の暮らし方をしている。しかし、少年にとって唯一の肉親である母親は体が弱く、重労働などできない容体だ。そのため、食糧を受け取りに行くことは、幼い頃から少年が自発的に引き受けてきた。

 しかし、毎週のこととはいえ決して楽な仕事ではない。いつだって苦痛をこらえながら、休み休みに運ぶことでかろうじてこなしてきた。夜が明けきらぬ早朝に家を出るのも、家までの往復で人一倍に時間がかかるためだ。

 そして今、少年の体は限界に達しつつあった。玉の汗が顎から滴り、肩には袋の重さが食い込んでいる。骨の内側から響くような痛みが足腰を責め立て、立っていることさえも苦しかった。

――そろそろ休もうか。

 しかしそう思うと同時に、少年は石畳の凹凸につまずいて転んでしまった。地面に落ちて緩んだ袋の口から、にんじんやじゃがいもが転がり出てゆく。慌てた少年は倒れたまま這いつくばって、四方に逃げる野菜をかき集め始めた。

 少年は目に付く限りの野菜を袋に戻して、拾い残しは無いかと立ち上がった。見れば、少し離れた曲がり角にじゃがいもが転がっている。

 しかし少年が歩み寄るより早く、建物の陰から伸びた細い手がそれを拾い上げる。

 粗末なジャンパースカートにボレロを羽織った少女が、驚く少年の前に現れた。少年と同じぐらいの年頃で、春雪のように白い髪を肩まで伸ばしている。細い肢体も髪に溶け込むほど白く、鮮紅色の瞳だけが際立った華やかさだ。

 少女は特に表情を変えず、少年のほうを見つめて口を開いた。

「おはようございます、サック」

 その声は妙に抑揚の無い口調だったが、サックと呼ばれた少年は聞き慣れているのか気にせずに微笑み返す。

「おはよう、リフィ。今日は早いんだね。起こさないように家を出たつもりなんだけど」

 サックは少し恥ずかしそうに服のほこりを払いながら、白皙の少女――リフィからじゃがいもを受け取って袋に入れた。

「あなたを手伝おうと思って早く起きたんです。だけどあなたが出かけた後だったので追いかけてきました」

 眉一つ動かさずにそう言って、リフィはサックの隣の壁に寄りかかった。同様にしてサックも休憩しながら、困ったような顔をする。

「なんだ、気を使わなくてもいいのに。リフィは女の子なんだから」

 そう言いながらも、サックは嬉しく思っていた。この華奢な痩身の少女が、自分に力を貸そうとする意地らしさに。

 彼にとって、リフィは妹のような存在だ。彼女は幼い頃に家族を失って以来、サックの家で共に暮らしている。そのため、二人は互いのことを本当の家族のように思っていた。だからこそ、重労働をさせたくないという気遣いも、相手の成長を喜ぶ気持ちも、矛盾することなく併せ持っている。

「私も多少の力仕事はできるようになりましたから、手伝わせてください」

「じゃあ、二人で交替しながら運んでいこうか」

 言われるより早く食糧を背負っていたリフィに、歩幅を合わせながらサックが隣に並んで歩き出した。

 やっと城壁の一辺から顔を出した朝日が、少年と少女の背中に淡い斜光を投げかける。そうして生まれた二つの影は細道に長く伸び、ふらふらと揺れる一つを時々もう片方が支えながら、明るさを増す町並みを進んでいった。

 

 二人がたどり着いたのは、壁面の所々にヒビが入った建物の前だった。壁に四角く穴を開けて窓にした、単純極まりない家だ。もっとも彼らが住んでいるこの家に限らず、この町にある民家は全てがその程度の水準だった。

「そろそろ、お母さんも起きている頃ですね」

 後ろで待つサックに言いながら、木製のささくれ立った扉にリフィが手をかけた。うるさい軋り声を上げながら開く木戸に、食糧を背負ったサックが入り、その後にリフィも続く。

 家の中は外観同様に飾り気が無く、むき出しの石壁が狭い玄関を囲っていた。

「はあ、やっと着いた。疲れたね」

 サックは安堵の溜め息をつきながら、肩の重荷を床に下ろす。

 すると、奥の部屋から一人の女性が歩み出てきた。枯れ枝のように弱々しい体に簡素な胴着と前掛けを纏った老婆だ。彼女はその落ち窪んだ目でサックとリフィの姿を見て、おもむろに語りかける。

「おかえりなさい。今日はリフィも一緒に行ってきたのね」

 その嗄れ声が発せられた喉は、木組みに紙を張ったような細さだった。そんな老年の容貌からは信じがたいが、この女性がサックの母親だ。

 彼女は、くたびれた様子の二人に母親特有の優しい眼差しを向けながら、しわ深い顔に穏やかな笑みを浮かべた。

「二人とも、疲れているでしょう? ちょうど朝ごはんができたところだから、お上がり」

 サックは疲れた顔に明るさを取り戻して、「ありがとう」と母親に言った。そしてリフィの手を取り、母親の緩慢な歩みに続いて奥の部屋へと入っていった。

 

 その日の朝食はいつもと同じで、乾パンと薄味のスープだった。配給の食糧に大したものは入っていないため、スープの具材も多少の野菜と干し肉程度になる。新鮮な食材は何も無いが、疲れたサックには干し肉の塩気がとても美味しく感じた。

 サックは乾パンを噛み砕きながら、隣で静かに食事をするリフィをちらりと見た。彼女はいつも表情を変えないため、サックでさえ内心が読みづらい。しかし、疲れているであろうことは考えなくても分かった。ましてやリフィは昔から不眠症で、昨夜もあまり眠っていないのだろう。

 サックは口の中身をスープで飲み込み、リフィに話しかけた。

「ねえ、大丈夫なの? 疲れてるんじゃない?」

 するとリフィは一旦顔を上げ、真紅の眼差しでサックを見つめながら答える。

「私だって働けるんですから、あなただけに任せるわけにはいきません。次からは私も起こしてください」

 サックが返事をしないのを見て、リフィは食事を再開した。思わず苦笑いを浮かべたサックに、母親が語りかける。

「リフィだって、人の役に立ちたいって思っているのよ。自然なことなの。この町の人間は、みんなそうやって大人になっていくんだから」

 そして、その後に歯がゆそうな顔で「本当は私が行ければいいんだけどね」と続けた。しかし彼女の弱った体ではそれが到底できないと、サックには分かっている。リフィも理解しているから、自分なりに頑張ろうとしているのだろう。

