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 それは、よく晴れた初夏の日の出来事だった。敢えて平和を疑う者など無いだろう、変哲の無い平穏な昼下がりのことだ。

 新緑の木々が陽光に輝く森の中で、少し開けた空間に小さな家があった。その家の前では、二人の幼い少年が芝生の上で遊んでいる。土を掘り返して山を作るだけの、無垢な遊び。まさに平和としか言いようの無い光景だった。

 しかしその直後、少年たちはある異変に気付く。その異変の正体は、聞いたことも無い奇妙な音だった。空気を丸ごと震わせるような、凄まじい振動音だ。

 音の聞こえるほうへと目を向けた少年たちは、奇妙な物を目にした。森の向こうから、何か黒い煙のようなものが立ち昇っている。しかもそれは風に揺られるだけではありえない動きをしながら、鞭のように身をくねらせていた。

 まるで巨大な生物の一部であるかのような奇体に、少年たちは呆けたように見入っている。しかしやがて黒煙の動きが変化し、それを見た少年たちの顔に恐怖の色が滲み始めた。

 煙の鞭がこちらへ鎌首をもたげ、一直線に迫ってきたのだ。その速度は驚くべきほどで、瞬く間に森の上空を渡ってくる。少年たちの元へとたどり着くのも時間の問題だろう。

 慌てた少年たちは、家の中へ隠れようと走り出した。しかし背の小さいほうの少年が土山に蹴つまずき、転んでしまった。黒い塊はすぐそばまで迫っている。

「お兄ちゃん!」

 転んだ少年がもう一人の少年へ、怯えた表情で手を伸ばしながら叫ぶ。その瞬間、家の扉に手を掛けながら兄が見たのは、黒煙に飲まれゆく弟が助けを求める眼差しだった。

 そして兄は泣きながら扉を開き、家へと駆けこんだ。それきり、扉が開くことは無かった。

 

 その日、世界中で同様の事件が起こった。そして、その日から世界は変わってしまった。

 世界各国に現れた黒煙の正体――それは巨大な蚊の大群だった。どこから生まれたのかも分からない数センチ大の彼らは、完全な集団行動で獲物に群がって生き血を吸い尽くす。

 あたかも漆黒の雲のような塊となって自在に空を舞うその姿から、人々は彼らを蚊舞雲(ぶんぶーん)≠ニ呼んだ。

 蚊舞雲の被害は人類にとって壊滅的だった。路傍には枯渇死した老若男女が無残に転がり、残された人々も屋内で蚊舞雲に怯える毎日を強いられていた。それはまさに、人類の黄昏とでも言うべき状況だった。

 しかし人類にも、長年地球の覇権を守り続けてきた種族としての意地と誇りがあった。都市町村が着々と滅びてゆく中、人々の一部は武器を手に取り、蚊舞雲へ対抗すべく結集したのだ。知恵と勇気――そして慈愛を以て人々を守るという信念を込めて、彼らは知勇仁(ちゅうに)隊≠ニ名乗り、蚊舞雲との壮絶な戦いを始めた。

 そして、これはそんな知友仁隊で戦う一人の戦士の物語だ。

 

       *   *   *

 

 果てしなく広がる赤褐色の荒野。乾燥した風の吹きすさぶその中で、乾いた赤髪をなびかせながら青年がたった一人で佇んでいた。

 青年は何本ものベルトで引き締められた黒のジャケットを纏い、背中には長剣の鞘を二本束ねて背負っている。

 彼の名はイサスン、知友仁隊の若き戦士だ。

 その瞳が一心に見据える青天には、禍々しい暗黒の塊が蠢いていた。生き血を求めて荒野を渡る蚊舞雲を殲滅するために、イサスンはここへ派遣されたのだ。

「さあ、かかってきやがれ、クソ虫ども。全て粉微塵にしてやるぜ!」

 鋭い笑みを浮かべて空へ叫び、蚊舞雲を挑発するイサスン。

 やがて蚊舞雲も彼を標的に捉えたらしく、塊の一部が黒い矛先となって襲い掛かる。迫りくる暗黒が今にもその身を飲み込もうというその瞬間、イサスンは動いた。

 正面を見据えたまま右手で二本の柄を取り、背中に回した左手が鞘の留め金を外す。その途端に鞘の上面がバネ仕掛けで撥ね開き、解放された両刀が神速で抜き放たれた。

 二条の銀閃と化した刃の軌跡が、眼前へ迫る蚊舞雲へと喰らい付く。その刹那に白刃が電光石火の豪速で踊り狂い、警鐘のような甲高い金属音が打ち鳴らされた。イサスンの背後には、両断された蚊舞雲が次々に折り重なり、黒々とした山を作ってゆく。

