これは、世界の何処(どこ)かにある砂漠が綴る、たった一夜の物語。

透き通った風が白磁の砂粒を巻き上げ、そのまま夜空に散りばめられて星屑となるような、そんな夜の出来事だ。

 

 眇々(びょうびょう)と広がる砂の海に、一筋の足跡を刻み歩く、一人の旅人が居た。銀のマントを風に(なび)かせ、銀の髪を長く垂らし、銀の瞳で彼方を見据えながら、凛々と歩みを進めて行く。その相貌は美神の彫像にも勝るほどに秀麗だが、中性の美しさ故に男とも女とも判別が付かない。見て取れる荷物は肩から背負った紐付きの袋のみで、広大な砂漠で孤独を同伴者として歩くには異様と言える軽装だった。

 無音で輝く真円の月が砂に落とす旅人の影は短く、恐らく刻限は夜半の頃であろうか。砂漠の夜は長く果てしない。神々しさすら感じさせる永遠と刹那が、月明かりに照らされたこの砂漠を満たしていた。

 聞こえるのは、絶え間なく吹き続ける風の音、その風と共に舞い踊る真砂(まさご)の僅かな音、そして旅人の靴裏が奏でる規則的な足音。それ以外に、この砂漠の夜気を揺らすものは、何一つ存在しない。

しかしある時、この旅人は一つの音を耳にした。それは大地の底から響く、怨嗟に満ちた唸り声。旅人は声の主が背後に居ることを直感的に悟り、足を止めて振り向く。

すると、旅人が歩んできた足跡は其処に無く、砂に飲み込まれかけた石窟が現れていた。どうやら、唸り声の主はこの石窟の中にいるらしい。そして、その事実は推測するまでも無い確かな光景として、旅人の透徹した瞳に映し出された。

――(まなこ)だ。黄金に輝く一対の光点が、闇に満たされた岩穴の奥へ旅人を招くように、炯々とこちらへ向けられている。引き絞られたかのように細いその瞳孔は爬虫類を想像させるが、この双眸(そうぼう)が収まる顔があるのならば、それは人間一人を優に上回る巨大な顔面であろう。

 その瞳の持ち主と思われる声が、石窟の奥から反響の余韻を残しながら、おもむろに旅人へ語りかける。

「人の子よ。御主は久方振りの客人だ。もっと近くへ来てはくれぬか」

 虚空を震わすような低く重いその声に、旅人は臆することなく石窟の奥へ足を進めて行く。どういう訳か、洞窟の中は一歩進むごとに明るさを増し、外から想像するほどに視界は悪くない。そして、旅人が歩みを止めた時、その眼前には常人の想像を遥かに超える生物の姿があった。

 瞳同様の金色(こんじき)に輝く体躯は、地上に息づく生命の規格を大きく外れた巨体であり、洞窟の最奥で窮屈げに折り畳まれている。その前足に並ぶ長大な爪は硬質の輝きを宿し、生体組織というよりは武具を連想させる様相だ。そして、鼻先からは鋭い角が長く伸び、口腔には唾液に濡れた牙がズラリと並ぶ。それは正しく、現実の世界には存在し得ない想像上の動物――竜であった。

 竜は旅人を見据えたまま、遺憾の篭もった声で言う。

「何ゆえ、もっと近くへ来ぬ」

「これより寄れば、お前は私を喰らうつもりだろう」

 無感動に返された旅人の声は、銀鈴のような響きを持って四方の石壁に反響する。それを聞くや竜は高々と笑い、興味深げな眼差しで旅人をまじまじと見た。

「なるほど、確かにその通りだ。我は御主を喰らいたい。さすれば、我はこの翼を以て、再び天を制すことが出来よう」

 竜の背に隠れていた両翼が持ち上がり、それ自体が意思を持っているかのように動き始める。しかし、その翼にはおびただしい数の穴が開いており、とても巨体を持ち上げられる代物には思えない。

「我にとって、破れた翼を癒やすことなど造作も無いが、そのためには糧が足りぬ。腹が満たされず一歩も動けぬままに、永劫の時を過ごしてきた。たった一人の人間を喰らえば、我はこの翼の綻びを癒やし、再び天空に舞い戻ることが出来るのだ」

「どうして、そんなにも空に(こだわ)