 サックは「心配いらないよ」と、複雑な心境を一言に込めて言った。母親は微笑みで答えたが、それでもその表情には少し翳りが差しているように見えた。

 そして、三人は再び食事を進めてゆく。

 

 朝食が済むと、リフィは食器を片付けて玄関へ向かった。そして扉を開きながら、食卓のサックと母親に向き直って口を開く。

「少し出かけてきます。お昼には帰ります」

「出かけるって、いつもの場所?」

 サックの問いに頷いて、彼女はふらりと外へ出ていった。リフィにはお気に入りの場所がある。彼女が外に行く時は、大抵そこにいるのだ。

 サックは閉じた木戸をしばらく見つめて、隣に座る母親に話しかけた。

「なんだか、リフィに無理させてるようで悪い気もするんだけど、ああやって働くのが正しい生き方なんだよね?」

 少し後ろめたい心持ちのサックに、諭すように母親が答える。

「そうよ。人は誰かのために生きるのが一番幸福なの。私も、人の役に立つためにこんな体になったけど、後悔はしてないのよ」

 そう言いながら、母親は痩せ細った自分の手とサックの顔を交互に見ながら唇を噛み締めた。

 彼女がこんなにも年老いた姿をしているのには、通常では考えられない理由がある。それを説明するためには、まずこの町の実体を話さなくてはならないだろう。

 この町の一番西側には、城壁の一部が白く大きな建物になっている。その中では、管理者たちが日夜様々な研究に明け暮れていた。そこで行われているのは、医療技術開発のための人体実験だ。そして、その実験台はこの町の住人たちだった。

 この町は、実際には町ですらなく広大な実験施設なのだ。サックたちのような住民は、実験体となるために生かされているだけに過ぎない。

 サックの母親は、研究段階の抗がん剤を投薬され続けてきた。その副作用として細胞に異常が現れ、肉体の全てが異様な速さで老化しているのだ。見た目からは想像もつかないが、彼女の実年齢は三十代半ばだった。

 もちろん、サックもそのことを知っている。しかし彼はそのことを、悲しいことだとは思わない。彼だけではなく、この町の住人全てが同じように考えていた。

 誰かの役に立つために自らの命を使えることが、最大の幸福である。それが、この町に唯一の法とも言える幸福の教え≠セ。だからこそ、住人たちは実験で死ぬことを恐れない。そして、サックにこの教えを説いたのは他でもない彼の母親だった。

「だからね。リフィも幸福になるためには苦しい思いをしなくてはいけないの。誰かのために自分を捧げるのが、人間の正しい生き方なんだから」

「……うん、そうだよね。分かった、ありがとう母さん」

 不安に揺らいでいたサックの心は、母親の言葉で再び固まった。たとえ女の子のリフィであっても、幸福の教えに従うべきなのだと。

 サックは立ち上がり、「散歩に行ってくる」と言い残して家を出た。なんとなくモヤモヤとしたよく分からない心持ちで、とりあえず外を歩きたい気分だ。まず彼は、リフィがいるであろういつもの場所に向かった。

 そこはサックの家から一本向こうの通りにあり、歩いて一分もかからない近さだ。そこには、路地の脇に積み重なったガレキが山のようになっている。その一番上で、リフィが一心に空を見つめながら座っていた。微動だにしないその様子は、さながら哲学者のようだ。彼女は、サックの知る限りいつもそんな様子だった。それには彼女が受けた実験が関係している。

 リフィは出生直後から、天才を作るための薬を投与されてきた。脳に直接働きかけて、その機能を飛躍的に高めるものだという。

 しかし、彼女の成長に合わせて何度も繰り返されてきた知能テストは全て最低水準の成績だった。それどころか、いつもぼんやりと空を見上げているばかりで白痴のような子供になってしまったのだ。

 しかし、サックにとってはそれもリフィの個性のようなもので、特に気にしてはいない。彼はガレキの山を登ってゆき、リフィの隣に並んで座った。

「空が青いです」

 サックへ話しかけたのか、リフィは身じろぎせずに言った。それに誘われるように空を見上げた時、サックの瞳に映ったのは高く晴れやかな蒼穹。それは周囲の城壁に丸く切り取られ、額縁に収まった絵画のように見えた。リフィの言葉の力なのか、その空は今までに見たことも無いほど美しく見える。

「本当は、私たちが見ているのは空の一部なんでしょう。あの高い壁の向こうには、どんな空が広がっているのか――」

 そして、リフィは隣に座るサックに緋の眼差しを向けた。相手の目をジッと見据えるその表情はいつもと同じだが、深遠な思考がどことなく顔に表れていた。

「サック、あなたは、この町を出たいと思ったことがありますか?」

 突拍子も無いその質問の意味が、サックには理解できなかった。町を出るなど今まで考えたこともなく、そうする必要も思い当たらない。それどころか、町の外という概念すら考えたことが無かった。

「どうして、町から出る必要があるの? ここで暮らして誰かの役に立つのが幸福なんだって、母さんも言ってるじゃないか」

「――そうですね。いえ、少し気になったから聞いただけです」

 そして再び空を見上げて、リフィは言葉を重ねた。

「ここに座っていると、色々なことを考えるんです。どうして人は生きているのか、というような、たくさんのことを」

 リフィにとって、ここは特別な場所だった。サックは彼女自身から聞いたことがあるため、その理由をよく知っている。

 今では単なる残骸にしか見えないこの場所も、数年前までは周りと同じ家が建っていた。そして、幼いリフィはそこで両親や兄弟と暮らしていたという。

 しかし、老朽化した家屋はある日突然に崩れてしまった。そして一家全員がガレキの下敷きとなり、偶然に外で遊んでいたリフィ一人が残されたのだ。その場所は今も、彼らを飲み込んだまま放置されている。

「どうして、私だけが生き残ってしまったのでしょうか。時折、自分が何のために生きているのか分からなくなってしまいます」

 リフィは足元から石壁の破片を一つ取り上げ、手のひらに乗せて見つめた。サックにはその姿が、風景に輪郭が溶け込んで消えてしまいそうなほど希薄に感じる。リフィが破片を手放すと、それはカラカラと軽い音を立てて路上へ転がり出ていった。彼女はその動きを目で追いながら、いつもより少しだけ抑揚のある声で話を続ける。