 濁流の如く一筋に迫りくる蚊舞雲を斬り散らかすこと数秒、イサスンへ襲い掛かった一叢の蚊舞雲は全て骸となっていた。これで全体の一割ほど、それでも数で言えば数百匹は下らないだろう。

 これほどの戦力をイサスン一人が有する所以は、彼の特異な剣術に起因する。彼は二本の太刀を片手に持ち、驚異的な腕力と握力で操っているのだ。彼が剣を振るたびに鳴り響く無数の金属音は、二本の刀身が凄まじい速度で箸のごとく打ち合わされることによって生じている。

 こうして一匹ずつ的確に挟み切ることにより、彼は蚊舞雲に対抗していた。これこそが、彼に与えられた二つ名二枚刃の断頭台≠フ表す意味に他ならない。

「さあて、もう降参か? こっちは余力充分だぞ」

 空高くわだかまった蚊舞雲に向けて双剣を構え、イサスンは大地を蹴立てて走り出した。巻き上がる砂塵を置き去りに、一直線に黒雲との距離を縮めてゆく。

 イサスンを捕らえようと、蚊舞雲は幾条もの黒い稲妻となって大地に降り注いだ。しかしイサスンは時に体を捻って躱し、時に双剣で断ち斬りながら駆け抜けてゆく。

 そして彼は力強く一歩を踏み込み、空中に浮かぶ蚊舞雲の塊へと飛び立った。風を切って飛翔するイサスンが黒雲へ飛び込んだ刹那、例の凄まじい金属音が荒野に冴え渡る。そして標的を貫通したイサスンが着地するのと同時に、切り裂かれた蚊舞雲の残骸が莫大な黒い雨となって降り注いだ。

 空には、たった一匹の蚊舞雲も残っていない。あの一瞬で、イサスンは蚊舞雲を悉皆(しっかい)斬り払ったのだ。

「これで終いか。脆いもんだな、虫ケラごとき」

 無感動に呟き、イサスンは双剣を一振りして肉片を払った。そして二本の白刃は鞘に納められ、留め金を留める軽い音が戦闘終了を告げる。淡々とその場を後にするイサスンの背後で、無残な羽虫の亡骸を風が散らした。

 

 イサスンが知友仁隊の基地へ帰還した頃には、既に日が沈みかけていた。報告などの事後手続きを済ませ、疲れ足で自室へ向かう。その途中の廊下で、金髪碧眼の青年が彼に声をかけた。

「やあイサスン、君は今日も戦ってきたのか。他の隊員だって、そう暇が無いわけじゃないんだよ? 君一人が無理することも無いと思うけどね」

 彼の名はクァトル――イサスンと肩を並べる有数の戦士だ。

「他のヤツらなんかに任せてられるか。俺は蚊舞雲を滅ぼす。誰かに手伝ってもらおうなんて気は毛頭無い」

 吐き捨てるような口調で言ったイサスンに、クァトルは苦笑いを返しつつ言い返した。

「蚊舞雲を滅ぼしたい気持ちは、みんなも同じだと思うけど……。まあいいや、君と言い争うつもりは無いよ。ところで、今日は夕飯の後に重要な会議があるらしいけど、君も出るでしょ?」

「ああ、そうだな」

 ぶっきらぼうなイサスンの言葉を最後に、二人はそれぞれの部屋に帰っていった。元来馴れ合いを好まないイサスンだけに、いつも会話はこの程度のものだ。

 カーテン越しに夕闇が染み込んだ自室には、ベッドや座卓といった最低限の家具以外は何も無い。知友仁隊への入隊と同時に与えられる住み込み部屋は質素なので、自分で調度品などを揃える隊員も多いが、イサスンはそれをしなかった。この部屋は彼にとって、ただ休眠を取るだけの場所。帰るべき安息など、どこにも無いのだ。

