《#1 消え残ったものと変わらないもの》

 目を覚まして初めに僕が見たのは、底抜けに青い空。そして空の真ん中に輝く太陽だった。いいや、目を覚ました瞬間を明確に認識したわけじゃないし、自分が寝ていたのかも何も分からないのだけど、なぜだか意識だけは変にハッキリしていた。

 おもむろに身体を起こして立ち上がると、後ろ髪に絡まっていた砂がパラパラと落ちた。見回しても辺りは白一色の滑らかな大地で、それが全て砂粒で構成されているなんて俄かには考えられなかった。緩やかに起伏しながらもおおむね平坦な世界が、地平線まで続いている。

 何かを考えるのも面倒臭くなるような漠然とした空間で、なんだか風や空気の透き通った形さえ感じられた。風が吹くたびに銀色の流線が閃いて、小さな波や渦を作りながら流れていくのだ。

 だけど、ここは一体どこだろう。どうして僕はここにいるのだろう。理由を探しても何も思い当たらないし、本来の自分がどこにいたのかも分からない。

 ――変だ。僕自身は昨日までと何も変わっていないように感じるのに、その昨日を思い出すことは出来ない。それどころか昨日が存在したのかどうかも分からなくて、しかし僕自身への違和感は欠片も感じない。まるでアイデンティティの抜け殻だ。

 そこでやっと僕の胸の中には、自分が何者なのかという疑問が生まれ始める。髪をグシャグシャと掻いてみた。肩に掛からないぐらいの長さで、少し硬めの手触り。視界にちらつく前髪が黒いから、たぶん黒髪なのだろう。

 自分の服を見つめてみた。紺色のズボンと上着、襟元には白いシャツと黒のネクタイ。スーツと呼ばれる類の服だということは理解できたけど、それ以上の連想は浮かばなかった。

 身長は直観的に一七〇センチ前後だと分かったけど、それが一般的に大きいのか小さいのか、どうにも判然としない。

 そして年齢――二十歳だと記憶している。でも、こんな風に自分の姿形やら数字やらを考えていても何も分からず、何だかとても不毛なことをしている気がした。頭の働きが閉ざされているような感じで、情報が何も行き先を見付けてくれない。

 それならこんなことをしているよりも、周りの風景を眺めているほうが全くもって愉快だ。酷く味気ない存在なのは僕だけで、この広々とした世界は全てが鮮やかな属性を持っている。吸い込まれそうな空の青さ、キメ細かな砂地の果てしない(ひろ)さ、いつの間にか湧き上がっていたクジラ雲の穏やかな形

 僕は景色を眺めながら、どこへともなく歩き出す。するといつの間にか、誰かが前方から近付いてきていた。とりあえず無人の死地というわけではなさそうだ。でも、このだだっ広い空間の中に人がいたらもっと早く気付きそうなものだけど、不思議なことに、その人は僕が全く気付かないうちにすぐ近くまで来ていた。

 そこにいたのは大人になりかけぐらいな年頃の女の子で、色とりどりの短冊を幾重にも綴った変てこなマントを羽織っている。その下に着ているのは筒状の地味な衣服だけど、所々に記号だか紋様だか見慣れない絵柄が見えた。背中まで伸びた群青色の髪と分厚い眼鏡が、どことなくミステリアスな雰囲気を感じさせる。

 彼女が歩いてきて僕の前に立った時、僕は初めて自分の身長を主観的に認識できた。彼女よりも少し高いぐらいだから、おそらく子供の身長ではないし、巨人みたいに大きくもない。やっぱり曖昧なままではあるけど、逆に言うと、今までの僕はこの程度の認識さえ無かったのだ。

 目の前の彼女に僕が話しかけようとすると、彼女のほうが先に口を開いた。挨拶でもされるのかと思ったけれど、かけられた言葉は思いもよらないものだった。

「〜〜〜〜〜」

 バイオリンのように伸びやかな響きを持ったその言葉のような何かは、僕には全く意味が分からなかった。言葉が通じない――その事実に硬直してしまった僕を見て、彼女は何か納得したように小さく頷いた。

 そして少し申し訳なさそうな顔をしながら、彼女は再び語り掛けてきた。僕は思わず身構えてしまったけれど、今度の言葉は普通に聞き取れた。

「その様子だと先ほどの言葉は分からないようですね。とすると、あなたはこちらへ来て間もないのでしょうか」

 話せるのなら最初から普通に話してくれればいいのにと思いながら、僕は「多分」と曖昧に答えた。実際のところ、いつからここにいたのかなんて確証が持てなかったのだ。

「やはりそうでしたか。ここに来たばかりの人はみんな言葉で苦労するものですから、大丈夫ですよ。身体が慣れればすぐに理解できるようになります」

 言葉を理解するために身体が慣れるというのは、なんだか妙な言い方じゃないか? でも取りあえず、そんなことを気にしている場合じゃない。

「えーっと、ごめん、まず君は何者? ていうか、ここはどこ? どういうわけか、なんにも思い出せなくて」

「大丈夫です、思い出す必要はありません。まずは自己紹介から始めましょう」

 何が大丈夫なのか知らないけれど、彼女は平然と話題を流して話し続けた。

「私の名前はルリ、占い師です。以後よろしくお願いします」

「あ、はい、よろしくお願いします」

 案外に丁寧な挨拶をされたので思わず調子を合わせてしまったけど、占い師≠ニはまた掴み所のない肩書きだ。けっこう普通にいるのだろうか、占い師って。

 ここで聞き返すのも何だから、とりあえず僕も自己紹介を返す。

「僕の名前はサイジ。なんだけど、他のことは全然覚えてなくて、何が何だか……」

 そこで僕は、自分が名刺を持っていることに思い至った。内ポケットに入っている名刺を見れば、ちゃんと名前が分かるはずだ。

 しかしいざ名刺を出してみると、そこに書いてある文字の読み方さえ分からなかった。名前と思しき部分には矢倉 祭児≠ニ書いてあるけど、これでサイジ≠ニ読むのだろうか?

「どうしました?」

「ここに僕の名前なんかが書いてあるはずなんだけど、読み方が思い出せないんだ。ルリさんは読める?」

 彼女は「呼び方はルリで構いません」と言いながら、興味深そうに僕の手元の名刺を見た。

「これは文字ですね。何度か見たことはあります。しかし私には読めませんし、ここでは存在さえ出来ない概念です」

「つまり、ここには文字が無いってこと?」

「はい、その通りです。あなたのような者が外部から文字を持ち込んでも、すぐに消滅します」

 消滅とは随分と大層な言い方だな、と思っていたら、見る見るうちに名刺の紙面が変化し始めた。さっきまで文字だった点や線がバラバラに動き出し、やがて薄まって虚空へ消えてしまったのだ。

 僕は驚きのあまり何と言っていいか分からず、白紙になった名刺をルリに見せた。

「つまり、こういう風に?」

「そうです。文字は消えるのです。もはや読む者も書く者もいなければ、存在することが出来ませんから」

 どうやら、文字が勝手に動いて消えることなんて、ここでは当たり前のことらしい。でも確か、僕が前に住んでいた場所ではそんなこと起こらなかったような気がするのだけど。

 やっぱり、ここは異常なのではないか――少なくとも僕にとっては。僕が知っている世界とは違う法則が働いているに違いない。

「今さらだけど、ここはどこ? 何だか僕が住んでいたのとは全然違う世界みたいだし、どうしてここにいるのか、僕自身もよく分からないんだけど」

「それも大丈夫、目的があってここへ来る人なんて誰もいませんから。ここは骨の国――どこからともなく流れ着いた骨たちの吹き溜まりなのです」

 彼女は少し大げさな口調で、来客を歓迎するかのようにそう言った。よく意味は分からないけれど、骨の国という響きは何となく不気味な感じがした。なんだか、怪談話にでも出てきそうだ。

 何と言葉を返せばいいのだろう。唐突な風が笛のような音と共に流れて、ルリのマントを揺らした。

「骨の国って、どういうこと? ここはそんなに怖いところなの?」

 すると彼女は決まりが悪そうな顔をして、少し早口で弁明し始めた。

「いえ、そういうわけではありません。怖くはありません。私だって骨ですし、あなたもすぐに骨になります。今はまだ少し余計なものが残っているだけですよ」

 誤解を解こうと説明してくれているのはその口調から伝わってくるけれど、物騒な言葉が重ねられただけで何の解決にもなっていない。

 自分の顔から血の気が引いていき、冷や汗が出てくるのが感じられる。こんな場合、どんな表情をするのが正しいのだろう。きっと今の僕は、かなり引きつった苦笑いを浮かべているのだろうけれど。

 彼女は僕の反応を見て自身の失敗に気付いたらしく、驚いたようにすぐ言葉を続けた。

「いえ、すいません、骨といってもあなたが想像しているような背骨や頭蓋骨ではありません。骨というのは、あらゆるものの在り方を支えている記憶なのです。肋骨や大腿骨が存在の形を支えているものとすれば、私が言うところの骨は存在の概念を支えるものです」

 何かよく分からないけれど、どうやら僕が考えていた骨とは違うようだ。もっと抽象的な、たとえ話のような存在なのかもしれない。

「じゃあ、さっき君自身が骨だって言ったのはどういう意味なの?」

「言葉の通り、私は骨です。いえ、私だけでなく、この国に住む者は誰もが骨です。いわば概念としての思考体であって、あなたのように実体を持っているわけではありません。むしろ、実体を持ちながらこの国に存在しているあなたのほうが不自然かつ不安定な存在なんですよ」

 そんなことを言われても、やっぱり実感が湧かない。僕は話を聞きながら首を傾げていたけど、らちが開かないから試しに彼女のほうへ手を伸ばしてみた。僕の肩ぐらいの高さにある彼女の頬に指を近づけて、軽く触れさせる。当たり前のように弾力が指に返ってきた。

「実体を持ってないなんて言われても、普通に触ってるんだけど?」

「それはあなたの骨が感じているからです」

 彼女はアッサリと僕の手を払い、調子を戻すように眼鏡を掛け直した。

「この国に来た時点で、あなたの肉体が持つ感覚はノイズでしかありません。ここにあるものは全て、骨でしか感じられないからです。たとえば先ほど私が話した言葉も、骨を通じて意思を伝えるという仕組みです。ただ、言葉を骨で感じる場合には、形や手触りを感じるよりは少し高度な感覚が必要ですが」