「あの日サックたちに会わなかったら、私はそのまま家族の後を追って自ら命を絶っていたかもしれません。生きていても仕方が無いと思っていましたから。だけど、今の私には生きる意味があるように思います」

 リフィはそれ以上何も言わず、目の前の町並みを眺め続けていた。サックも敢えて質問はせず、「そう」と小さく囁いてそれっきりだ。二人の間に緩やかな停滞が生まれ、春風が揺らすリフィの髪だけが時の流れを証明していた。

 

       *  *  *

 

 その日の昼過ぎ、サックは一人で町並みを散策していた。昼食後の運動も兼ねているのだが、どちらかといえば単に時間を潰しているに近い。この町では暇つぶしすら乏しいので、散歩ぐらいしかすることが無いのだ。

 そうして、サックは少し大きな交差点に差し掛かる。どちらに行こうかと一瞬考えたその時、隣の路地から突然誰かの叫び声が聞こえた。

「いやだ! 俺は行きたくない!」

 サックは何事かと驚いて駆け出し、建物の陰から様子を窺った。

 まず、手前側でこちらに背を向けている二人は白衣の管理者。今日の朝に会った、壮年の男と灰髪の若者だ。

 その二人と少し離れて対峙しているのは、サックよりいくつか年上ぐらいの少年だった。その手が持っているのは、少し錆び付いた包丁だ。震える手で柄を固く握り、管理者たちに向けている。その顔は恐怖に歪み、涙で瞳を潤ませながら歯を食い縛っていた。

 ただならぬ雰囲気に、サックが息を飲む。

「俺は、こんなとこに生まれたくなかった! 自分の好きに生きて、自分の好きに死にたかったんだ!」

 そう叫び捨てて包丁を振り上げ、少年は管理者たちに向かって走り込んでくる。しかし壮年の男は怯まず、懐から何かを取り出した。それは銀色の拳銃であったが、当然そんなものをサックは――おそらく少年も――知るよしも無い。

 安全装置が外れる機械的な音が鳴り、銃口が少年に向けられる。そして少年が飛びかかろうとした瞬間、轟いた銃声が空気を震わせた。その音を少年が聞く間も無く、その身を弾丸が貫く。足を撃たれた少年は短い悲鳴を上げてうずくまり、空を舞った包丁が石畳を空しく打ち鳴らした。硝煙の微かな臭いが、辺りに立ち込める。

 サックはその様を、何が何だか分からないまま見つめていた。どうして少年があんな暴挙を働いたのか、全く分からない。それに、壮年の管理者が使った機械も理解の範疇を超えている。

 少年を撃った男は軽く様子を見て、隣に佇む青年に言い捨てた。

「予定が狂ったな……。お前が止血と麻酔をしてあいつを運んでこい。私は先に戻って段取りの調整をしておく」

 そうして、男は少年の横を平然と通り過ぎてゆく。

 後に残された青年は少し急ぎ気味に、ぐったりとした少年の元へ駆け寄った。撃たれた場所を確認して、白衣のポケットから取り出した道具で手早く処置を始める。そして青年は、激痛に悶える少年へ独白のように語りかけた。

「ごめんな。今助けてやるから、大人しくしててくれ」

 その時サックは、先ほどの男とは全く異なった雰囲気をこの青年の態度から感じた。実験体であるよりも、同じ人間として少年を扱っているように思えたのだ。

 この青年のことは、以前から何度も見かけたことがある。時々、見回りだか散歩だかで町の中を歩いているのだ。サックの知る限り、そんなことをしているのは管理者の中で彼だけだった。

 他の管理者とはどこか違っている。そう思い、サックはこの青年に興味が湧いてきた。建物の陰から歩み出て、少しためらいながらも青年の元へ近づいてゆく。しかしなんと声をかけていいか分からず、一言だけ挨拶をした。

「こんにちは」

 突然かけられたサックの言葉に青年は一瞬驚いて振り向いたが、すぐさま作業に戻って片手間に返事をした。

「ああ、こんにちは。この子が気になるのか?」

 サックが「はい」と答えると、青年ははっきりと断言した。

「大丈夫だ、命に関わるような傷じゃない。だが、言いづらいけど、この子はどうせ生きられないだろうな」

 青年の横顔が自嘲のような笑みに変わり、声を落として話を続ける。

「ひどいもんだぞ。これからこの子の実験は方向を変えて、外傷の薬の実験台にされる。そして、最後は化学兵器の解毒剤を作るための研究に使われるんだろう」

 化学兵器の話は、サックも聞いたことがあった。たやすく人を殺してしまう恐ろしい毒ガスに、対抗する解毒剤を開発するための実験をしていると。

 しかし、実験の状況はかなり難航しているらしい。その実験に使われた人間は誰一人帰って来ないのだ。今までに何人もの住人が、その実験の犠牲になっているらしい。

「この子も、こんな町に生まれなければな。もっと自由に、自分の人生を生きられただろうに」

「自分の人生?」

 思わず聞き返したサックに、青年は意外そうな顔をする。

「考えたことないのか? 自分の好きなように生きてみたいとか」

 しかし、サックは悩んだ末に「分からない」と答えた。幸福の教えを守って生きるのが当たり前のことだと思っていたし、そういった疑問を持ったのは初めてのことだ。

 青年は作業を終えて道具を片付け、麻酔が効いて動かなくなった少年を眺めながら溜め息をついた。

「俺は、本当はこんな仕事したくないんだ。もっと別の生き方があったんじゃないか、なんて思い続けてる。まったく、くだらない人生だ」

 青年は力無く地面に座り込んだ。その瞳には、暗く悲しい諦念のような重たさが宿っている。

「父親がここで働いているから、俺も否応なく管理者にされたのさ。この研究施設は存在自体が極秘事項だから、俺は生まれた時から巻き込まれてたってわけだ」

「どうして、ここでの仕事が嫌なの?」

 すると青年は隣で横たわる少年を再び一瞥し、翳りのある表情で答えた。

「俺はどうしても、自分のしていることが正しいと思えないんだ。目の前の人間を犠牲にして、生き方を変えさせて……。そこまでして、医療技術を進めなくてはいけないのか?」