 剣が収まった鞘を卓上に投げ出し、イサスンは灯りも点けずにベッドへ横になった。カーテンの下から射し込む月光が、ベッドに投げ出された右手を包む。剣を振るい続けて相当な負担が掛かっているため、手の平は巌のように隆起している。

 その手を見ながらイサスンは、「まるで、剣を振るための手だ」と胸中で呟いた。この手も、昔は人の温もりを持っていたのだろうか。そんな思考が不意に、心の奥から一つの記憶を呼び起こす。それは、クァトルと初めて会った日の思い出だ。

 

       *   *   *

 

 その日、イサスンは市街地の蚊舞雲掃討作戦に参加していた。町には生存者も多数おり、知友仁隊から与えられた指令には住民の救助も含まれている。しかし、当時まだ若く駆け出しだったイサスンに住民を気にする余裕は無く、そもそも住民に同情も持っていなかった。

 単独で剣を振るいながら、イサスンは着実に蚊舞雲を屠ってゆく。彼の剣術は未だ発達途上にあったが、それでも小規模な蚊舞雲であれば対等以上に渡り合える実力だ。

 そんな中、イサスンの目に一人の町民が映った。体に群がる蚊舞雲を必死に振り払おうとしている、イサスンより少し年下の少年だ。その様態は、一見すれば半狂乱で身をよじっているようにしか見えないだろう。

 しかし驚いたことに、その少年は蚊舞雲と応戦していた。イサスンの洞察眼には見える。その少年は軽い身のこなしで攻撃をかわしながら、両手の平で蚊舞雲を叩き潰しているのだと。

 群がる蚊舞雲の数限りない攻撃を大局的に捉え、ことごとくを避けてゆく。それはまさしく、天性の戦闘センスのみが可能にする戦闘だった。

 その様子を見てイサスンは、「面白い」とだけ思った。知友仁隊の隊員以外で蚊舞雲と渡り合える人間など見たことも無いが、敢えて助ける理由も無い。蚊舞雲の数を減らしてくれるなら有難いし、くたばる時は囮として蚊舞雲もろとも斬るまでだ。

 その折、街路の曲がり角から一群の蚊舞雲が飛び出した。長槍で一突きするが如く、一直線に少年へと襲い掛かる蚊舞雲。目の前の相手だけで手一杯の少年は、その襲撃に対処することが出来ない。

 イサスンは「これまでか」と少年に見限りを付け、双剣を構える。その時、苦しげに立ち回る少年の目が、不意にイサスンのほうへ向いた。死に直面した者の悲痛な眼差しが、イサスンの怜悧な瞳を射抜く。

 同時にイサスンは歯噛みして地を蹴り、黒い影となって間へ割り込んだ。

 そう、まさしく影≠ニしか言いようが無い。闇が湧き立つように素早く移動した黒影が、人型として視認されるより早く剣閃を纏ったのだ。

 二本の剣が斬撃の暴風を生み出し、眼前の蚊舞雲を次々に裂断してゆく。背後で未だ奮闘している少年を振り返りもせず、イサスンは無数の敵と戦い続けた。

 そしてイサスンが全ての蚊舞雲を斬り落とした時には、少年も周囲の蚊舞雲を叩き落としていた。少年は満身創痍、イサスンも軽からぬ傷を負っている。

 剣を一振りして蚊舞雲の破片を振り落としながら、イサスンは(ばつ)が悪そうに少年を返り見た。どうして、一度は見捨てたはずの命を助けたのか、自分でも分からない。少年を囮にしていれば、これほどの傷は負わなかっただろうに。

 苦虫を噛み潰したような顔をするイサスンに、少年のほうから声を掛けた。

「もしかして、知友仁隊の人ですか?」

「ああ、そうだ」

 少し息を切らしたイサスンがそう言い終えるや否や、少年は目を輝かせて声を張り上げた。

「僕を知友仁隊に入れてください! 僕の名前はクァトルです、蚊舞雲から人を守るためにいつも訓練してきました。この力を、人々の役に立てたいんです!」

 熱意の込められたクァトルの懇願に、面倒なやつを助けてしまったと思いながらイサスンは御座成りな返事を返した。助けてしまった手前、今さら見捨てるわけにもいかない。

 差し出されたクァトルの手を、渋々といった様子のイサスンが握る。二人とも手は傷だらけだったが、クァトルの手は温かかった。

 その後、クァトルはイサスンを通じて知友仁隊に入隊し、天才戦士として活躍することになる。

 