 ああ、だから僕にはあの言葉が理解できなかったのか。僕は実体を持っているから、それが邪魔をして言葉の意味を受け取れなかったらしい。

「あれ、じゃあ今きみが話している言葉はどうして聞き取れるんだろう。僕は普通に喋れてるけど」

「これは相手の骨の状態に干渉して強制的に意思を伝えたり読み取ったりする方法、《振動(ヴィブラ)》と私が呼んでいるものです。簡単に言えば催眠術のような手法ですね」

 今さらだけど、この人の言葉選びは無遠慮すぎる気がする。催眠術で言葉の意味を植え付けるなんて言われて、安心できるものだろうか。少なくとも僕は無理だ。

「なんだろう、やっぱり怖いんだけど逃げてもいいかな」

「大丈夫です。《振動》にそれほど強い力はありませんし、後腐れも残りませんから。あなたの骨が研ぎ澄まされるまでの間に合わせです」

 この人の「大丈夫」という言葉の信憑性に疑問を抱きながら、僕は思わず聞き返した。

「僕の骨が、研ぎ澄まされるの?」

「そうです。この国を訪れたものは次第に実体を失い、骨の感覚が鋭くなっていきます。そうなれば《振動》を使わずとも話せるようになりますし、この世界をより深く認識することが出来るはずです」

 実体を失う、ということは何か自分が違う存在になるような気がして怖いけれど、実際のところ何が変わるのかはよく分からなかった。今は普通にルリと話しているように思えるし、周囲の景色を明確に認識することも出来る。これ以上に何が変化するのだろうか。

 そもそも《振動》とやらが使えるのなら普通に話す必要も無いと思う。そのことを話してみると、彼女は軽く胸を張りながら誇らしげに答えた。

「実は《振動》は特殊な力で、私だけが使えるものなのです。特に訓練したわけでもないのですが、いつの間にか身に着けていました。《振動》が役立つのはあなたのような来訪者と会話する時ぐらいですが、この仕事をする上では便利な能力だと思います」

 そんなテレパシーみたいな力が自然と身に着くものなのだろうか。もしかしたら驚くようなことでもないのかもしれないけど、僕にはとにかく不思議に感じられた。

 そしてもう一つ気になったのは、彼女が最後に言った単語だった。

「仕事、かぁ。でもこれって占い師の仕事なの?」

「ええ、そうです。そもそも私の仕事は、人について占うことではありません。この世界のバランスがどのように変わっているかを全身で感じ、これから起こる出来事を察知するのが占い師の仕事です。だからあなたが来たこともすぐに気付くことが出来ました」

 ずいぶんスケールの大きな話だ。僕が考えていた占い師とは少し違う気がするだけど、意外と凄い仕事らしい。

「最も多い仕事は、漂着者の応対です。他には色々な研究なんかもしているのですが、趣味みたいなものなので」

「へえ、占い師っていうより案内人みたいだね。あ、もしかして案内料とか取ったりする?」

「まさか、そもそも骨の国にお金は存在しません。お金の概念を作ろうとした来訪者もいたのですが、行き先を見付けられずに消えてしまいました。文字が消えてしまうのと同じように」

 行き先とは、要するに、どういうことだ。そろそろ僕の理解も追いついて来たと思ったのに、またもや突き放されてしまった。この国ではお金や文字さえも意思を持って行き先を探すのだろうか。

「お金に行き先なんてあるのかな。だって人は取引をするじゃないか、それならお金の概念も自然に生まれると思うけど」

「いいえ、その条件がここでは揃いません。お金という性質が持つ骨は不安定で、ここでは形を維持できないのです。そして曖昧な骨は居場所も無く、消滅――つまり概念が忘却されます」

「はあ……」

 難しい話で僕にはよく分からなかったけど、とりあえずこの国では貨幣制度が成り立たないということは分かった。

 そしてしばらくの間、なんとも言いがたい沈黙が流れた。ルリは何を喋るでもなく口を閉じ、会話の続きを待つように僕を見ている。

「あれ、これ、僕が何かを話さなくちゃいけない流れなのかな」

「別にそういった決まりはありませんが、質問はもういいのですか? もっと色々と聞かれるかと思いましたが」

 彼女はキョトンとした表情で首を傾げた。

 わざわざ彼女がそう言うってことは、聞くべきことがまだあるってことなのだろうか。少し考えてみたけど、僕を取り巻く状況は混沌としすぎていて、質問を見付ける取っ掛かりさえ見つけられなかった。

「いや、とりあえず大丈夫だよ。僕はあんまり頭が良くないし、まだ現状も飲み込めてないから、聞くことが思い付かないや」

「そうですか、じゃあ案内を始めますね。まずは町を目指しましょう。私の家もそこにありますので」

 そしてルリはおもむろに歩き出し、僕も後に続いた。彼女が歩いて来たのとは逆の方向だ。雲が立ち上る砂漠の地平線を背景に、群青色の後ろ髪が揺れている。彼女の背中はお世辞にも頼もしいとは言えないけれど、僕には彼女を頼る他は無さそうだ。

 

《#2 移ろいゆくもの》

 僕らが歩いている広大な砂地は、右も左も分からないほどに無造作な景色だ。しかしルリには家の方向が分かっているらしく、迷うことなくまっすぐに進んでいく。

 歩きはじめて間もなく、僕は不思議なことに気付いた。なぜだか、歩いているだけで景色が変化するのだ。僕らが前へ進むだけで遠くの大地はウネウネと波打ち始めるし、雲の形や空の色さえ急激に変わっていく。

 試しに立ち止まってみると、景色の変動も収まった。前を歩くルリが立ち止まって振り返る。

「どうしましたか。あまり離れるのは良くないですよ」

「いや、周りの景色が動き続けて気持ち悪いんだけど、これもこの世界では普通のことなのかな」

 するとルリは納得したように両手を打ち、深く頷いた。どうやら質問されるのを待っていたようだ。

「やはり気付きましたか。この世界に来た人はみんな不思議がりますが、私たちにとっては自然なことですよ。あなたたちの世界は三次元空間だそうですが、ここは半六次元の世界ですから、多少は重なり合っているとはいえ、それぞれの三次元座標における世界は別物と考えなくてはいけません。まあ六次元を自由に移動できる人たちも存在するのですが、私たちは三次元的に動きながら骨の感覚で六次元を認識できるだけで、あなたたちの世界でたとえるなら二次元空間を這いながら三次元の景色を眺めるナメクジのような存在なのです」

 立て板に水を流すように語り続け、ルリは気持ち良さそうに言い切った。なんだか彼女の言葉は占い師の守備範囲を越えているような気もするけれど、全く理解の及ばない僕にとってはどれでも大差ない。

 せめてもの抵抗に「ナメクジに骨は無いよ」と言ってやりたかったけど、また話が面倒臭くなりそうなのでやめておいた。とりあえず、この世界はグニャグニャ動くということだけ頭に置いておこう。

「――だいたい分かったよ、ありがとう。色々と不思議な世界なんだね」

「この世界の住人にとっては、あなたみたいな漂着者が言うことのほうがよっぽど不思議なんですよ。その様子だと、どうやら自覚は無いようですね」

「自覚って言われてもなあ」

 ルリが半ば呆れたように一瞥をくれたものだから、もしや僕のほうがおかしいのかと不安になってしまったけれど、多分そんなことはないと思う。異文化交流どころか次元を超えてるわけだし、お互いの感覚なんて分かり合えないのが当然だ。

 そう考えてみると実際、今から考えるべきことなんて何も無い。何か起こったらその時に考えればいいし、何も無ければ、つまり、何も無いってことだ。自分から尋ねたくせにこの言いぐさは何だけど。

「まあいいです、行きましょう」

 そう言って歩き出したルリは、しばらく進むとまた立ち止まった。何かの気配を感じ取ったような様子で辺りを見回している。

「どうしたの?」

 僕が尋ねると彼女は納得したように頷き、振り向いた。

「せっかくなので、この辺りで待ちましょう。珍しい人が近付いてきていますよ。草原の匂いがしませんか?」

 まるでサプライズでもするみたいに、ルリは口角を上げて僕に微笑みかけた。言われた通りに匂いを嗅いでみたけど、特に何も感じない。だいたい、地平線まで砂ばかりのこの空間に、誰かがいるだの草原の匂いがするだの、そんなはずが無いじゃないか。

 しかしルリは「少し待っていてください」とだけ言って、どこを見るでもなくジッと待っている。僕も彼女に倣ってその場で待った。

 少し経って、僕は周囲の変化に気付いた。一面の砂漠だった地面に、小さな芝が生え始めたのだ。それは早回し映像でも見ているみたいに成長して、砂漠を芝生で埋めていく。

 そして瞬く間に、見渡す限りの草原が生まれた。ルリが言った通りに草の香りが漂い、遠くには低木や花畑も見える。

 僕が呆気に取られていると、やがて草葉を踏み分ける足音と共に、前方から何者かの影が見えてきた。何も無い空間から、霧が晴れるようにいきなり現れたのだ。

 足音からして何かの動物に乗っているとは思ったけれど、いざ姿が現れると、それは僕が見たことの無い生き物だった。パッと見はダチョウのようなのに、足が四本あるのだ。しかも頭は山吹色の鱗に覆われていて、まるで爬虫類のようにも見える。

 その背に乗りながら手綱を握っているのは、古びた革のベストを着て弓矢を背負った青年だった。碧眼が似合う精悍な顔立ちに、蜂蜜色の無造作な短髪が風に揺れている。

 青年はダチョウに乗ったまま僕を一瞥した後、ルリに何か話し始めた。例によって僕には聞き取れなかったけれど、多分、僕のことを話しているのだろう。

 話が一段落するとルリは僕のほうに向き直り、青年のことを紹介してくれた。

「この人の名前はフィン――国中を走り回っている旅人です。私より昔からこの国にいるらしいんですけど、定住しないので滅多に会えないんですよね。フィンが近付くだけで辺りが草原に変わってしまうことから『薫風の運び手』とも呼ばれているんですよ」

 ルリからしたら普通なのかもしれないけど、なんでこの世界はこんなに不安定なんだろう? 一人の影響でこんなに景色が変わるなんて。

「ところで、この変てこな鳥は何なの?」

「ネフィーのことですね。この子はフィンの相棒なんです。そして不思議なことに、フィンとネフィーは骨が繋がっているんですよ」

「え、嘘!」

 それって不思議どころで済む話じゃないような。気になった僕はついフィンの身体をジロジロ見てしまったけれど、骨が飛び出しているとか、身体が癒着しているといった様子は無い。