 その考え方は、サックにとってとても斬新なものだった。今まで当たり前のことだと思っていた運命が、考えてみれば意外と曖昧なものだったのだ。

 誰にも規定されず自由に生きるということは、どれ程素晴らしいのだろうか。一度湧いてしまった疑問が、絶えることなく滾々と興味を生み出してゆく。

 サックは、先ほどリフィから聞かれたことを思い出していた。この町から出る、ということを。もし自分がこの町を出たら、そこにはどれだけの自由が待っているのだろう。どんな世界が広がっているのだろう。それは想像するだけでも心が震えるほどで、今日までの全てが塗り替えられるようだった。

 管理者である青年にこの思いを伝えるべきかどうか、サックは迷っていた。しかし、結局サックが何も言えないまま話は終わってしまう。

「おっと、もう俺は行かないと。君とは、またいつか話してみたいものだな。名前ぐらい教えておこうか、俺はアイズだ」

「うん、僕はサック。色々聞かせてくれてありがとう」

 アイズはおもむろに立ち上がり、少年の体を肩に担いで去っていく。見送るサックの目には、その後ろ姿がやけに悲しく映った。

 

 そうしてサックが家に帰る途中、いつもの場所に立ち寄るとリフィがいた。夕闇に包まれて余計に高く見えるガレキの山で、朝と同じように座っている。

 サックが隣に並んで同じほうを見ると、日没を飲み込んだ城壁が臙脂色の空にそびえていた。雲の腹を赤く染める逆光に切り取られ、城壁の影が黒々と弧を描いている。

 真紅の瞳一杯に空の赤を映して、リフィは問いかけた。

「夕暮れ時には、西の空が赤くなりますよね。それって、どうしてだと思いますか?」

「ううん、さあ、なんでだろう。見たことは無いけど、城壁の向こうに何か赤いものが出てくるのかな」

 赤く染まった空は見慣れたものだったので、サックはその原因にまで考えが及ばなかった。しかしリフィは言う。

「私は、きっと太陽が赤く光っているんだと思います」

「え? 太陽の光に色なんて無いでしょ?」

 しかし、サックは地平線に沈む太陽を見たことが無い。そのため、思わず自分が返した反論に確証を持つことができなかった。果たして彼女の言っていることが正しいのかと、首を傾げているサックにリフィは言葉を重ねる。

「多分私たちが見知っていることなんて世界からすればほんの少しだけなんでしょう。もしかしたら今もあの城壁の向こうで太陽は色鮮やかに輝いているのかもしれません」

 そう言うリフィの言葉は、不可知論ではあるが確かな説得力を感じた。

 あの城壁の向こうに立てば、そこにはどんな太陽が輝いているのだろうか。それがどれ程の美しさか、自分の目で確かめてみたい。そんな思いが、サックの胸に湧いてくる。

「ねえリフィ。僕、この町の外に出てみたいんだ」

 その一言は、サック自身にも信じられないほど何気なく口にできた。

「あ、そろそろ帰ろう。晩ご飯の準備をしないと」

 あえて返事を待たずにそう言って、サックはガレ場を下り始める。振り向いて見たリフィの顔は、いつもより柔和に感じた。

 

       *  *  *

 

 次の日の昼下がり、サックはアイズと会った。少し曇り気味な、はっきりとしない天気だった。薄い血痕が残る路地裏でサックが待っていると、向こうからアイズが歩いてくる。

「あ、やっぱり来た。ここで待ってれば、アイズさんに会えるかなって思ったんだ」

「ああ、また会ったな。あと、俺のことは呼び捨てで構わないぞ。ただ年上ってだけだからな。それで、何か用でもあるのか?」

 そう言われたサックはドキリとした様子で、少しためらいがちに話し始めた。

「簡単じゃないけど、手伝ってほしいことがあるんだ。アイズにしか頼めないことだから、聞いてくれる?」

「ああ、できることなら協力する。もちろん、管理者としても友人としてもな」

 しっかりと目を見て頷いたアイズに、サックは多少安心した様子で話を続ける。

「昨日、話を聞いてて、この町から逃げ出したくなったんだ。それで、アイズに頼めば何とか手立てがあるんじゃないかと思って」

 アイズはしばらく考え込み、積極的な笑みを口元に浮かべた。

「――なるほど、分かった、力を貸そう。少し準備は要るけどな」

 彼が味方についたことで、サックは心強く思った。この町を出るということが、かなり現実味を帯びてくる。そしてその際、忘れてはならない存在があった。

「ねえ、町を出る時は妹も一緒に連れていきたいんだけど、今から会いに行ってくれる? お互い知ってたほうがいいだろうから」

「ああ、そうだな。案内を頼むよ」

 そうして、二人は細道を歩いて行く。

 

 やはり、いつもの場所にリフィはいた。管理者と一緒に歩いてきたサックを、じっと見つめている。サックがガレキを登ってゆくと、アイズはその後ろに続いてリフィを見ながら言った。

「あの子だったら何度か見たことがあるぞ。いつもここにいるもんだから、よく覚えてる」

 そしてサックは、リフィにアイズのことを紹介した。聞けば、リフィも何度かアイズのことを見かけていたらしい。そのためもあってか、紹介は潤滑に進んだ。リフィは大体の事情を飲み込み、納得したようだ。

「つまり、あなたはこの町を出る手助けをしてくれるんですね」

 その確認に、アイズが「そうだ」と答える。しかしリフィは、釈然としない面持ちでサックへ話を切り返した。

「ですが、お母さんはどうするんでしょう? 一緒に町を出るだけの体力があるとは思えません」

 そう言われて、サックは自分の考え不足に気付いた。自由に生きるなどと浮かれてばかりで、母親のことなど全く意識していなかったのだ。まさか、母親を置いて出てゆくわけにもいかない。サックは軽はずみな自分の判断を恥じた。

 サックは申し訳なさそうにアイズのほうへ向き直り、暗く沈んだ声で言葉を紡ぐ。

「ごめんアイズ、やっぱり僕は母さんのそばにいないと。悪いけど、今日の話は無かったことにして」

「ああ、そうか。仕方が無いな」

 サックは膝を抱えてうつむき、重く混沌とした溜め息を吐いた。やはり自分はどこにも行けないのだと、心の奥が勝手に納得してしまう。しかし、どうすることもできないのは痛いほど分かっていた。