       *   *   *

 

 ベッドの上で目を瞑りながら、イサスンは呟いた。

「まったく、なんであんなヤツを助けたんだか」

 かつての自分がとった不可解な行動は、イサスンにとって未だに謎だった。全くもって、自分の行動理念に反しているとしか思えない。

 薄闇を通して時計を見れば、既に夕飯の時間になっていた。だが、今食堂に行けばクァトルと出くわす可能性が高いだろう。普段なら気にはならないことだが、今はなんとなく顔を合わせたくなかった。

 仕方なく、イサスンはベッドで仰向けになったまま剣の手入れをして、時間を潰すことにした。

 

 食事を終えたイサスンは、すぐさま会議室へ向かった。ノックもせずに扉を開けて中に入ると、すでに会議は始まっていた。もちろん、クァトルも着席している。

 部屋の最奥に座った巨漢の男がイサスンを一瞥し、重厚な声で言った。

「おお、イサスンか。今回の作戦、お前は参加しないのかと思ったぞ」

「今回の作戦とやらについては知らんが、戦いならば応じる」

 そう言いながら座卓の末端に就いたイサスンに、巨漢の男は「頼もしいな」と笑う。彼こそが知友仁隊の創始者にして隊長――剛打のフラッパーだ。「今回の作戦については、これから皆に話すところだ。ベイプ、資料を」

 フラッパーの言葉を受け、隣に座っていた痩身の男が卓上に地図を広げた。大陸全土を表したその地図には、数か所に矢印が刻まれている。ベイプと呼ばれた痩身の男は、地図を指さしながら話し出した。

「蚊舞雲の発生原因を突き止めるべく我々が調査を進めていることは、皆さんご存知かと思います。この地図は、各地で蚊舞雲の到来が最初に目撃された方向のデータです。すなわち、この矢印は蚊舞雲の発生源を指していることになります」

 その地図に書き込まれた矢印は様々な方向を指しているが、ある地点の周りではそこを囲むかのように矢印が向いている。端から地図を眺めていたイサスンが、おもむろに言い放った。

「そこは……ボーフラー森林か」

 ボーフラー森林――それはイサスンが育った地の近くにあり、決して立ち入ってはならないとされた広大な聖域だ。その森へ踏み入ることは災いを招くと言い伝えられ、近隣住民から恐れられてきた。

 イサスンの言葉に頷き、フラッパーは全員へ語りかけた。

「その通りだ。この調査から、ボーフラー森林に蚊舞雲の発生原因があることは間違いない。よって、次の月に森へ踏み入り調査を敢行する」

 その言葉に、会議の参加者たちは(にわ)かにどよめき始めた。聖域とされた森に踏み入るのだから、隊員が戸惑うのも当然だ。それを制するように、フラッパーが言葉を続ける。

「今回の任務は大きな危険を伴うだろうし、この地には妙な謂れもある。当然ながら、気が進まない者は外れてもらって結構だ」

「俺は行くぞ」

 真っ先に答えたのはイサスンだった。

「俺がこの手で、奴らを根絶やしにしてやる」

「君らしいね。あ、もちろん、僕も行きますよ」

 イサスンに続いてクァトルも、柏手を打ちながら名乗りを上げる。二人に触発され、会議室内には次々と参加表明が上がった。その様子にフラッパーは満足げに微笑んでいる。

「みんな、恩に着るぞ。では、今日の会議はこれまでとする。今日参加しなかった隊員にも、お前たちから伝えておいてくれ。また明日、詳しい日時や編隊の相談をする」

 

 翌朝、イサスンは双剣を背負って燻蒸機関車(バルサン)の駅に向かっていた。目的は一つ、ボーフラー森林に向かうことだ。

 昨夜の会議の後、イサスンは考えた。このまま指令が下るのを待って任務に参加しても、自らの手で蚊舞雲を根絶できるとは限らない。蚊舞雲を深く憎んでいるイサスンは、一刻も早く自分一人で奴らを根絶やしにしたかったのだ。