 そして僕はやっと気付いた。

「あっ、骨って骨盤とかじゃないほうの……」

 どうやら、抽象的なほうの骨≠セったようだ。非常に分かりづらい。

「でも骨が繋がっているってどういう意味? 骨って、なんというか、存在そのものみたいな意味なんでしょ?」

「そうですよ。つまり、ネフィーとフィンは二人で一つなんです。以前、私が研究のためにフィンとネフィーを引き離したら、存在が消滅しそうになりましてね。非常に焦りました」

 悪びれもせずに笑いながら語っているけど、この人の感覚はどうなってるんだろう。そしてやっぱり、いきなり人間と鳥が消滅しかけるこの世界の不安定っぷりはどうかと思う。

 一方、僕とルリの会話が分からないフィンは退屈になったようで、何やらルリに声をかけた。ルリの通訳によると、特に話すことも無いからもう行く、ということらしい。

「〜〜〜、〜〜」

 ネフィーの上からフィンは僕に手を差し伸べ、何かを言った。僕が背伸びしながら握った彼の手は、滑らかでかすかに冷たかった。

 彼が去っていくのを見送りながら、僕は少し気になったことをルリに聞いてみた。

「さっきフィンは僕に何て言ったの? なんとなく『また会うことがあれば、よろしく』って言われた気がしたんだけど」

「それで合ってますよ。そこそこ研ぎ澄まされてきたみたいですね」

 ルリはちょっと嫌味っぽく「研ぎ澄まされて」を強調して言った。この調子でいけばルリたちの言葉を理解できるということだろうか。でも骨が研ぎ澄まされるって、言葉以外にどんな変化があるんだろう。

 そう思っていると、フィンが見えなくなった直後、僕はなぜか奇妙な感覚を覚えた。表面的には何も感じないのに、まるで背後からさざ波が絶え間なく打ち寄せるような、動的な気配がする。目や皮膚ではなく心の中で、草原の空気が波打っているのを感じるのだ。

 ルリに尋ねようかと思ったけれど、まずは成り行きを待つことにした。やがて草葉が小さくなり、再び砂だけの地面へ戻っていく。それは視界全体で同時に起こった変化なのだけれど、感覚としては僕の背後から前へ、草原の空気みたいな何かが去ることによって引き起こされたように感じられた。

 僕の横に立つルリが、ほくそ笑むように僕を見る。

「骨を感じるという意味、分かったようですね」

「うん、確かに。なんていうか、目に見えないバランスや色々な流れが感じられるような気がするよ」

 今までは意識しなかったけれど、今こうしている間も、この空間には色々な属性がせめぎ合っている。太陽の明るさや温かさ、空の青さや広さ、風の流動、そして大地の虚しさ。それほど明確に感じられるわけではないけれど、そういった次元が広がっていることだけは分かった。

「行きましょう。もうすぐ町に着きますよ」

 ルリが歩き出して、僕も後に続く。相変わらず風景はグニャグニャ動いているけれど、あまり違和感は無くなった。

「ところで、フィンって何者なの? 近付くだけで風景を一変させちゃうなんて」

「別に何者でもありませんよ、旅人です。サイジは気付かないかもしれませんが、彼のような力は私たちにも――いえ、全てのものにあるんですよ」

 そういうものなのだろうか? 僕やルリが周囲に影響を与えているとは思えないけれど。

「フィンのように強い力を持つものは稀ですが、骨は全ての空間に遍在してそれぞれの世界を持ち、影響を及ぼし合っています。磁石の吸引や反発を想像すると分かりやすいかもしれませんね。たとえばこの砂漠が明るいのは、砂漠そのものが光を引き寄せるからです。フィンは草原の風を引き寄せて、他の世界を上書きするほど強い力を持っています。そうやって全てのものが作り出すバランスの中に、私たちも組み込まれているんですよ。サイジが私を見ることが出来るのも、私とサイジの世界が重なり合っているからです」

 こういう話になると、ルリは本当に饒舌に喋る。情報量が多すぎて、僕の頭で全部を理解するのは無理だ。取りあえず気になったことだけ聞いておこう。

「でも、その調子だと砂漠が明るくなりすぎちゃう気がするけど」

「確かに、自己秩序化則に従えば世界中の光は最終的に一カ所へ集まってしまいますね。しかし実際そんなことは起こらず、ある程度まで秩序化が進むと途端にバランスが変化します。噂によると、完全六次元移動が可能な上位存在が調整を行なっているそうですが、今のところ観測は出来ていません」

「う、うん、なんとなく分かった」

 つまり、この世界は上手い具合に成り立っているってことなのだろう。まともに踏み込んでも謎が謎を呼ぶばかりなので、僕は理解したと決め込むことにした。

 その後もルリは歩きながら揚々と語り続けたが、内容はほとんど頭に入らなかった。入れたところで納得できるとは思えないけど。

 そんなことより僕が不思議に思ったのは、太陽の位置が変化していることだった。どうやら僕たちが向かっている方向へ向かって太陽も動いていくようで、しかも少しずつ近くなっているように見える。

 そのことをルリに尋ねてみたけれど、「町へ着けば分かりますよ」とごまかされるだけだった。後ろに影を長く引きながら、僕とルリは歩いてゆく。

 

《#3 深遠なるもの》

 どんどん低くなる太陽が地平線に差し掛かろうとした時、僕らの前へ蜃気楼のように町が現れた。民家の白い壁とカラフルな円錐型の屋根が並び、そこに太陽が沈んでいく。しかも驚いたことに、町の向こう側ではなくド真ん中に太陽があるのだ。距離が近くなったせいか、太陽はさっきよりもずっと大きく見える。

 太陽が低くなったからといって夕暮れになるわけではなく、相変わらず辺りは明るかった。なんとも解しがたい。

「見えてきましたね。あそこが私の住んでいる『太陽の町』です」

「ねえ、太陽が町の中にあるように見えるんだけど、気のせい?」

 僕からしてみればそこそこ本気なのだけど、ルリはいかにも可笑しそうに笑って答えた。

「まさか、気のせいなわけないじゃないですか。太陽があるから太陽の町なんですよ」

「だ、だって、さっきまで太陽は空にあったでしょ。僕らが歩くだけで太陽が動いてたら、この世界は滅茶苦茶になっちゃうはずだよ」

「今までの道のりを歩いて来ただけで分かるはずですが、場所が変われば世界も変わります。つまり、町の中に太陽があるのは、そういう世界だからです。私たちは歩くだけで世界を移ろっているんですよ」

 ――ということは、空に太陽がある世界と、町の中に太陽がある世界、両方が存在している? しかもその世界が無数に連なっているらしい。なんとまあ無駄に奥深い次元だ。

 

 町には特に門のようなものは無く、舗装された地面が町の領域を示していた。こんな荒地の中にある町なのに、綺麗な赤レンガが隙間も無く敷き詰められているのが不思議だ。

「まずは太陽の近くまで行ってみましょうか。この町のシンボルですから、一度は見ておくのがいいと思いますよ」

「了解。太陽を間近で見るのなんて初めてだから、ちょっと楽しみだな」

 でも、太陽ってそんなに近付いても大丈夫なんだっけ? なんか危ないような気がするけど。

 太陽へ一直線に続く大通りを進んでいると、様々な格好をした人たちがすれ違って行った。色も形も素材も、ほとんど共通点が見出せないほど統一感を欠いた服装だから、よそ者の僕がいても違和感は無さそうだ。

 そんなことより僕が気になったのは、道行く人たちの会話がちゃんと聞こえることだった。どうやら僕はもう《振動》なしでも言葉が分かるようになったらしい。

 しばらく歩き続けて、僕とルリは太陽の間近に辿り着いた。すりばち状に窪んだ地面の上で、オレンジ色のガラス玉みたいな太陽が浮かんでいる。

 空に浮かんでいる時は小さく見えたのに、いざ近くに来てみると見上げるような大きさだ。しかも意外と眩しくないし、温かさも心地良い。

 周囲を見ると、僕らの他にも太陽を眺めている人が何人かいた。日光浴でもしているのだろうか。随分のんびりした町だ。

「町の真ん中に太陽があるなんて面白いね。この町の人たちにとって太陽は大事なものなの?」

「ええ、もちろんです。太陽が近くにあるから人が集まり、町が出来たんですよ。私は他にも何カ所か集落を知っていますが、この町ほど大きな規模のものはありませんね」

 つまり太陽があると人が集まるということなのだろうか。そもそも、ここ以外にも集落があるというのは初耳だ。

「他の集落ってどんな感じ? この町とそんなに違うの?」

「まあ、色々ですね。それぞれの環境に合わせて人々が暮らしています。また暇があれば案内しますよ」

 そしてルリは入って来たのとは別の路地を指さして言った。

「そろそろ私の家に向かいましょうか?」

「うん」

 町の中心近くにあるルリの家は、他の家と同じような形で、ブドウ色の屋根が載っていた。扉は無いみたいだけど、こんな適当な世界だから必要も無いのだろう。

「ここは本当はクラインシュタイン博士の家なんですけど、私も一緒に住んでいるんです。研究の手伝いをしていますから」

 そしてルリは「ただいま帰りました」と言って家の中へ入っていった。

 博士ってどんな人だろう? ルリよりは話の分かる人だといいけど。

 家の中は二人で暮らすには狭そうなワンルームで、灯りが無いのに薄ぼんやりと明るかった。部屋の真ん中には木製のテーブルセットがあり、壁際には雑多な道具や動物の骨などが無造作に固められている。

 部屋の奥には動植物や地図が描かれた黒板があり、その横には博士らしき人が立っていた。僕に背を向けて黒板に鳥のような絵を描いているから顔は見えないけれど、白衣を羽織って白髪を垂らしたその後ろ姿はいかにも博士らしい。