 灰色の髪を指でいじりながら隣に佇むアイズ。考え込むように目を閉じて隣に座るリフィ。サックは何も見ず何も考えず、ただ膝を抱えていた。

 町に暗い影を落としながら、空を渡る雲の流れは少しずつ厚みを増してゆく。

 

 その日の晩、サックは今一つ食事が喉を通らなかった。さっきのことが今も胸につかえていて、食べ物を拒んでいるような感じだ。

 自由に生きるなんて、一時の夢だったのだろうか。そう思いながらも、サックは未だに悩んでいた。それも二者択一の悩みではなく、選択肢の無い問題を。

 そんな様子を察し、母親はシワだらけの顔で怪訝な表情をした。

「どうしたの、サック。食事が進んでないわよ」

 しかしサックは本心を打ち明けることも、適当な理由を作ることもできず、ただ「何でもないよ」としか言えない。

 彼は自身の分だけを早めに食べ終えて、食事を切り上げた。そして一度リフィと母親のほうを振り返ってから、ゆっくりと部屋を出て行く。

 大皿に盛られた乾パンは、いつもの半分程度しか減っていなかった。

 

 その日、サックは通常より早くベッドに入った。暗鬱な気持ちを眠りで忘れたかったのだが、どうにもなかなか寝付けない。

 いつの頃からか、細々と雨が降り出していた。雨だれの単純な音が部屋を包み、暗闇の中で聴覚だけが無意識に広がってゆく。絶え間無い雨音に乗って、リビングのほうから声が聞こえてきた。母親の嗄れ声がリフィに問いかける。

「サックは晩ご飯の時から元気が無いみたいけど、どうしたのかしら。リフィは、何か知ってる?」

 リフィの返事は聞こえなかった。ただ雨音に紛れてしまったのか、あるいは返事をしなかったのか。

 しかし、わざわざ聞き耳を立てるのも億劫で、サックは頭から布団をかぶった。そうして雨音が遠ざかると彼の空間が切り離されたようで、余計に神経が高鳴ってゆく。行き場を失った意識は自ずと自身の内面へ立ち返り、思考ばかりが闇を彷徨う。

――自分は、どうしてこんなにも悩むのだろう。何も悩むことなんて無いはずだ。母さんやリフィと慎ましく暮らして、やがて実験で誰かのために死んでゆく。それがこの町の生き方で、一番幸福なはずなのに。今までだって、そんな生き方に不満や恐怖を感じたことなんて一度も無かった。なのに、どうして自由に生きたいなんて思ったのか。

 しかし、その考えは何の結論にも至らないまま行き詰まってしまった。自分の胸中に淀む感情を何と片付ければいいのかも分からずに、だんだんと思考が曖昧になってゆく。

 そうして眠りに落ちる間際、サックは何か嫌な予感を感じたのだが、それが何であったか翌朝には忘れてしまった。

 

       *  *  *

 

 そんな調子で、サックは気分が晴れないまま数日を過ごした。

 ある朝、サックはいつもと違う様子を感じて目を覚ました。扉の向こうから、聞き覚えの無い男の声が聞こえる。何かただならない気配を感じたサックは、足音を立てないようにリビングへ出て行った。少し開けた扉に身を隠し、顔を半分出して様子を窺う。

 そうして見えた光景に、サックは思わず息を詰まらせた。

 そこには母親が、怖そうな顔の管理者に腕を掴まれていた。抵抗する気配の無い老婆に、管理者の男が乱暴に問いかける。

「さあ、行くぞ。自分で歩けるな?」

 すると彼女は「はい」と頷き、おぼつかない足取りで玄関のほうへ連れられていった。その時、男が苛立った様子で呟いた言葉をサックの耳が拾う。

「ずいぶんと弱っているな。まあ、化学兵器の実験ならデータには充分か」

 その瞬間、サックはその管理者の目的を悟った。この男は、母親を化学兵器の実験台にしようとしているのだ。つまり、彼女はまず間違い無く生きては帰ってこない。

 サックの頭からは、母親に説かれた幸福の教えも押しのけられ、ただ理屈の通らない怒りだけが込み上げてくる。もはや、理性や理論で考える余裕は無かった。

 サックは扉を蹴り開けて飛び出し、男の腕に掴みかかった。

「母さんをどうするつもりだ! そんな実験、死ぬのが分かってるくせに!」

 突然現れたサックに、母親と男は目を丸くして驚いている。しかし男はすぐさまサックを荒っぽく振り払い、口角泡を飛ばすような勢いで言い捨てた。

「お前みたいな子供に何が分かる! その化学兵器がテロに使われる前に薬を作らないと、何百人の人間が死ぬか分かったもんじゃない。その被害と一人のばあさん、どっちが重要だと思ってるんだ」

 床に尻餅をついたまま、反論もできず戸惑うサックに、母親が優しく語りかける。

「いいのよ、サック。私は今、幸せなの。本当の意味で、人の役に立てるのだから」

 そう言って、彼女はサックの目を見つめた。何か想いを託すような、優しくも意志のこもった眼差しで。長いような一瞬の後、母親は振り返って「いきましょう」と管理者に言う。そして、立ち上がる気力も起きないサックを残して、彼女は管理者と共に扉をくぐる。

 サックは床に崩れ落ちたまま、閉じた扉を眺めていた。

――これが、母さんの言う幸福なのだろうか。あれだけ弱りきった女性を無慈悲に殺すのが、正しい行為なのだろうか。やがて自分やリフィも、同じように死んでゆくのだろうか。そんなことがあっていいはずが無い。

 そうして考えていると、奥の部屋の扉が開いてリフィが出てきた。おそらく、管理者を恐れて隠れていたのだろう。紅色の愁いをたたえた瞳は、いつものような磐石の輝きではなく、サックから視線を逸らすように揺らめいている。

 サックは力無く壁に背中を預けて、虚空を見据えたまま静かに言った。

「決めたよ。僕は、この町を出る。こんなのが正しいはずないや」

 目尻に涙を溜めて唇を噛み締めるサックの隣に、リフィがそっと座る。そしてサックの手に自分の手を重ね、連れて行ってほしいとでも言うように優しく握った。

「私も、この町で行われていることが正しいのか、ずっと考え続けてきました。物心ついた時からずっとです」

 そう言うリフィの視線には、さっきまでの弱々しい困惑は無かった。いつものように――いや、いつも以上に――毅然としていながらどこか不思議めいた眼差しだ。

「私が受けた実験は本当は失敗ではありませんでした。知能テストの問題も全部解けていました。ただ、その頭を使って私が第一に考えたのは自分の存在が正しいかどうかでした。私のように否応なく薬を使われて人格まで変えられることが正しいのかどうか疑問だったんです」