 しかしイサスンが駅に着いた時、そこには見知った顔があった。

「やあ、やっぱり来たね」

「なぜお前がここにいる、クァトル」

 そう、そこにいたのはクァトルだった。苛立った様子で吐き捨てるイサスンに、彼は物怖じせず答える。

「昨日の君を見てたら、こんな予感がしたからね。早く出て先回りしてきたんだよ」

「知友仁隊に知らせるつもりか? 俺の邪魔をするのなら、容赦はしないぞ」

 イサスンは鋭い目つきでクァトルを睨み付け、背中の双剣に手を掛けた。しかし、クァトルに慌てた様子は無い。

「人が一杯いるから、やめなよ。それに今さら君を止めるつもりも無いからね」

 そう言うとクァトルは振り向き、駅に向かって歩き始めた。

「どうせ抜け駆けするなら、僕も連れてってもらうよ。君を一人で行かせるわけにはいかないからね」

 イサスンは渋々頷き、二人は駅に入って行った。燻蒸機関車に乗れば、一時間足らずで森の近くまで行くことができる。二人は切符を買い、燻蒸機関車へ乗り込んだ。

 燻蒸機関車は、蚊舞雲の危険を避けて移動できる唯一の乗り物だ。蚊舞雲が嫌う香草を焚きながら、その蒸気で機関車を走らせる。衰退した文明の中でも、人類が工夫して生み出した血涙の利器だ。

 森へと向かう間、イサスンは一言も喋らなかった。クァトルが何を話しても、真剣な眼差しで窓の外を眺めているだけだ。そのため、やがてクァトルも黙り込んで到着を待っていた。

 

 燻蒸機関車を降りてから草原を歩くこと数十分、やっと地平線に森が見えてきた。ボーフラー森林は完全に生活圏から切り離されているため、辿り着くまでも大変だ。

 その時、地平線から湧き立つ黒い影が二人の目に入る。見紛いようも無い、それは先日よりも数段大きい蚊舞雲の大群だった。発生地だけあって、規模も桁違いだ。

 素早く剣を抜き放ちながら、イサスンが言った。

「抜けるのは無理そうだな。クァトル、全て打ち払うぞ」

「了解」

 それぞれの構えを取りながら、二人は鋭い面持ちで戦闘に備えた。空を覆わんばかりの黒い軍勢が、一直線にこちらへ迫ってくる。おそらく攻撃は全軍突撃、数で圧倒するつもりなのだろう。

 圧壊させんばかりの壁となった蚊舞雲に向かい、まず走り出したのはイサスンだった。右手に携えた双剣を振りかぶり、圧倒的な蚊舞雲と衝突する。

 刹那、イサスンの双剣は凄まじい音を立てながら縦横無尽に走り、迫り来る黒雲を斬り払ってゆく。しかし、巨大な塊はすぐに左右へ回り込んでイサスンを飲み込むだろう。

 その状況が現実に変わる瞬間、クァトルが走り出した。軽業師のような体捌きで音も無く疾走し、瞬時にイサスンの背後へ走りこむ。

 そして、跳躍。一気に高度を上げ、蚊舞雲の攻撃圏を離脱した。クァトルの眼下で暗黒の濁流が渦巻き、イサスンを包み込んでゆく。やがて暗雲は閉鎖され、巨大な球体が生まれた。

 クァトルは空中で身を翻し、渦巻く蚊舞雲へ下降を始めた。重力加速度を載せて速度を増しながら、両手を広げて標的へ迫る。烈風を纏った一撃が狙うは球の天頂、中央突破だ。

 暗雲渦巻く渦中へと飛び込むその瞬間、クァトルの両腕が掻き消えた。いや、消えたのではない、見えないだけだ。

 知勇仁隊にあって唯一、素手を武器として戦うクァトルは、圧倒的な身体能力で蚊舞雲と渡り合う。特に神の御手(ゴッドハンド)≠ニ呼ばれた手業の速さは、視認さえ許さないほどだ。