 飽くまでも静かな旅人の問いに、竜は黄金の眼差しを星霜の彼方へ向けて、枯れた声色で独白のように答える。

「今となっては、御主ら人間が神話と呼ぶであろう昔の話だ。かつて、我は(あまね)く世界を統べる絶対の支配者であった。秩序と規律を以て、万物の調和を天から保っていたのだ。しかし、その平和な世に生きながら、我に逆らわんとする者が現れた」

 そこまで言うと、竜は憎々しげに旅人を一瞥した。

「御主ら、人間だ。奴らは次第に知恵を付け、我の領分である天空を侵し始めた。そしてついに、忌まわしき文明の産物によって、我の両翼を打ち破ったのだ。我はこの砂漠に堕ち、この洞穴に動かぬ身を収めた」

「それは質問の答えではない。今一度問おう。どうして、そんなにも空に拘る」

 旅人は全てを見通すかのような銀の視線で竜を見据えた。すると竜はさも当然と言った風に、長大な口先を侮蔑に歪める。

「どうして、だと? 決まっておろう。人や動物は生来愚かな存在なのだ。統べる者がいなければ、まとまることすら出来ずに自壊する」

「人々は今も平和に生き続けている」

「何が言いたいのだ」

 不快な声色の混じった竜の質問に、旅人は表情一つ動かさずに平然と言い放つ。

「人間たちは、お前を必要としていない。だからお前は此処にいるのだ」

 そして、旅人は竜の元へと歩き出した。その身を喰らおうと竜の前足が伸ばされ、利鎌(とがま)のように湾曲した鉤爪が旅人の首筋にあてがわれる。しかし、当の旅人は泰然と眉一つ動かさず、それに対して竜の指爪は怯えるように震えていた。

「私を喰らって何になる。翼を治して何になる。そんなに空が恋しいか」

 辛辣な響きを持ったその声に、竜の眼が儚く揺れる。やがて竜は旅人から爪を離し、躊躇いがちに前肢を引いた。竜の表情は侘しさに覆われているが、その奥には何かに気付いた悟りの色が含まれている。

「そうだ、我は天空へ戻る気など疾うに無いのだ。我が消えたために、世界が滅びるのならそれも良し、栄えるのならそれも良し。ただ、我の居ない世界の行く末を知りたかったのだ。長い間、自分の真意に気付かず、満たされぬ時を過ごしてきた……」

 酷く疲れたように溜め息を吐く竜に、旅人が語りかける。

「そうだろう。そして、だからこそ此処を訪れる者は誰一人現れなかった。この砂漠はお前の精神世界、求められる者しか立ち入れない」

そう言うと、旅人は踵を返して石窟の出口へ歩き始めた。

「いつまでも岩穴に閉じこもっていたら息が詰まるだろう。外へ出よう。お前は歩けるはずだ。その体は動かないのではなく、動くことを拒絶し続けてきただけなのだから」

 その言葉に呼応して、竜は前足を踏み出した。巨大な体を引きずりながら、石窟の出口へ向かって行く。旅人が高空の下へ一歩を踏み出し、乾いた風が銀色のマントを巻き上げた。後に続いて、その巨体で砂を押し分けながら竜の巨躯が現れる。竜は夜空を覆わんばかりの星辰を見上げ、感嘆の声を漏らした。

「おお、地上から見る星空の、なんと美しきことよ」

 高く果て無き夜の下、竜の涙が静かに落ちる。雫は砂に吸い込まれ、跡も残さずに消え失せた。隣に佇む旅人が、諭す調子で言葉を紡ぐ。

「空に居ては、この景色を見ることは出来ないだろう。苦しみの果てを知った者にしか、与えられない真実がある」

 地に着きそうな銀髪の間を縫って、風の粒子が抜けて行く。その中に身を浸しつつ両手を広げ、旅人は(まぶた)を閉じた。

「この地の風は心地良い。どうやらここが、私の旅の終着点となるようだ。旅の心が、そう告げている」

 そう言い終えた時、今まで動かなかった旅人の表情に、一つの変化が現れていた。笑顔――瞳を閉じたままに浮かべる、柔らかな微笑だ。

「旅というのは不思議なものだ。勝手気ままに歩いていても、いつも何かに導かれている。私はこれまで、導かれるまま世界の全てを見てきた。そしてその果てに、私は此処へ辿り着いたのだ。お前の望みに導かれて」