「それで結局、リフィはどんなふうに考えたの?」

「あなたと同じです。こんな実験はおかしいと思いました。だから私は知能テストでわざと間違えを答えて実験を失敗に見せかけていました。こんな研究が成功になったら私のような人間がたくさん作られてしまうと思ったからです」

 それを聞いて、サックは安心感を覚えた。幸福の教えに抗おうとしているのは自分だけではない、リフィも同じだったんだ、と。

 

       *  *  *

 

 二人が昼食を食べていると、誰かが玄関のドアを叩く音が聞こえてきた。リフィが出て行って開けると、そこにはアイズがいた。

「あ、食事中だったのか、悪いな。上がっていいか?」

「はい、構いませんよ」

 そして、三人が食卓に就いた。アイズが大皿の乾パンをつまみながら、サックに問いかける。

「君は、これからどうするつもりだ? この前言ったように俺と町を出るか、ここに残って暮らすか。言っておくが、この町から出ようとしたって、無事に出られるとは限らないぞ?」

 念を押すようにかけられたその問いに、サックは迷わず答える。

「もちろん、ここから出たいよ。僕はもう誰かのために死にたいとは思わないし、外の世界が気になって仕方が無いんだ」

 しかしサックは「でも――」と付け加えて、リフィのほうを向いた。

「リフィが行きたくなければ、僕もここに残るよ。それでも、今までの生活に戻るだけだからね」

「いいえ、私も行きたいです。私がここに残る理由はありませんから」

「よし、決まりだな。じゃあ、作戦を教えておこうか」

 そう言うとアイズは背もたれに寄りかかり、腕組みをしながら話を続けた。

「今日は化学兵器の実験準備があるから、警備も多少は手薄になってるはずだ。俺と一緒にいれば、研究所の中へは簡単に入れるだろう。それから奥へ進んで、俺が出入口を開く。厳重な扉だから時間は多少かかるだろうが、開け方は分かるから大丈夫だ」

 サックからすると、そのやり方は少し拍子抜けな気もした。この話を聞く限りでは、別段危険なことも無いように思える。しかし、アイズは急に険しい表情に変わって説明を続けた。

「だが危険なのは、古参の研究者たちが持ってる武器だ。拳銃というんだが、サックはこの前見ただろう?」

 そう言われて、サックはあの日の出来事を思い出した。目の前で少年が撃ち抜かれた、あの日のことを。あの恐ろしい武器が自分たちに向けられるのかと、サックは震え上がった。

 その後アイズは二人に、拳銃がどんなものか説明した。難しくてサックはほとんど理解できなかったが、リフィは大体飲み込めたらしい。

「しかし、そんなものを使われたら、脱出は絶望的なんじゃないですか?」

「だから、これを使おう」

 冷静に聞くリフィにそう答えて、アイズは白衣の懐から何かを取り出した。それはガラス製の試験管で、中には何も入っていないが固く密閉されている。

「これは、俺たちが研究している化学兵器だ。見ただけじゃ分からないが、強力な毒ガスがいっぱいに詰まってる。実験に使うふりをして、勝手に持ってきたんだ。これを吸うと十数秒で昏倒、その後数十分ぐらいで死に至る。まだ解毒剤も作れないから、脅しとしての効果は絶大だろう」

 アイズは試験管を二人に見せた後、丁寧に懐へ戻した。取り出すだけでも神経を使うのか、その額には冷や汗が滲んでいる。

「まあ、これを使うことは無いから安心してくれ。俺やお前たちまで巻き込んでしまうからな。飽くまでも脅しとして使うだけだ」

 そうは言っても、対抗手段があることはサックの気持ちを多少楽にさせた。しかしリフィは何か腑に落ちない様子で、思案するように軽くうつむいてアイズのほうを見ている。

「じゃあ、君たちの食事が終わったら出発しよう。あまり遅く行っても怪しまれるからな」

 アイズに言われて、食事を中断していた二人は再び食べ始めた。

 

 三人が家を出て、研究所に着く頃には辺りが薄暗くなっていた。

 入口には見張りが立っていたが、三人は隠れるでもなく近づいてアイズが話しかける。

「428番サックと431番リフィ、健康状態のチェックだ」

「ああ、了解した」

 見張りは気だるそうに答え、手元のパネルを操作した。すると重そうな自動ドアが開き、アイズに続いて二人も入ってゆく。

 そこは実験器具の保管庫らしく、壁一面の棚に様々なものが並べられていた。数人の管理者たちが、忙しく器具を洗ったり片付けたりしている。

 種々のガラス管が山積みにされた乾燥台の隣を抜けて、三人は奥へ続く扉をくぐった。その先は延々と変化の無い廊下で、アイズがいなければ場所も方向も分からない。左右には同じような扉がいくつも並び、不気味で味気ない雰囲気に包まれている。

 ある時、アイズが不意に立ち止まって「ここだ」と言った。彼が指差した扉には物資搬入室≠ニプレートが貼られている。そこを開いて三人が中へ入ると、そこは今までの空間とは全く違う部屋だった。

 サックたちの家が丸ごと入りそうなほどに広々として、天井も他の部屋より二倍以上高い。そこかしこに木箱が高く積まれ、食糧や薬品などの様々なものが仕分けを待っている。奥には大きなシャッターがあり、そこから物資を車ごと搬入するのだろう。

 その部屋では運び込まれた物資を処理するために何人もの管理者が動いていたが、よほど忙しいのかアイズたちには気付かない。

 三人は奥へ進んで行き、シャッターの隣にある出入口へと向かった。するとさすがに気付いたらしく、若い管理者が一人走ってくる。

「おい、アイズ。実験体をここに連れてきちゃマズいだろう」

 アイズは返事をしない。その時サックには、アイズが拳を握って力を込める僅かな動きが見えた。そして、強く食い縛った口元と反逆者の冷徹な眼光も。

 次の瞬間、アイズの拳は管理者の顔面に強く叩きつけられた。振り抜かれた一撃が管理者の体を薙ぎ払い、骨に響くような打撃音と共に吹き飛ばす。その体躯は受け身も取れぬまま床を転がり、木箱に背中を激しく打ち据えたきり動かなくなった。