 暴風雨と化した蚊舞雲の群れを、クァトルの両手が叩き落としてゆく。なんの抵抗も無く突入し、暗黒球に穴を穿ってゆくクァトル。暴風を纏った突撃は瞬く間に地面へ到達し、全ての衝撃を解放した。

 その途端に全方位へ衝撃波がほとばしり、蚊舞雲の包囲が崩れる。やっと視界が開けた暗黒から現れたのは、油断なく構えたイサスンとクァトルだった。

 完全に閉鎖された黒雲の中で、イサスンは全ての蚊舞雲の攻撃を受け止めていたのだ。無数の蚊舞雲を斬り裂いた双剣は、それでも未だに血肉を求めて怪しく煌めく。

 散開した蚊舞雲は再び体勢を整え、無数の矢となって全方位から二人を狙う。

「これで終わりにするぞ!」

「合点、相変わらず無茶するね!」

 イサスンとクァトルは背中合わせで叫び合い、それぞれの獲物を構えた。先ほどよりも数が減った今なら、相手は全体で集中攻撃をしてくるだろう。その瞬間を狙うのだ。

 二人が一瞬呼吸を整えた次の瞬間、百万の刃と化した蚊舞雲が一斉に襲い掛かった。

 

 二人が立っているのは、黒く染められた大地だった。斬り裂かれ、叩き潰された蚊舞雲の死骸。その黒色が草原を塗り替えていた。

 剣に付着した死骸を振り払いながら、イサスンは面倒くさそうに言った。

「早いところ行くぞ、次の群れが来られると面倒だ」

 クァトルはコクリと頷き、少し安堵したように息を吐く。

「そうだね、あんな大群とまた戦うのは御免だよ」

 そして二人は、無数の屍を踏み越えて森へと歩いて行った。

 当然ながらこの森に入口など無く、鬱蒼とした木々があるだけだ。

「行くぞ」

 イサスンが静かに言い、二人は森へ入って行った。

 森の中は無数の巨木がそびえ立ち、光の届かない足元には苔が生えていた。下枝に切り取られた僅かな空を見上げると、時折蚊舞雲の一団が空を駆けてゆく。その方向からすると、今歩いている方向に蚊舞雲の発生地があることは明らかだった。

「中へ入れば意外と大したことないんだね。何か危険かと思ったけど」

 クァトルがそう言った瞬間、どこか近くから妙な音が聞こえた。紙同士が擦れ合うような、細かい音だ。

 剣を抜いたイサスンと両手を開いたクァトルは各々の戦闘態勢を取り、音の出所を探した。しかし音は目まぐるしく移動し続け、なかなか場所を特定できない。

「イサスン、上!」

 クァトルの叫びに反応したイサスンが頭上を見ると、太陽を背にして巨大な黒い影が迫っていた。瞬時に身を翻したイサスンが元いた場所に、黒く光る物体が轟音を立てて着地する。

 それは、一メートルを優に上回る巨大なゴキブリだった。扁平形の平たい胴体から六本の足が伸び、頭には触覚が絶え間なく動いている。さっきの音は、こいつが歩く音だったのだろう。

 本能的に危険を感じたイサスンはすぐさま距離を取り、双剣を構えた。するとゴキブリは素早くイサスンへ向き直り、弾丸となって一直線に疾走してくる。

 ――速い! 瞬時にその速度を見極めたイサスンは、左右への回避や防御を諦めて垂直に飛び上がる。その真下をゴキブリは猛スピードで駆け抜け、奥にある大樹に衝突、貫通した。大質量の体による超速度の突進は、イサスンの想像を遥かに超える破壊力だった。

 空中での不利を避けるため、イサスンはすぐさま大木の枝を蹴って飛翔。一回転したのち、クァトルの隣へ着地する。ゴキブリの攻撃をまざまざと見せ付けられたクァトルは、冷や汗を拭いながら苦笑いした。

「これは、ちょっと予想外の相手かもね」

 あの巨体に対して、クァトルの攻撃方法は通じづらいだろう。そのため、イサスンの双剣が頼みの綱だ。それを分かっているイサスンはクァトルの前に立ち、再びこちらを向くゴキブリに剣を構えた。

「丁度いい、そろそろ剣を振るいたかった頃合いだ」

 口元を歪めながらイサスンは二刀を束ねて逆手に握り、両足のバネを思い切りたわめた。そして助走も無く一気に踏み切り、一足飛びでゴキブリに踊りかかる。空中で身を捻ったイサスンは、体重を乗せた背面突きでゴキブリに刃を突き立てた。

 ガキィィン!