「あの、おじゃましてます」

「博士、漂着者の人を連れてきましたよ」

 僕とルリが呼びかけると博士はおもむろに振り向き、僕のほうをジロジロと見た。シワ深い老顔の中で、鋭い瞳が僕に向けられている。

「ほお、漂着者か、近頃は珍しいのう。お主、名前は何じゃ」

「は、はい、サイジといいます」

「そうか、では(わし)の研究の話をしよう」

 あまりに滑らかに話を折られて、僕は言葉を失った。そして僕が失った言葉を取り戻すより早く博士は語りだす。

「差し当たって何の話をしようかの、そうじゃ丁度いい、黒鉄鳥(クロガネドリ)の話をしよう。黒鉄鳥というのはまあ言ってしまえば黒鉄鳥という鳥なのじゃが、砂漠を通ってきたなら黒鉄鳥を見なかったかの、ん、そうか見ていないか、そんなこともあるじゃろう。黒鉄鳥を観察することで黒鉄鳥の全長は黒鉄鳥の天敵である黒鉄鳥の生息域に降る豪雨を浴びた黒鉄鳥より少し重いのは黒鉄鳥の翼の材質が黒鉄鳥が黒鉄という黒鉄鳥を構成する物質を生み出しているためじゃと儂は考えているのじゃが、その原因は黒鉄鳥の羽が黒鉄鳥の特徴である黒鉄鳥が黒鉄鳥特有の高速飛行をするための特殊構造を有しているはずじゃという確信を儂に与えてくれたのじゃよ。今の話だけではお主も半信半疑じゃろう、しかしこの図を見れば(しか)と分かるはずじゃ

 一息にまくしたてた後、博士は背後の黒板を殴りつけた。そこには足と尾が無い鳥のような生き物――おそらく黒鉄鳥なのだろう――の絵が描かれているが、何も分かりようが無い。そもそも半信半疑にさえ至っていないのだけど。

 僕が返答に困っているのも気にせず、博士はさらに語り続けようとした――が、それより早くルリが口を挟んだ。

「博士、立ち話も何ですから取りあえず座りましょう。そしてその黒鉄鳥の絵は未完成です、足と尾羽がありません」

 僕は何か言いたい気分だったけど、ともあれルリのおかげで助かった。テーブルに就いた後、ルリが博士のことを紹介してくれた。

「こう見えても博士は凄い人なんですよ。とても研究熱心で聡明で、自己秩序化則や骨干渉理論を完成させた偉人です。私は占いやフィールドワークで研究を手伝っているのですが、やっぱり博士の頭脳が無いとダメですね」

 彼女にしては珍しく熱心に語っているあたり、それだけ博士のことを尊敬しているようだ。人格には問題あれど、優れた研究者なのだろう。

「ていうことは、結構な有名人なんだ。本を出したり」

「いえ、本の出版はしていません、この世界には文字自体がありませんから。博士の研究内容を理解できるのは私ぐらいですし、町の人たちからは単なる怪しい変態老人だと思われているようです」

 うん、実に的確な表現だ。もしもルリという理解者がいなかったら、紛れも無く単なる怪しい変態老人だろう。しかしそんなことをそつなく言ってしまうルリもどうかと思う。

「しかし変態は良いとしても老人とは心外じゃな。儂はルリより若いし、この国に来たのも後じゃぞ」

「えっ?」

 僕は驚きのあまり、思わず聞き返してしまった。てっきり博士のほうが先にこの国に住んでいるのかと思っていたけど、違うらしい。

「確かに私のほうが博士より先ですね。しかも、この国に来たばかりの博士は私よりも小さかったんですよ」

「ええっ?」

 もうワケが分からなくなってきた。この国にいると時空さえ歪むのか。

「あの頃の博士は可愛い男の子だったんですけどね、骨が研ぎ澄まされたら徐々に老け込んで、服も変わっていつの間にかこんな姿に成り果てていました」

 可愛い男の子がこんな皺だらけのおじいさんになってしまうなんて、どこまで理不尽なんだ。もしかしたら僕も近いうちにこうなってしまうんだろうか。

「ところで、この家には食べ物が見当たらないね。いつも何を食べてるの?」

「いえ、何も。この国の人たちの多くは食事をしませんよ。ものを食べることは道楽ですからね。フィンが言うには黒鉄鳥の肉が美味だそうですが、私のような人間からすると興味は無いんです」

 そういうものなのだろうか。まあ別に僕は食いしん坊でもないから構わないけど。

 一方、博士は黒鉄鳥と聞いて何か思い出したようで、再び黒板にかじりついて忙しく絵を描き始めた。描き上がったらまたうるさくなるだろうから、それまでに退散しようか。

「長居するのも悪いからそろそろ失礼しようかと思うんだけど、僕はどこに行けばいいんだろう? どうやったらこの町に住めるのかな」

「ああ、それなら待てばいいんですよ。この町にいればそのうち勝手に家が生まれるはずです」

 なるほど、そうなのか。勝手に家が生まれるとは、よく考えてみると無茶苦茶な話だけど、あまり変には思わなかった。僕も少しずつ感覚が麻痺してきたようだ。

「じゃあ、適当にこの町で過ごしてればいいんだね」

「そういうことです。私は基本的にここで研究をしていますから、分からないことがあったら聞きに来てください」

 そういうわけで、僕はルリと博士の家を後にした。と言っても、特に行くあても無いから、適当に町の中をうろつくことしか出来ない。

 それからしばらくは、太陽の近くで日光浴をしたり、町の人と喋ってみたり、ルリの案内で町の外を探検したりしていた。なんとなく分かってはいたけど、この町には朝昼が無いらしい。だから何日が経ったという感覚も無く、時間ばかりがよどみなく流れていった。

 時々、黒くて角ばった鳥が空を横切っていった。あれが噂の黒鉄鳥だろうか。もちろん、足も尾羽もちゃんと付いていた。

 

《#4 (あざな)われるものと(しりぞ)るもの》

 あれからしばらく経ち、僕が住む家は本当に見付かった。いつの間にかルリの家の近くに見覚えの無い家――といっても見た目は他の家と大して変わらない――が増えていて、そこが僕の家だったのだ。

 最初はなんだか変な気持ちがしたけれど、そこは確かに自分でも疑いようの無いぐらい僕の家だった。もう昔みたいに深く考えることはせず、僕はそこに住むことにした。

 ハンモックが三つ吊り下がっているだけの変な家だけど、居心地は悪くない。腰掛けるとユラユラ揺れて、不安定だけどいい気持ちだ。実際のところ、僕が家の中ですることなんて休憩か考え事ぐらいだし、この家は充分に役割を果たしている。

 そんなことより驚いたのは、僕の着ている服が少しずつ変化していることだった。いつの間にか上着の合わせ目は開いてボタンが無くなり、袖や裾が伸びてヒラヒラのガウンみたいになっている。ズボンの色合いは青っぽくなり、シャツのボタンは紐に変わっているし、ネクタイは形が歪んでネッカチーフみたいだ。

 どことなく魔法使いになれそうな感じがする。ちなみに身長も少し縮んでルリと大差なくなった。子供みたいな身体になってしまったのは少し複雑な気分だ。博士みたいに老化してないだけマシなんだろうけど。

 そして、この町での生活にも慣れたある時のことだ。僕がハンモックにくるまっていると、聞きなれた少年の声が聞こえてきた。

「おはようサイジ! いまヒマでしょ、遊びに行こうヨ」

 僕はハンモックの上で身を起こし、宙返りのように床に下りる。玄関のほうを見ると、僕より少し年下ぐらいな少年の上半身が浮かんでいた。

 彼の名はジギタ――近くの家に住んでいる少年だ。ジギタは下半身が煙のように薄まっているから幽霊みたいだけど、実際その正体は判然としない。こげ茶色の髪の間からは狐みたいな耳が生えているし、目は一つ目小僧みたいな単眼だし、上半身には服の代わりの包帯が無造作に巻かれているし、しかも背中では小悪魔のような翼が緩慢に羽ばたいている。ハロウィンだったら一人で何役もこなせそうだ。

 僕やルリにとってジギタは弟分で、ときどき一緒に出掛けたりしている。腕白で生意気な子だけど、年が近い――少なくとも外見上は――ので意外と気が合うのだ。

「でもジギタが一人で来るなんて珍しいね。ルリは?」

「それがルリの奴、忙しいからって構ってくれないんダ。まったく、偉そうにしちゃってサァ」

 ジギタは不満げに口をとがらせた。ジギタは厄介な性格で、自分の思い通りに人を振り回さないと気が済まない性質(たち)なのだ。

 どうしようかと考えていると、早くもジギタが腕に纏わりついてきた。

「どっか行こうヨォ、サイジの知らないとこ連れてってあげるからサ」

「そんなこと言っても、僕はもう近場はだいたい行ったことあるよ」

 これは言い訳じゃなくて本当だ。暇な時にルリが町の外を案内してくれたおかげで、僕は多少なりともこの辺りの地理が分かってきたのだ。

「空喰い湿地は行った?」

「行ったよ。足を踏み外して泥だらけになった」

「埋み火の森は?」

「そこも行った。ルリとはぐれて焼け死にそうになったけど」

「うーん、意外と危険なところにも行ってるんだネェ」

 ジギタは僕をどこに連れて行こうか迷っているらしく、耳を傾げながら首を傾げている。しばらくして、ジギタは何か思い当たったように柏手を打った。

「あっ、そうだ。狭間の闇には行ってないんじゃない?」

「それは聞いたこと無いな。まだ行っていと思うよ」

 ジギタは予感的中とばかりに喜び、何度かトンボ返りをした。僕としても、知らない場所を案内してもらえるなら大歓迎だ。

「狭間の闇へ行くには、橙の大通りを抜けて、真っ直ぐ歩くんだヨ。砂漠を抜けるちょっと手前にあるのサ」

 橙の大通りは町の中心から放射状に伸びる道の一つで、僕たちの家とは反対側だ。

 砂漠の中にあるということは、思っていた以上に近い場所らしい。

「あ、そこってもしかして、凄く危険な場所だったりする?」

「どうだろう、危険ってもんでもないと思うヨ。ちょっと暗くて怖いところだけどネ」

 ジギタは平気で人を騙すような性格だから少し心配だけど、まあ大丈夫だろう。さすがに命までは取らないはずだ。それに実際、家の中にいるよりはジギタと出かけたほうが面白いと思う。

 

 そういうわけで、僕とジギタは家を出て歩き始めた。僕たちの家がある紫の大通りを抜けて、太陽の向こうにある橙の大通りを行く。

 その間、僕はジギタが勝手なことをしないように注意を払わなければならなかった。ジギタはちょっと目を放すとすぐ通行人をくすぐったり、包帯を引っ掛けて目隠ししたりするのだ。人が驚く顔や困る顔を見るのが好きらしい。

 そしてしばらく歩くと向こうに砂地の褐色が浮かび上がり、町の終わりが見えてきた。

「ここから真っ直ぐ行けばいいんだね?」

「そうだヨ」

 僕はレンガ舗装と砂地が混ざった町外れに立ち、改めて前方を見回した。目の前には乾いた大地が果てしなく広がり、砂と空と風以外は何も見えない。もちろん狭間の闇らしきものも見えない。ジギタが言うには「近付けば分かる」ということだけど。