「どうした!」「何をしている!」

 突然の強襲に気付いた周囲が、口々に叫びながら集まってくる。その中には、こちらに拳銃を向けている者もいた。その引き金が引かれるより先にアイズは素早く反応し、試験管を取り出して見せ付ける。

「待て! これは第四実験室から持ってきた化学兵器だ。俺がコイツを落としたらどうなるか、アンタたちなら分かるだろう? この部屋まるごと全滅だ」

 サックとリフィを自分の後ろに回らせながら、アイズは管理者たちに不敵な笑みを浮かべる。

 管理者の先頭で拳銃を構えているのは、以前サックの目の前で少年を撃った壮年の男だった。その指を引き金にかけたまま、行動の取れない状況に苛立ちを見せている。

「アイズ! 気でも違ったか! 一体、何が目的だ!」

 目を血走らせた管理者の問いに、アイズは悪びれること無く平然と答えた。

「何って、こんな腐れた実験施設がイヤになったんだよ。俺はこの二人を外に逃がしてやるんだ。俺だって、この二人だって、自分の生き方を決める権利ぐらいはある」

「この、バカ息子が……」

 憎々しげに吐き捨てながら、壮年の男はアイズを睨む。

「悪かったな親父、親不孝な息子で」

 そう言いながら、アイズは出入口の隣にある操作パネルへと向かった。管理者たちにも注意を払いつつ、後ろ手でスイッチを操る。しかし厳重なセキュリティーがかけられているため、ロックの解除には時間がかかりそうだ。

 その時、壮年の管理者――アイズの父親が不吉に笑った。

「まったく、穴だらけの作戦だな」

 侮るように言いながら、父親は銃の狙いを横へ動かした。そこには、アイズの開錠を待つサックとリフィがいる。銃口が自分たちにピタリと合わせられ、サックは心臓を掴まれたような怖ましい気配を感じた。アイズの表情が凍りつき、甲高い声で叫ぶ。

「や、やめてくれ!」

 しかし、その語尾は銃声によってかき消される。不可視の弾道がリフィの内股を射抜き、背後の壁に突き刺さった。その衝撃に耐えられず倒れこんだリフィの銃創から、這い出るように鮮血が流れ落ちる。

 顔面蒼白で駆け寄ろうとするアイズに、父親が厳格な口調で言い放った。

「手当ては一切するな。もう一人けが人が増えるぞ」

 そして、銃口が再びサックたちに向けられた。アイズは激しい憎悪のこもった瞳で、父親を睨みつける。しかし相手は動じず、冷静に言葉を続けた。

「その毒ガスを使うか? お前がそんな馬鹿でないことは、私も知っている。そんなことをすれば、お前もその子供たちも確実に死ぬ。そいつらを救いたいのなら、私にその危険物を渡して降伏したほうが賢明ではないか?」

 アイズは何も反論ができずに、どうするべきか迷っている。その時、苦しげに息をしながらリフィが小声でアイズに囁いた。

「私に考えがあります。アイズさん、こっちに来てください」

 言われたアイズは彼女の隣にしゃがみ込み、他の者からは見えないように何かをやりとりした。そしてアイズが離れた時、リフィの手には試験管が握られていた。

「これ以上、けが人は出させません。そうしなければ、私はこの毒ガスを使います」

 管理者たちへ聞こえるようにはっきりと述べながら、リフィが立ち上がった。血にまみれたその足をどれだけの激痛が苛んでいるのか、サックには計り知れない。しかし彼女は毅然としていた。

 予想外の行動に、今度は管理者たちが迷ってしまう。彼らからすればリフィは正常な思考のできない失敗作であり、何をしでかすか分からない危険な存在だった。そのため、彼女が毒ガスを使う可能性は否定できない。リフィ自身、それが分かっているからこのような方法を取ったのだろう。

 管理者たちが困惑している間に、アイズは開錠の操作を続ける。やがて認証を報せる電子音が鳴り、重々しい低音と共に鉄扉が開いた。

「さあ行ってこい。お前たちは自由だ」

 サックは促されるままに、リフィに肩を貸しながら歩き出した。血の痕跡を床に一筋残しながら、扉をくぐって一歩踏み出す。

 その時、再び重低音が響き、背後で扉が閉まっていった。驚いて振り向いたサックが見たのは、閉まりかけの扉の隙間に見えるアイズの姿だった。満足げな表情で、その口が言い残す。

「俺だって、自分の好きに生きて、自分の好きに――」

 その言葉の続きは、扉が閉まる轟音の向こうに消えてしまった。閉ざされたまま沈黙を守る鉄扉を見つめるサックに、リフィが静かに言う。

「さあ、早くここを離れましょう。長居をしていると危険です」

 しかし、サックの心には未だに戸惑いが残っている。どうしてこの状況になっているのか、納得がいかない。

「待ってよ、まだ中にアイズが……」

 しかし、リフィは首を横に振った。その意味が飲み込めないサックに、彼女が冷淡な口調で説明をする。

「仕方ありません、中から追手を足止めする役目は必要なんです」

「でも、アイズは武器も何も持ってないんだよ!」

 感情的になって語勢が強まるサックに、リフィが一言だけ告げた。

「今、毒ガスを持っているのはアイズさんです」

 それを聞いた時、サックはわけが分からなくなってしまった。毒ガスの入った試験管は、今も彼女の手に握られているではないか。

 しかし、リフィは何も言わずにその試験管を手放した。鋭いガラス音を立てて砕け、地面に破片が散らばる。ぎょっとするサックに、リフィが語りかけた。

「これは、入り口の部屋から私が持ってきた空の試験管です。見た目で区別がつかないなら見せかけにはなるだろうと、こっそり盗んでいたんです」

 そう言われて、サックは初めて状況を飲み込むことができた。先ほどアイズが毒ガスを渡したように見えた時、リフィは自分が持っていた試験管を取り出しただけだったのだ。だとすれば、毒ガスが入った試験管はアイズが隠し持っていたことになる。