 まるで鋼を打ったような金属音が鳴り、二本の刃は受け止められた。どうやら、このゴキブリの体表は鋼鉄なみの硬度を持っているらしい。

 初太刀を完全に防がれたイサスンは、剣を支点に体を反転。ゴキブリの背後に降り立ち、逆手に持った二刀で渾身の突きを放った。

 ガキィィィィン!

 代わり映えの無い結果だった。イサスンはすぐに間合いを取ろうとしたが、それよりも早くゴキブリの触角が彼の胴を薙ぎ払う。鞭のような一撃で吹き飛んだイサスンを尻目に、ゴキブリは悠然と立ち上がってクァトルへと距離を詰めた。

 二本の足で大地を蹴り、高く飛び上がる巨大ゴキブリ。木々の間から射し込む陽光を背中に浴び、その姿が黒影となってクァトルへ迫る。

 もはや仕様の無いクァトルは、蚊舞雲を潰す時のように両手で巨大ゴキブリを潰そうとしたが、やはり流石に無理だった。ゴキブリの巨体にのしかかられ、クァトルには成す術が無い。その後ゴキブリはクァトルを抱え上げ、逃げるように走り出した。

「くそ、待て!」

 なんとか起き上がり、イサスンも後を追う。しかしゴキブリは凄まじい速度で、下の二本足で苔を踏みしめ、上の二本足でクァトルを抱きかかえ、真ん中の二本足を前後に振りながら走ってゆく。イサスンの駆け足も流石に追いつけず、たちまち見失ってしまった。

「まいったな、あいつを追いかければ何か分かると思うんだが……」

 しかし幸運にも、足元の苔にはゴキブリの足跡が残っていた、イサスンはそれを辿って森を進んでゆく。

 十数分ばかり歩いただろうか。やがて、正面からこちらへ向かってくる黒い影が見えた。さっきの巨大ゴキブリ、しかもクァトルは持っていない。どこかに置いてきたのか、はたまた喰われてしまったのか。

「なるほど、俺も捕まえようって魂胆か。上等だ」

 ゴキブリを悠然と睨みながら抜刀し、双剣を構えるイサスン。その瞳には、触れれば切れるような刃の意志が宿っていた。

 相手は先ほどと同じように突進してきたが、今度はイサスンに避ける気配は無い。彼は真二文字に構えた刀の峰に左手を添え、防御の姿勢を取った。

 黒光りする巨体が頭から突っ込み、大地を揺るがす激しい衝撃がイサスンを襲う。

「ううぅぉおおあああ!」

 しかしイサスンの足は苔を削りながら踏みとどまり、大質量の突進を受け止めた。さらに、しっかりと握られた二刀に挟まれてゴキブリは身動きが出来ない。

 たちまち翻った右手の二刀が鋭く突き込まれ、ゴキブリの体躯を箸のように左右から挟み込む。両者の力が拮抗し、お互いに押し込まれまいとする一瞬の膠着。しかしイサスンは相手の力を絶妙に逸らし、頭上に高々とゴキブリを持ち上げた。超重量の体躯が、イサスンの右腕のみで宙に浮かんだ。

 そして大きく背中を反らし、バックドロップの要領で背後に叩き付ける。凄まじい衝撃に大地が揺れ、木々の根が軋んだ。攻撃後、イサスンは素早く体勢を立て直してマウントポジションを取り、むき出しになったゴキブリの腹部へ刃を突き刺す!

 ガキィィィィン!