 いざ歩き出してみても、闇らしきものはなかなか見えてこない。ジギタは悪戯を仕掛ける人がいなくてつまらないのか、クルクルと(きり)()みしながら僕の周りに浮遊している。

「サイジ歩くの遅いヨォ。魔法で空とんだりできないノ?」

「悪いね、魔法使いっぽいのは格好だけなんだ。ていうか、なんでジギタだけ飛べるのさ。そんな飾りみたいな翼なのに」

「さあネェ。僕もいつの間にかこの格好になってたし、ずいぶん昔のことだから分からないや」

 いつの間にかって、足が無くなっても気付かないものなのか。色んな意味でフワフワした奴だ。

 しばらく歩いていると、遂に砂漠の果てが見えてきてしまった。砂漠の向こうには、空喰い湿地の緑色が見える。あそこは重力を無視して水が(うごめ)く広大な沼地だ。

「もう砂漠は終わりだよ。どっかで道を間違えたんじゃないの?」

 しかしジギタには確信があるようで、意地悪な笑みを浮かべながら一つ目で僕を流し見た。

「そんなことは無いヨ。このまま進めばいいのサ」

 ジギタの言葉に従って、僕は前へ歩き続ける。そして何歩か進んだその瞬間、僕は突然の変化に思わず悲鳴を上げてしまった。

 視覚が完全に無くなった。

 何も見えない暗闇に全てを覆われてしまったのだ。本当に真っ暗なものだから、自分の手さえ全く見えない。

 方向も分からないほどの暗闇は純粋な恐怖だ。このまま永遠に闇の世界から出られないんじゃないか――そんな錯覚を覚えさせる。

 僕は緊張しながら一歩下がった。すると僕の視界には元通りの砂漠と湿地が映り、さっきまでの暗闇なんて影も形も無くなった。

「どう、驚いた? これが狭間の闇だヨ、面白いでしょ」

 ジギタの能天気な声に、僕はすぐ答えることが出来なかった。声が震えそうになるのをこらえて、なんとか言葉を返す。

「ああ、ビックリした。いきなり真っ暗になるなんて、こんなの初めてだ」

 僕はこの国にしばらく住む中で、次元の重なりみたいなものを多少は知覚できるようになっていた。目に見えなくても、誰が近くにいるとか、空間がずれているとか、骨で感じることが出来るのだ。だけど今の暗闇は変化の気配を欠片ほども感じられなかった。いつもの生活で何気なく頼っていた知覚が、全く通用しない。

 ジギタは僕の反応が愉快だったのか、舌を出しながらケラケラと笑っている。多分、彼にはこうなることが予想できていたのだろう。

「ほら、もっと闇の奥まで歩いてみなヨ。狭間の闇の元凶が見えるはずだからサ」

 つまり、この闇の中に誰かいるってことだろうか。とてもそうは思えないけど、そう言われたらどうしても気になってしまう。

 ジギタに言われるまま、僕はもう一度、狭間の闇に足を踏み入れた。やはり一瞬で視界が闇に覆われ、何も見えなくなる。

 ――大丈夫だ。冷静にしていれば方向を見失うことは無い。何かあったとしても、後ろに下がれば闇を抜けられるんだ。

 僕は一歩一歩、前へ歩き出した。だけど、どうしても足取りが重い。この先へ進んではいけないと、僕の骨が叫んでいる。闇が僕を拒絶しているのだ。それでも、前へ進む意志を強く持てば抗うことは出来る。ゆっくりと、しかし確かに、僕は歩き続ける。

 しばらく経つと、前に何かが見え始めた。相変わらず真っ暗な中で、前方の一点だけに何かの姿が浮かび上がってくる。

 ――鎧だ。重たそうな銀色の板金鎧(プレートアーマー)を装備した子供が、膝を抱えて座っていた。跳ね上げられた面甲の下には、泣きそうな女の子の顔が見える。彼女は僕を見ることも無く、ただ微動だにせず(うつむ)いていた。

 ジギタの言う分には、あの少女が暗闇の元凶らしい。だけどむしろ僕には、彼女がこの暗い世界に囚われているように見えた。

 少し後ろのほうから、ジギタの声が聞こえてきた。

「あれが狭間の少女だヨ。あの子の骨は、この国にあるもの全てを拒絶しているんだ。だから、どこにも居場所が無くて、ずっとここに閉じこもってるのサ」

「ずっと?」

「うん、ずっと昔から。僕やルリが骨の国に住み始めるより前からいるんだからネ」

 ジギタの言葉を聞いて、僕は愕然とした。彼女は、この何も無い闇の中で、孤独な時間を過ごし続けてきたというのだろうか。

 それはきっと、僕たちには想像も付かないほどの苦しみだろう。いや、もしかしたら彼女にはすでに感情さえ残っていないのかもしれないけれど、それでも僕は納得なんか出来なかった。こんな救われない話があっていいはずが無い。

 ガラでもないけれど、僕は自分の胸に込み上げる感情を抑えきれなかった。

「待っててくれ。僕が、君を助けるから」

 僕は意志を固めて、少女のもとへと踏み出した。闇の圧力が僕の骨に働きかけ、追い払おうとしてくる。心と身体がバラバラになるような、凄く嫌な感じだ。

 後ろから再びジギタの声がする。

「やめたほうがいいヨ。狭間の少女を助けることなんて、誰にも出来ないんだ」

「いやだ! 僕はやってみせる」

 自分を奮い立たせるように言い切って、僕はさらに歩みを進めた。しかし僕の骨に加わる斥力は強まっていき、ついには僕の進む意志と完全に拮抗してしまった。どうしても、前に進むことが出来ない。

 ついに僕の心は揺らぎ始め、もうどこか遠くへ行ってしまいそうだった。

 その時、僕の首に何かが触れた。見えないから分からないけど、ジギタが腕を絡めてきたようだ。ジギタの腕の包帯が薬っぽい匂いを漂わせ、僕は少し冷静になった。

 僕の耳元で、ジギタが語りかけてきた。

「サイジ、よく見て、あの子は苦しんでるヨ」

 言われて見ると、少女は座り込んだまま肩を震わせていた。低い呻き声も微かに聞こえてくる。

「誰かが近付くたびに、あの子の骨はそれを拒絶して軋むんだ。無理に近付いたりしたら、何が起こるか分からないヨ。骨がバラバラになって、存在ごと消滅しちゃうかも……」

 確かに少女は苦しんでいるように見える。僕がどんなに頑張っても、彼女を苛めるだけなのだろうか。

 ここで無理を通すだけの勇気は、僕には無かった。僕は彼女に対して何の責任も持てないし、持とうとも思えない。仕方のないことなんだ。

「分かった、もう諦めるよ」

「それでいいのサ、それでネ」

 ジギタの腕がほどけて、気配が消える。僕は少女をしばらく見つめた後、背を向けて歩き出した。

 最後に少し見えた彼女の顔は苦痛に歪み、その瞳は何も見ようとしていなかった。ただ虚ろに、涙を溜めていた。

 狭間の闇を抜け出すと、途端に砂の輝きと太陽の光線が僕の目を刺す。なんだか、狭間の闇の中で見たものは全て夢で、今やっと現実に立ち返ったような、そんな感じがした。

 目の前にはジギタが浮かんでいて、いかにも愉快そうに、大きな瞳で僕の顔を覗き込んだ。

「どう? 面白かった? 他じゃこんなの見れないヨ」

「まあね」

 僕はジギタにおざなりな返事を返して、そのまま歩き続けた。早くこの場所を離れたくて仕方が無かった。

 

 太陽の町へ戻ってくると、大通りでルリに会った。どこへ行くのか聞いてみると、湿地のほうに翡翠カワセミの飛来を察知したから観察に行くのだとか。忙しい人だ。

 ジギタは嬉しそうに笑い、ルリの周りをクルクルと旋回している。

「じゃあ僕も行きたいナァ。楽しそうだからネ」

「まあ、邪魔をしないなら構いませんよ。ところで、サイジを連れてどこに行ってたんですか?」

「狭間の闇だヨ。サイジがどんな面白い反応するか見たかったノ」

 僕が目の前にいるというのに、よくもまあ悪びれず言ってくれるものだ。そればかりかルリも平然と笑って聞き流しているし。

「それは丁度よかったです、近いうちに私から案内しようと思っていたところですから。まあ別に見て楽しいものでもないでしょうけど」

 ルリは微笑んでいた。控えめだけど混じり気の無い、いつものルリの笑顔だ。ジギタは背後霊のようにルリの肩に乗ってはしゃいでいる。

 僕はどうしても、そんなルリやジギタの姿に違和感を覚えてしまう。狭間の少女が闇の底で(うずくま)っていても、ルリたちにとっては当たり前のことなのだろうか。

「どうしたんですか? 顔が変ですよ」

 ルリの言葉に僕はハッとした。無意識に苦い顔をしていたようだ。

「いや、ちょっと悩んでることがあってね」

 何のことか分からず、ルリはキョトンとしている。

 こんなことでいちいち悩むなんて、もしかして僕がおかしいのだろうか。ルリたちのように順応して、笑っていればいいんじゃないかとも思えた。

 でもせめて、僕が今の僕でいるうちに、聞くべきことは聞いておきたい。

「ねえルリ。狭間の少女って、誰かが助けることは出来ないの? ルリなら何か出来るんじゃないかと思ったんだけど」

 ルリには僕の質問が予想外だったようで、しばらく口を噤んで考え込んだ後、おもむろに言った。

「まあ、無理でしょうね。私の能力(ちから)は観測が主ですし、《振動》を使っても狭間の少女には届きませんから。ところで、サイジは彼女をどうしたいんですか?」

「え、それは、出来れば僕たちみたいな普通の生活が出来るようにしてあげたいけれど」

 その時、ルリの表情が翳った。同情するような、そんな表情だった。

「サイジ、あなたも彼女も私たちも、同じなんですよ。みんな収まりのいい場所を探しながら生きているんです。ただ、狭間の少女にとって、その場所は狭間でしかありえなかった、だから彼女は狭間の闇を生み出した――それだけのことです」

 そしてルリは遠い目をしながら続けた。

「本来ならば、彼女の骨はいつ消滅してもおかしくない状態なんですけどね。拒絶という要素のみで成り立っているようなものですから。それでも彼女は自我に固執し、消滅を恐れ、骨の形を保ち続けているんです」