 今、この分厚い扉の向こうでは何が起こっているのか。アイズが自分だけ残った理由を考えれば、容易に想像がついた。おそらく、この扉が再び開くことは無い。

「どうして、僕なんかのために……」

 その問いに、リフィが静かに答える。

「あなたのために生きて、あなたのために死のうと、決めたからでしょう。アイズさんも、お母さんも」

「母さんが?」

 母親の話が突然出てきて、サックは驚きと疑念に首を傾げる。その疑問に、リフィは後ろめたそうにうつむいて答えた。

「私のせいなんです。アイズさんと会った日の夜、私はお母さんにあなたのことを尋ねられました。それで、あなたが町を出たがっていることを話しました。するとお母さんは、実験を受けて死にたいと言いました。私がその頼みを引き受けて、アイズに相談していたんです」

「ああ、どうりで、タイミングがいいと思ったよ。ありがとう、リフィ」

「お礼を言われるとは思いませんでしたが」

 首を傾げるリフィに、サックは晴れやかな表情で答えた。

「いいんだよ、母さんやリフィが自分で決めたことなんだから」

 そうして、深く息を吸い込んで言葉を続けた。

「僕も、自分で決めてここまで来たんだね。こんなに悲しいことばっかりなのに、なんだろう、初めて生きてる≠チて実感が持てたんだ。今まで誰かのために≠チて言ってたのが、幻だったみたいだよ」

 そう言って、再び息を吸い込んだ時、サックは初めて辺りの様子に気が付いた。目の前は見渡す限りの荒地だった。そして、サックたちの足元からまっすぐ、コンクリートの道路が彼方まで伸びている。

 そして何より、全てが赤い。白い城壁も、褐色の荒地も、灰色の道路も、目の前にある全てに赤が差していた。そして、道路を途切れさせる地平線には、真っ赤な斜陽を投げかける太陽が沈みかけている。それは、サックが今まで見たどんな太陽よりも美しく、優しかった。

「すごい、本当に赤く光ってるんだ。リフィの言った通りだよ」

「ええ、そうですね。それに、私が思っていたより、ずっときれいです……」

 その時、サックの肩にかかる重みが増した。リフィの足が徐々に力を失い、体重を支えきれなくなっているようだ。

 よどみ無く流れ続ける血潮が、リフィの足元に染みを広げてゆく。その顔色は段々と青ざめ、紅色の瞳からも色が消えてゆく。

「この体が無事だったら、あなたと一緒に行きたかったです。私も、あなたのために生きてきたつもりですが、でも、もうお終いのようですね……」

 そう言って、リフィは笑った。青白くなった弱々しい顔も夕映えが赤く染め、一点の曇りも無い幸福の笑顔に変わる。それは、サックが初めて見た彼女の笑顔だった。

「ああ、僕は幸せだよ。リフィがこんなにも僕のことを想ってくれるんだからね。だから僕も、これからは君のために生きるよ。だから、君がしたいことを教えて」

 リフィは少し考え込んで、消え入りそうな、しかし幸せそうな声で答えた。

「私は、あなたと一緒に、少しでも長くあの太陽を見ていたいです」

「じゃあ、一緒に太陽を追いかけていこうか」

 そう言って、サックはリフィを背中におぶった。そして、終わりの見えないコンクリートの道を辿って、長い影と赤い軌跡を残しながら歩いていった。


   あとがき

 

 こんにちはー、みんなの鬼童丸ですよー。

 私の文芸生活も二年目になって、「そろそろ知名度も高まってきたかなぁ」と思いきや全然みたいですね。今回の季刊を機に、ホームページへのお客さんが増えて有名になるんじゃないかと目論んでいます。

 

 今作は自己犠牲をテーマにしてみました。もっと広い観点から見れば、人は何のために生きるのかということです。いつになく重たい話題ですが、「何か気取ったこと言ってるなぁ」とか思って軽く読んでください。

 世間一般(特に物語)において、自己犠牲は尊いものとされますよね。しかし、その犠牲は必ずしも自己≠フ意思でしょうか。

 たとえば、旧日本軍で自ずから命を捧げた兵隊たちは自分の意思で戦ったのでしょうか。たとえ御国のため≠ニ掲げても、それは自発的なものとは限らず、教育次第では別の思想を持っていたかもしれません。命を捧げるのが当たり前だったから、それを疑わずに戦った人もいたでしょう。

 つまりそれは、自分の意思ではなく教育の意思に従っているに過ぎないと思います。こういった受動的な自己犠牲は、当人のみに焦点を合わせれば美談でいいのかもしれませんが、その経緯を広域的に見れば歪んだ社会構造の悲劇です。

 対照的に、自分の本心で行う自己犠牲というのは、大切な人を守るために自ずと沸き立つものだと私は思います。それは御国のため≠ニか誰かのため≠ニいった抽象的なものではなく、自己忘却にも近い慈愛の精神に基づくものなのでしょう。

 そしてこの二つの自己犠牲でどちらが正しいかといえば、後者だと思います。それは受動的な自己犠牲が悪い精神だということではなく、そんなことが起こってはいけないという意味です。

 

 この作品は、そんな考え方を反映して二つの自己犠牲を描き出してみました。メインの三人に母親を含めて、全員が二つの生き方の狭間で苦悩しています。

 今回は純文学的な心理小説(にしたつもり)だったので、人物の心情や行動で多く悩みました。小説を書く時は物語が自分の思い通り進むように人物の行動を考えるのですが、不自然にならないように感情移入することが結構大事なわけで。それを怠って人間感情の整合性が取れなくなると御都合主義まっしぐらになります。

 ちなみに、犠牲≠ヘ英語ではsacrifice=B登場人物の名前はこの言葉を分解して少しずつモジったものです。一応それぞれ名前っぽくしましたが、ちょっと無理やりでしょうか?

 

 さて、次回はどうしましょうか。とんでもないギャグ系でいくか、グロ系ファンシー花物語(なんじゃそりゃ)になると思います。すでに構想はできているのですが、どっちにしようか。

 

 あ、言い忘れてましたが、この前ノーパソのハードディスクが物故われて大変な状態になってます。なんとか復旧したのですが、Wordを含めてデータが全部……。この原稿がちゃんと本になってるかも心配ですが、リブラオフィス(ワープロソフト)の互換性を信じましょう。他にも色々消えましたよ、はぁ……。

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