 一息ついて瞼を持ち上げ、旅人は隣に佇む竜の目を見上げた。

「一つ、お前に謝りたい。先程、私はお前に嘘をついた。人々は完全な平和の時を過ごしているわけではない。人と人との間に憎しみが生まれ、大きな争いが始まろうとしている。お前の言う通り、人は愚かな存在なのかもしれない」

 沈黙を守り静かに聞き入っていた竜が、そこで口を開く。

「しかし、それを見守るのもまた一興。そうであろう」

 可笑しげに笑いながら「そうだ」と頷く旅人は、目を細めて地平線の彼方に焦点を馳せた。

「今日もどこかで人が生まれ、死んでゆく。笑顔を浮かべ、涙を流している。私が此処に居ようと、その全てを風が届けてくれる。砂の辛味を知る堕帝よ。私と共に、世界の果てを見届けようか」

 その誘いに無言で応じながら、竜は気高く晴れやかな相貌をした。

「そうか、やっと分かった。我が求めていたのは、糧ではなく――」

 その言葉尻は口の中だけに抑え込まれ、風がしじまに散らした。

 東の空を見れば、白々とした砂原の向こうに茜が差し、淡い暁光に星々が隠されて行く。そして、地平線からやっと顔を出した太陽を眩しげに眺めながら、割れた声で竜が呟いた。

「もうすぐ、夜が明けるようだ。果てしなく長かった、呪縛の夜が……」

 

 これは、世界の何処でもない砂漠が綴る、未来永劫の物語――。


   能書き――じゃなくて後書き

 

 どうもこんにちは。産技祭から一週間足らずで冬季刊の作品を書き上げてヒャッフゥーな鬼童丸です。昼間なのに深夜テンションって、何か不思議ですね。短編ですけど。

 

 さて、今回はとにかく読みづらい作品になってると思います。短編という形の都合、テンポを落とすために漢字を増やしましたから。本当はもっと多くしたかったんですけどね。この小説を読んでいて「鬱陶しい」だとか「面倒くさい」だとか感じたあなた、いい感性を持っていますね。そんな人は文芸部に入って、その感性を役立ててみるといいんじゃないでしょうか。勧誘のしかたが雑ですか、そうですね。冗長はこれぐらいにして、解説に入りましょう。

 

 今回の作品ですが、やたら修飾的&難解のコンビネーションで攻めてみました。それに加えて、世界観も意味不明ですよねえ。まあ、鬼童丸作品に精通してくると理解できると思いますよ、悪い意味で。

 ぶっちゃけてしまいますと、自分は精神世界とか心象風景を描くのが大好きなんです。夢幻の住人です。実体が消えかかっています。半透明です。影薄いです。(それは違う)

 ですから、この話も現実世界の裏側にあるような、イメージの世界が舞台になっています。サブタイ付けるなら「とある堕帝の精神空間(サンクチュアリ)」といったところですかね。あれ、こっちのほうが良かったかも。

 

 ちなみに、今回のテーマは「権力者の盲目性」です。人の上に立つ者は周りが見えづらくなって、ついつい自己満足に陥りがちに、という話です。それをベースにしつつ、神話的かつ幻想的に仕上げてみました。シェフのオススメです、どうぞお召し上がりください。

 

 では、あとは細かい説明で埋めていきます。若干ネタバレです。

■この物語では翼が権力を象徴しています。その翼を奪われて失墜した竜は、何を思ったのか――それが主題の裏側になっています。

■作中では隠しておいた「竜が求めた存在」が何であるのかは、敢えてここでは語りません。当然ながら、旅人はその条件を満たしているから砂漠に導かれたわけです。

■何かと謎の多い旅人ですが、性別や出生は決めていません。世界中を放浪した果てに砂漠へ迷い込んだ旅人です。最終的には「世界の傍観者」という神にも近い立場に身を置いています。

■竜自身の口からもそれとなく語られていますが、砂漠は竜が堕ちてからずっと夜のままです。それは竜の心情にある暗澹とした矛盾が表れているのですが、やがて旅人が時の流れを進めます。

 

 色々と説明しましたが、この物語が持つ意味は読者の皆さんが自力で読み取っていただけると嬉しいです。結局投げっぱなしの大暴投です。

 

 そういえば、文芸部が同好会に格下げされるらしいです。だがしかし、文芸パワーはこんなものじゃ負けませんよ。読書系男子も、文学少女も、そうじゃない人も、みんなみんな寄っといで。ほら、怖くないよ。

 

 追伸――現在HTMLを必死に勉強中。スタイルシートに悪戦苦闘。