 その言葉を聞くと、僕はなぜだか、狭間の少女に少し共感できるような気がした。でもそれは霧みたいに掴み所の無い感覚で、何が僕をそんな気持ちにさせるのかは分からない。

 心のどこかで、闇に包まれた僕が恐怖に震えながら叫び、次の瞬間には薄まっていった。きっと、僕はもうすぐこの感覚を忘れてしまうのだろう。

「ありがとう、ちょっと気が楽になったよ。じゃあね、ルリ、ジギタ」

「はい、どういたしまして。また会いましょう」

「帰ってきたらまた遊んでネ! じゃあルリ、早く行こうヨ」

 僕は手を振ってルリたちと別れた。後は帰るだけだ。

 帰る途中で博士の家を覗いてみた。博士は青緑色に透き通った羽根を手に持って、色んな角度から眺めている。邪魔すると面倒なことになりそうだから素通りした。

 家に帰って、一番高い場所のハンモックに寝転がる。やけに天井が近く見えて、変に圧迫感があった。

 僕は何か悩んでいたような気がする。狭間の少女のことを。でも、今はもう悩みが遠ざかって、心地良く感じられた。

 ――僕は、僕の生き方をしていれば、それでいいんだ。

 

《#5 揺るぎないもの》

 なんというか最近、生活スタイルが安定してきたというか、同じような日常を繰り返している気がする。ルリやジギタと遊んだり、ハンモックでくつろいだり、日光浴をしたり。それを苦痛に感じる精神もかなり鈍麻してきたけれど、たまには変化が欲しくなる。

 そういうわけで、僕はルリの家に行って相談してみた。

「うーん、変化ですか。でも、思い付く限り案内すべきところは回っちゃいましたし。何かありませんかね」

 すると不意に、部屋の奥にいた博士が振り向いた。

「おいルリくん、あれがあるじゃろう、君は君たちが君の占いによれば百面回廊の向こうにあるという森へ行ってみるべきじゃと思うのじゃ」

 百面回廊というのは、砂漠の隣にある巨大な迷宮だ。僕は行ったことが無いけれど、僕が最初に漂着した場所の向こう側にあるらしい。

 僕には何の話かサッパリだけど、ルリは納得げに手を打った。

「ああ、あの森ですか。確かに、早いところ調査に行ったほうがいいかもしれませんね」

 ルリが言うには、随分前から百面回廊の向こうに森が出来てるらしい。そこには、この町ほどではないにしろ人が生活しているそうだ。

「しかも奇妙なんです。私はこの国の様々な事象を占いで観測してきましたが、あの森に関しては、どうも得体が知れません。漂着者が来た時のような、異質な感じがするんです」

「この国に漂着しながら骨以外の概念が残っているのじゃとすれば、実に興味深いのう。異世界の事物を拝めるかもしれん」

 博士は長いヒゲをひねりながら、愉快そうに笑っている。言われてみると、僕も興味が湧いてきた。別の世界の文化が見れるなんて、普段はあり得ないことだ。

「面白そうだなあ。僕も付いて行っていいんだよね?」

「もちろんです。じゃあ行きましょうか」

 そうして僕たちが家を出ようとした瞬間、僕は強い衝撃を顔面に受けて倒れ込んだ。水平になった僕の上から騒がしい声が聞こえる。

「抜け駆けなんて駄目だヨ! 出かける時は僕にも声かけてってば」

 ジギタが僕の頭上に浮かんでいた。幽体のくせに突進してくるとは、あなどれない奴だ。しかも結構な威力があったようで、起き上がると背中が痛んだ。

「痛いなあ。大丈夫だよ、ちゃんとジギタも誘うつもりだったから」

 実際のところジギタのことは忘れていたんだけど、まあいいや。そういうわけで、三人で行くことになった。

 

 砂漠を歩いている間は特に何も無く、やがて僕たちは百面回廊に着いた。百面回廊の話はルリから何度か聞いていたけれど、実際に目の前に見ると圧巻だ。

 大きな白い立方体が無数に組み合わさり、終わりが見えないほどの巨大な塊を形作っているのだ。僕たちの前には、ちょうど四角い入口が開いている。一見すると無造作に組み立てられた穴だらけの迷宮だけど、人が入れる大きさの穴はこの入口だけのようだ。

 百面回廊は骨の分布が不規則なため、中を歩くだけで構造が変化するのだそうだ。そのため、この迷宮を突破することは困難――あるいは不可能とも言われていた――であり、人の往来を阻んできた。しかしついこの間、ルリが経路を解き明かしたことで、向こう側の森へ調査に行くことが出来るようになったのだ。

「では、行きましょうか。私の後についてきてください」

 ルリが先頭を歩き、僕とジギタが後に続く。そして僕たちは百面回廊の中へ踏み入った。

 回廊を構成する立方体は、見た感じは紙のような質感だけど、触ってみると意外に硬い感触が返ってきた。足場も全て同じもので出来ているようだ。

 奥へ歩いていくと、確かに回廊の形が目に見えて変わっていく。頭上を立方体が動いたり、塞がっていた場所が開いて道になったりして、さっき入ってきた場所はすでに塞がっていた。でもこの変化は可逆的なものだから、経路を覚えておけば閉じ込められることは無いらしい。

 ちなみにジギタは相変わらずフワフワ飛び回っていたけれど、ルリより先に進もうとして立方体に頭を打ってからは懲りたらしく、僕の後ろに並んだ。

 ルリは迷うことなく、どんどん進んでいく。何も無いところをよけたり行き止まりに向かって歩いて行ったり、ずいぶんと直感に反する進み方だ。もちろん立体の迷宮なので、段差を登ったり下りたりもする。無闇に歩いて足を踏み外せば落下もするだろう。

「普通に歩いてたら絶対に出られないね、これ。ルリはどうやって正しい道のりが分かったの?」

「そんなに難しくありませんよ。占いを使えば骨の重なり合いが感じられますから、私にとっては普通の立体迷路と同じです。それでも結構苦労しましたけど」

 僕は改めてルリの凄さを実感した。この国で暮らすうちに僕も多少は骨の感覚を会得したけれど、ルリのように世界の重なりを完全に把握することは出来ない。この複雑に重なり合った百面回廊の空間を認識できるあたり、ルリの感覚は特殊能力と言える代物なのだろう。

 しかし一向に出口が見えてこないから、正しい道を進んでいるのかもよく分からない。ジギタは早くも飽きてきたようで、不満げな顔になってきた。

「行ったり来たり面倒だなァ。フィンでも連れてきて真っ平らな草原にしちゃえばいいんじゃないノ?」

「無理ですよ。さすがのフィンでも、これだけの規模の造形物を打ち消すなんて出来ません。回廊の床に草ぐらいは生えるかもしれませんが」

「なんだい、それじゃ余計に歩きづらいだけじゃないカ」

 ――どうせ歩かないくせに。

 

 しばらく進むと、前に出口が見えてきた。ずっと歩き続けてもかなりの時間が掛かったので、太陽の町に匹敵するほど広い迷宮だったのだろう。

 出口をくぐって前方を見ると、目的地の森があった。確かに、多くの人が住めそうなぐらいの大きさはある。

「では、行ってみましょうか。どんな場所なのか分かりませんから、気を付けてくださいね」

 そして僕たちは森へ向かって歩きだした。

 

 いざ森へ入ってみると、意外に普通の森だった。生えている木は普通のものだし、それほど密生しているわけでもないから歩きやすい。

「なんか拍子抜けだね。何も無いじゃないか」

 僕がそう言ったその時、いきなり耳元で声が聞こえた。

「何も無くてごめんなさいね」

 ルリやジギタとは違う、女性の声だ。僕は思わず悲鳴を上げて尻もちをついた。

「ひどいです、そんなに驚かなくても……」

 僕が慌てて見上げると、彼女の姿が目に入った。黒髪を長く伸ばした生首が、陰鬱な顔をして浮かんでいた。その姿に再び驚き、僕はまた悲鳴を上げそうになった。

 なんだ、ここはオバケの森だっていうのか?

 一方、ルリとジギタはそれほど驚かなかったようで、平気そうに話している。

「この森の住人でしょうか? なんだかジギタと似ていますね」

「確かに、浮いてるもの同士だネ。仲良くしようネェ」

 初対面だってのに、この二人は随分と積極的だ。一方、生首の人は二人の勢いに戸惑っていて、なかなか話が進まない。少なくとも、僕らに危害を加えるわけじゃないみたいだ。

 この人の名前はキッコというそうで、この森に住んでいるらしい。他の住人は森の奥に暮らしているけれど、彼女は退屈になって散歩に出てきたのだとか。

 服に付いた泥を払いながら、僕も会話に参加した。

「この森の奥に人が住んでいるの?」

「ええ、そうですよ。ほら、みなさん、聞こえませんか。森の奥のほうから、賑やかな音が」

 言われて耳を澄ましてみると、確かに、何かを叩く力強い音や、風のようなか細い音が聞こえてきた。

「この森は賑わいの森と呼ばれています。音を辿って森の奥へ行けば、住人たちが沢山いますよ。他の人たちはちゃんと首から下もありますから、ご安心ください」

 彼女からしたら冗談を言って照れ笑いをしたつもりなのだろうけど、元の顔が暗いせいで、怪談話のオチでも聞いたような気分だ。若干の沈黙が流れた後、キッコは何か思い出したように語りだした。

「あ、そうだ。この森のことを知りたいなら、ヤグラという人を尋ねるのがいいと思いますよ。いま聞こえている太鼓を叩いている人です。あの人はこの森の最古参ですから」

「うん分かった。助かるよ」

 そしてキッコは散歩の続きをと言って去って行った。さっきも思ったけれど、歩いてないのに散歩なのだろうか。

「取りあえず、言われた通りに奥へ行ってみようか」

「なんだか賑やかで面白そうだなァ。早く行こうヨ」

 気分がノッてきたのか、ジギタは意気揚々と進んでいく。僕とルリもその後に続いて、森の奥へと歩き出した。

 歩くうちに少しずつ音が大きくなってきた。これはきっと、笛と太鼓の音だ――今までは何だか分からなかったけれど、今は確信めいている。かすかに歌声のようなものも響いてくるようだ。

 こずえの間から覗く空は徐々に赤ばんだ暗みを帯び、森の中は薄闇に充満された。そしてなぜかルリやジギタの姿はうっすらと微光を纏い、森の景色と調和して溶け込んでいく。

 そしてもう一つ、僕は妙な違和感に気付いた。森の奥へ近付くほど、僕の骨がおかしくなってきたような気がするのだ。今まで確かな骨の感覚で支配されていた心に、ノイズが流れ始める。だけど不思議と、嫌な感じはしなかった。

 ルリとジギタにも聞いてみたけれど、この不思議な骨の感覚は僕だけのようだ。なんだろう、森の奥へ行ってみれば何か分かるのだろうか。

 しばらく歩くと、いよいよ笛太鼓の音が大きくなり、もうすぐ住人たちのいる場所へ辿り着くらしい。先頭を行くジギタが叫んだ。

「見て! 森の奥に光が見えるヨ!」

 確かに前方は(ほの)かに明るみ、いくつもの歩く人影が見えた。人々が話しているざわめきも聞こえる。

「では行きましょうか。キッコさんの話によれば友好的な人ばかりのようですし」

「そうだね、行ってみよう。なんだか僕はさっきから、胸がザワザワして仕方が無いんだ」

 僕たちは森の暗がりを抜けて、明るみに出た。するとそこは広場のような空間で、頭上では暗赤色の黄昏に色とりどりの淡い光が浮かんでいる。紙のようなもので光源を覆った照明がそこかしこに吊るされているらしい。闇と光が神妙に混じり合ったこの空間では、全てのものが調和ある一つの景色になっていた

 奥の方に高い(やぐら)が見える以外に大きな建物は無いけれど、木や布で作った小さな屋台がいくつか並び、その間を様々な人が行き交っている。老若男女さまざまで、長着を布帯で締めている人が多く見えた。

 涼やかな青色の長着を纏った黒髪の女性。白装束とカーキ色の帽子を身に着けて楽器を吹き鳴らしている壮年男性。お面を被ってカラカラと履物を鳴らしながら走り回る子供たち。さらには、蜘蛛に人間の頭が付いたような女性や、身体の大半が鱗に覆われた少年など、明らかに人間離れした人もいた。

 なんだかみんな楽しそうに、談笑をしたり玩具で遊んだりしている。確かに、このガヤガヤした感じは賑わいの森と呼ぶに相応しい。

 僕たちも中に入ってみると、人込みに囲まれて楽しい気分になってきた。ジギタも興味津々であちらこちらへ視線を走らせている。ルリは騒がしさが性に合わないそうで、少しげんなりした様子だった。

 ところで、さっきから鳴っている笛太鼓の音はどこから聞こえてくるんだろう? そう思って探してみると、どうやら奥に見える櫓の辺りで演奏しているらしい。

「あの櫓のところに行ってみよう。何かやってるのかも」

「うう、なんだか騒がしそうですね。まあ調査のためですから行きますけど」

 そうして広場の奥を目指しながら、僕たちは人々の様子を観察していた。

 屋台では食べ物や玩具を扱っているようだけど、お金の概念は無いそうだから、売るのではなく配っているのかもしれない。むしろ屋台よりも、敷物と卓を置いてボードゲームや腕相撲などの遊び場になっている場所が多い。中には見物客が集まっている遊び場もあって、ときどき歓声が上がったりする。

 いつの間にか、ジギタは笛のような玩具を持って遊んでいた。巻き上げられた紙筒に息を吹き込むと、紙筒が伸びて同時に音が鳴る仕組みらしい。

「ジギタ、その笛どうしたの?」

「いつの間にか持ってたんだヨ。面白いなァ、これ」

 ジギタはよっぽど気に入ったのか、何度も吹いてピーピーと鳴らしている。

 そういえば僕も、いつの間にか紙製の灯りを手に持っていた。服装も少し変わったようで、全体的に丈が短くなっている。ところ変われば品も変わる、ということだろうか。

 近くまで来てみると、どうやら櫓の周りでは人々が幾重にも集まって踊っているらしい。櫓の上では太鼓や笛が鳴らされ、何人もの人が歌声でリズムを取っている。

 踊っている人々の外側で、僕たちはその様子を見ていた。誰もが活き活きと踊っているさまを前にすると、僕はなぜだか胸を締め付けられるような気持ちになった。この森に来る前の僕は、自分の心が満たされていると信じていたのに、今ではさっきまでの自分が偽物のように感じるのだ。

 音と光と人々の動きが作り出すその光景は、ともすると僕に懐かしさのような感情を抱かせる。特に、櫓の上で太鼓を叩いている青年――おそらくヤグラさんだ――の一心不乱な姿に対しては、感動や畏敬さえ覚えた。

 自身の記憶に反して、僕はこの光景を昔から知っているような気がした。不思議なことだけど、この曖昧な感覚はもはや確信に近い。

 ルリやジギタに聞いてみても、こんな気持ちになったのはやはり僕だけらしい。特にルリは、いつも以上に感覚を閉ざされる気がすると言っている。

 ちなみに、ジギタは踊りに参加したそうにしてたけど、絶対に騒ぎを起こすので制止しておいた。心ばかりの抵抗としてずっと笛をピーピー鳴らしてたけど。

 ひときわ大きな太鼓が鳴らされ、音楽と踊りが終わった。人々は櫓の上の人たちへ称賛を送りながら、散り散りに離れていく。

「よし、ヤグラさんに会いに行ってみようか。話を聞いてみないと」

 僕たちは人混みをかきわけて櫓の下に行き、下りてきたヤグラさんに声をかけてみた。

「あの、すいません、あなたがヤグラさん?」

「ああ、そうだが、俺に何か用かい」

 ヤグラさんは手ぬぐいで汗を拭きながら、気さくな表情を向けてくれた。短い角刈りの頭に鉢巻を巻いた、爽やかな好青年といった感じだ。

 この国に文字は無いはずなのに、彼が羽織っている上着には祭≠ニ書いてあった。字の意味は分からないけれど、いつかどこかで見たことがあるような字だった。

「僕たちは、この森のことを調べるために来たんだ。ヤグラさんに尋ねるのがいいってキッコさんから言われたんだけど」

「ほう、この森を調べに、そりゃあ珍しいな。どこから来たんだい」

「あの迷宮の向こうからだよ。向こう側には砂漠があって、太陽の町っていう町があるんだ」

「やっぱりそうか。実際のところ、この森に来るやつは皆あの迷宮を越えてくるんだ。記憶を無くした状態でな」

 ヤグラさんが言うには、この森には最初はヤグラさんしかいなかったらしい。それから彼は僕たちにこの森の成り立ちを話してくれた。

 この国にヤグラさんが漂着した時、ここには何も無かったそうだ。見渡す限り無人の荒野に、今とは違う壮年の姿で彼は立っていた。記憶も無く、何も分からず、とにかく物足りなさを感じていたらしい。

 しかしやがて、何時(いつ)とは無しに森が生まれ、櫓や屋台が現れだした。それぐらいの頃から、彼は独りきりで太鼓の打ち手になったそうだ。

 そして何時しか太鼓の音色は人々を呼び、どこからともなく様々な人が住み着くようになった。みんな彼と同じように記憶が無く、物足りなさを感じていたらしいが、人が増えるにつれてそんな感情は消えてしまったそうだ。

「じゃあヤグラさんは、ずっと昔からここで太鼓を叩いていたんだ」

「そういうことだな。俺は太鼓を叩いてる時が一番楽しいんだ。きっと何かしら太鼓に縁があるんだろうな」

 そう言って彼は威勢よく笑った。やはりどこか懐かしい、見覚えのある笑顔だった。

 ジギタは退屈そうに長話を聞いていたけど、ルリは調査だけあって真剣な顔をしている。うつむいてしばらく考えた後、彼女はおもむろに語り始めた。

「漂着者が別の世界の住人であることは既に定説となっていますが、どうやらヤグラさんは、以前の世界での性質を色濃く残しているようですね。言うなれば骨以外の部分が消えずに残っているということで、それゆえに太鼓打ちとしての性質を保ち続けていられるのでしょう。しかし、この国においては不安定な概念を維持し、さらには人々を引き付けて一つの文化圏を形成するなんて、驚嘆に値することです。きっとヤグラさんは、前の世界でも太鼓に対して強い執着を持っていたのだと思います」

 相変わらずルリの話は意味深長だ。ジギタはすでに眠りかけている。

 ヤグラさんは時々相槌を打ちながら真面目に聞いていたけれど、骨だとか世界だとかの話はよく分からないのか怪訝な顔をしていた。しかし太鼓に強い執着を持っていたということは納得したようで、「まあ、そうだろうな」と言って深く頷いた。

 やはり、前の世界の影響というのはあるものなのだろうか。ルリによれば僕の骨はほとんど完全に研ぎ澄まされているそうだけど、少しぐらい不純物の影響があるかもしれない。だとしたら、僕が賑わいの森やヤグラさんに懐かしさを感じたのは、前の世界の記憶のせいなんじゃないだろうか。

 僕がそんなことを考えていると、ヤグラは少し悩んだ後に言葉を続けた。

「難しい話で俺にはよく分からないや。ルリは物知りなんだな、世界の謎を探求する占い師なんて大したもんだ。でもそんな真面目な気質だと、この森には馴染まないだろう」

「ええ、確かにそうですね。ちょっと息苦しいです」

 ルリは少し申し訳なさそうな、腰が引けた物言いだった。

「ジギタはなかなか楽しんでいるようだが、どうだ? この森に住んでみたいと思うかい?」

「ううん、そうだなァ。ここは確かに楽しいけど、太陽の町にいるほうが落ち着くみたい」

 ジギタはそう言って、相変わらず呑気に笛を吹き始めた。

「じゃあサイジ、お前はどうだい? 実を言うと、お前にはなんとなく親近感みたいなものを感じるんだが」

 僕は悩んだ。僕はきっと、ルリやジギタよりもこの森に馴染むことが出来るだろう。そして、ここに住み始めて時間が経てば、やがてこの森が僕にとって収まりのいい場所になってしまう。そしたら多分、僕は森から出ることは無い。この国はそういう法則で動いているんだ。

「僕も、ヤグラさんには親近感を感じるよ。それにこの森の雰囲気が好きだ。でも、やっぱり、僕は太陽の町で暮らすよ」

「そうかい。まあ、そっちの町で友達もいるだろうし、仕方ないな。せめて帰るまでの間、この森の賑わいを楽しんでいってくれよ」

 ヤグラは朗らかに返したけれど、その笑顔は少し寂しそうにも見えた。

 どうして僕が太陽の町を選んだのか、僕にもハッキリとは分からない。でもおそらく、僕は自分の居場所が完全に決まってしまうことを恐れたんだろう。

 太陽の町に住む僕と、賑わいの森に住む僕。どちらかの僕を選ばなければいけない。そして、賑わいの森を選ぶということは、太陽の町の僕が永遠に消えてしまうということだ。

 この国に行きながら可能性なんてものを求めるのはバカげてるかもしれないけれど、それでも僕は、自分で何かを選びながら生きたい――僕らしくはないけれど、そんな風に思った。

 この赤ばんだ空も、光を纏った森も、賑やかな人々の姿も、もう二度と見ることは無いかもしれないから、しっかりと目に焼き付けておこう。


『あとがき』

 どうもこんにちは、江戸川区が江戸に含まれないと知って非常にショックを受けている鬼童丸です。去年度までは私が文芸同好会の会長を務めていたのですが、今は後輩に立場を譲って御隠居になりました。

 今回の冊子は春季刊ということで、もしや新一年生の人たちも読んでいたりするのでしょうか。何か部活に入りたいなら、文芸同好会をお勧めします。十年間の歴史を持ち、全国コンクール受賞者も在籍する由緒正しき同好会ですので、興味がある人も無い人も見学に来てみてください。毎週水曜日の放課後に、食堂(ときどき西棟四階の会議室)で活動しています。

 

 さて、ここからは長い長い解説なので、面倒な人は飛ばしてください。

 今回の作品はかなり意味の分からない内容になっていると思います。なんだか私の設定厨な側面が存分に発揮されてしまったようですね。

 実はこの作品、最初のうちは明確なテーマがありました。「骨の国」を通じて私が描きたかったのは、思い出や想像の成れの果てだったんです。

 きっかけは、インターネットで様々な創作サイトを見ていた時です。いまだに更新が続いているサイトは生きている感じがするのですが、明らかに更新が止まっているサイトを見ると、まるで蓋が閉まった箱庭のような、筆舌に尽くしがたい虚しさを感じました。

 その動いているけど生きていない不思議な感じを表現したくて、骨の国という設定を考えたのです。「骨」というネガティブな表現にこだわったのはそういう理由です。

 まあでも結局は、元のテーマが分からないぐらいに意味性を取り除いた作風になってしまいましたが(自分の中で骨の国に対するイメージが変化していったことが原因だと思います)。

 

 作中で骨の国を表わす言葉として出てきた「半六次元世界」ですが、これは私の中で明確なイメージを持っています。ただ、作中で説明するのは難しかったので、読者に理解してもらわなくても物語を読める風に書いたつもりです。

 骨の国は、いわば無数の「世界」が集まった国なんです。上述のように元々が人々の思い出や想像から生まれた国ですから、骨の国は一つの空間に色んな人の世界が混じり合っているんです。その結果、三次元の空間にそれぞれの世界(この世界も三次元)が散らばっている六次元になっています。一歩動けば別の世界に踏み入っちゃいます。

 ただ、実際に六次元を舞台にして小説を書くのは難しいと思ったので、登場人物たちは三次元的にしか移動が出来ない半六次元のシステムを取り入れたのです。

 作中でルリが語っているように、六次元空間を完全に移動できる上位存在の設定もあったのですが、作中では登場しませんでした。上位存在は浮遊する立方体のような姿です。自在に容姿を変えられるのですが、複数の世界にまたがって存在することは無いので、サイジたちの方からアプローチすることは不可能です。

 ちなみに、骨の国に存在する全てのものは一つの世界だけに存在するのではなく、近くの世界にまたがって存在しています。だからサイジやルリが別の世界にいても(つまり離れていても)お互いが見えるわけです。ただ、離れすぎると重なりから外れてしまうので、消えたように見えます(最初の場面でいきなりルリが近くにいたのはこのせい)。

 

 では、次のページからは登場人物についての裏話とか書いていきます。


■サイジ:今作の主人公で、元の世界ではサラリーマンの若者の設定です。ごく普通の性格で、少しひねくれた日和見主義者です。難しいことを考えるのが嫌いで、諦めの早さが骨に染み付いています。

 名刺にある通り、本名は「矢倉祭児」で、実はヤグラの息子だったりします。骨の国なので親子関係なんて無いんですが、いちおう元の世界があるという設定を表わすために#5を書きました。ちなみに「祭」の字に見覚えがあるとサイジが語ったのも、名刺が記憶に残っていたから。

■ルリ:作中の案内人ポジションで、性格付けにとても苦労した子です。クールにするかバカっぽくするか悩んだ挙句、丁寧な性格で知識も豊富だけどちょっとズレてるというバカ寄りな子になりました。

 彼女の特殊能力は《振動》と占いです。占いと似たようなことは他の登場人物も多少は出来るんですけどね。彼女の能力は特に際立っているということで、たとえるなら肉眼と望遠鏡ぐらいの違いはあります。

 ちなみに名前は思い付き、本当に思い付き。

■クラインシュタイン博士:ルリの師匠として出てきた博士です。名前はドイツ語で「小さな石」を意味しますが、音の響きが気に入っただけで特に意味はありません。

 元の世界では少年だったんですが、年老いた学者に憧れていたので、骨の国ではあんな感じになってしまったという設定です。実は、今作の登場人物たちは元の世界での性格まで設定が決まってます(ルリ以外は)。

 この人の台詞は、ナンセンス文学を意識しながら書きました。無駄に複雑で、でも解読は出来そうで、でも本当は根本的に破綻している、そんな文章です。なんとなく意味が通りそうに見えるけど実は通らないという、いやらしい騙し方を仕込んだつもりです。多義性とかも織り込んでもっと複雑怪奇にしたかったんですが、ここにばかり時間を掛けてられないのでほどほどに切り上げました。

■フィン:旅人です。ファンタジー世界の住人というイメージで書きました。彼はとにかく自由人で、自由を愛するゆえに旅人になりました。彼自身が草原の風を連れているので、どこに行っても彼にとっては草原です(さすがに町とかは消えたりしないと思いますが)。

 あと、この国では珍しく肉食をしている人です。裏設定として、この国の人たちが食事をしないのは食べるという概念を生み出さないため、というのがあります。食べるという概念が強まると、やがて自分たちがより強い生物(たとえば黒鉄鳥や砂クジラ)に食べられてしまうのです。ただフィンにとっては知ったこっちゃないんですね。

 フィンとネフィーの名前は、音楽で終わりを表わす記号フィーネから取っています。彼らは永遠が似合うので、反語的ネーミングです。

■ジギタ:色々な属性を持った男の子です。彼がこういう容姿になったのは、元の世界で落ち着きの無い性格だったからです。自由を求めているという点ではフィンと似ていますが、フィンの純粋さに対してジギタは雑念がありまくりなので、実際は真逆ですね。

 名前の由来はジギタリスという花で、和名は「狐の手袋」です。狐耳だったので直感的ネーミングで。花言葉は「不誠実」(他にもあります)。

■ヤグラ:お祭り大好きな人です。大人になってもお祭りが好きな人って結構いますよね、神輿を担ぐのが生き甲斐の人とか。そんなイメージで、太鼓に対して並々ならぬ情熱を注いでいる人として書きました。

 初期構想ではサイジの兄貴分として仲良くなる予定だったのですが、話の都合で再会できるか怪しい感じになりました。

 

 次のページからは作中の地名などについて解説していきます。


■砂漠:太陽の町がある砂漠です。物語はだいたいここを中心に展開されるのですが、詳しい広さは不明です。ていうか、そもそもこの作品では数字を使わないように意識しています。私のイメージだと数字は人間が勝手に決めたものって感じがするんです。だから骨の国には相応しくないだろうと考えて、出来るだけ数字を使わず表現しました。

 また、骨の国の自然環境は私たちの世界と違って骨の力関係だけで決まるので、砂漠のすぐ近くに森があったりします。こういう無茶苦茶でゴチャゴチャな世界観は結構好きです。

■太陽の町:太陽が中心にある町で、特徴なく色々な人が住んでいます。ちなみに長居すると勝手に家が出来るのはこの世界では普通のことで、狭間の少女が狭間を生み出すのと同じ原理です。

■空喰い湿地:緑色に淀んだ水が重力を無視して蠢く不気味な湿地です。歩ける場所は半分ぐらいありますが、草が生えていて分かりにくいため無闇に歩くと危険です。

 名前の通り空を喰うように水が動いているので、陸上を歩いていても水に飲み込まれたりします。ただし水に意思があるわけじゃないので、冷静に動けば大丈夫。サイジは足すべらせて落ちましたけど。

■埋み火の森:常に炎が燃え続けている危険な森です。入口の近くでは地面で火が燻っているだけですが、奥のほうでは燃え上がっています。百面回廊のように世界が重なっているので歩くと森が動く上、何もしないでも火が燃え広がるので、百面回廊よりも遥かに危険です。うかつに歩くといつの間にか火に囲まれて動けなくなったりします。

 ちなみに、骨の国の人たちに寿命はありませんが、焼死体になったら死にます。肉体が壊れたら骨も維持できなくなりますから。

 

 

■百面回廊:賑わいの森と砂漠を隔てる迷宮です。複雑に世界が重なっていて通過は困難ですが、通れる場所と通れない場所は決まっているので、視覚に頼らなければ静的な立体迷路です。

 物語の都合上では百面回廊は無くても良い場所なのですが、書きたかったので#5の経路にしました。異空間っぽくて気に入ってます。

 ちなみに、百面回廊の周りは空間が歪んでいて、ここを通らないと賑わいの森には行けないという設定です。しかし、賑わいの森に相応しい人間(言うなれば前世日本人)は何も考えずに迷宮を越えられます。

■賑わいの森:年中お祭り状態の森です。ここでは住人たちが普通にものを食べてますが、これはこの国ではかなり異常なことです。そもそも経済自体が成り立たない国ですからね。骨以外の部分が強く働いているゆえの状態でしょう(やっぱり、お祭りといえば食べ物ですよね)。

 賑わいの森はお祭りらしさを意識して描写を頑張ってみました。お祭りが最も美しいのは、太陽が沈み切った直後だと思います。空の赤黒い闇が、提灯の淡い光とせめぎ合ってるような感じで。

 森にいる人たちの姿も和のテイストを意識してます。傷痍軍人(見たことは無い)とか妖怪(同上)とか、お祭りのイメージごちゃまぜです。

 ちなみに作中では非常に分かりづらいですが、サイジが漂着して最初に目指した方向は賑わいの森です。彼も前世日本人なので賑わいの森に惹かれるところがあったんでしょうね。ルリに出会わなかったら賑わいの森に住んでいたことでしょう。

 

 では、長い文章を読んで頂いてありがとうございました。