 切っ先は無惨に腹部を貫き、反対側の甲殻に当たって金切音を上げた。素早く刃を引き抜いて退いたイサスンの眼前で、大量の体液が傷口からほとばしる。それきりゴキブリは動かず、どうやら絶命したらしい。

 一戦終えたイサスンは額の汗を拭い、再び足跡を辿って歩き始めた。

 

 歩いていると、やがて木々が無くなって一気に視界が開けた。足元も苔では無く芝生に変わり、一帯は森の中で広場のようになっている。

 そしてひときわ目を引くのが、中央にそびえたつ石造りの神殿だった。神々しいほどに白い壁と柱が、森の中で異彩を放っている。その天井には大きな穴が開き、そのから蚊舞雲が飛び立ってゆく。なぜこんな場所にこんなものがあるのか、イサスンには見当も付かなかった。

 しかし芝生の足跡は神殿へと続いており、この中に何かがあることは間違いない。イサスンは躊躇わずに、神殿の石段を登って足を踏み入れた。

 中はひんやりとした空気が漂っており、壁には見たことも無い文字や壁画が刻まれている。イサスンの興味を引くものではなかったが、相当に力を注いで作られた建築物であることは一目瞭然だ。

 エントランスの奥には一つだけ通路が開いていて、奥へ進む道はそこだけらしい。もちろん、イサスンは迷うことなく先へ進んだ。するとそこは、本能的な不安を掻き立てる禍々しい空間だった。

 両脇の壁には所狭しと、昆虫的な羽と複眼と触覚を備えた邪神像が立ち並んでいる。部屋の奥に見えるのは、おそらく祭壇だろうか。しかし祭壇の中央には大穴が口を開け、煙のごとく立ち昇る蚊舞雲の群れを天井へと放出していた。

 そして、不快な羽音が絶え間なく響く中で、滾々と聞こえ続けているのは――チェロの音色だ。弦楽が奏でるどこか悲愴的な旋律が、羽音を縫い止めて伴奏のように従える。

 その演奏をしているのは、祭壇の前に立つ一人の男だった。タキシードに身を包んでひたすらチェロを弾き続けるその男は、こちらに背を向けているので顔を見ることはできない。しかし、その背中を見れば彼が人外の存在であると誰もが気付くだろう。

 彼の背にあったのは、漆黒のタキシードを突き破って生え出る四枚の透明な羽。薄く脈の走った楕円形のそれは、まさしく昆虫の持つ前後翅だった。

 しかし、イサスンの視線が向いているのはその男ではない。男の前の祭壇に横たえられた青年の姿だ。見慣れたその顔を認めてイサスンは、普段は決して見せないほどの憤怒を露わにした。生き血も凍る殺気を放ちながら、怒り狂う獣のように吠え叫ぶ。

「てめぇ、よくもクァトルを!」

 神殿の冷気を震わせる叫びを自ら追うように、イサスンは全速力で駆け出した。一瞬で最高速度まで達したイサスンは目を血走らせ、その右手には仇敵の首を刈り取らんとする二振りの刃。巻き起こる烈風さえも届かぬ猛速度で、イサスンは男へ斬りかかった。

 もはや双剣の軌跡さえ視覚不能な疾風迅雷の一閃。その瞬間、チェロの音色が止まり、代わりに剣戟の音が鳴り響いた。

 イサスンの全力を載せた打ち下ろしを受け止めたのは、ついさっきまで弦を弾き奏でていたチェロの弓だ。男はイサスンに斬られる直前に振り向き、刹那の間に弓で防御したらしい。

 そのあまりの早業に驚愕するイサスン。しかし剣士の本能は攻撃を緩めず、そのまま剣を押し込もうと力を込めた。二人の強大な力が拮抗し、空気が張り詰めるような膠着が空間を満たしてゆく。

 歯を食いしばって両手で刃を押し込むイサスンに対し、タキシードの男は左手でチェロを支えたまま片手で弓を握っていた。東洋系のその顔には焦燥の欠片も浮かばず、眼鏡の奥から不敵な眼光がイサスンを見つめる。

「なるほど、貴様がこいつの言ってた二枚刃の断頭台<Aルか。のこのこ助けに来るとは、好都合アルね」

 平然と言い放った男の様子に、イサスンは自分の不利を悟った。おそらく、この男との力比べは不毛だ。押し負けるのは必至。

 イサスンの腕が一瞬たわみ、男の持つ弓を弾くようにして両刀を旋回させる。突然解放されて肩すかしを喰らった弓に、一回転した双剣が下から急襲、全力の一撃で打ち上げた。

 相手の力を巧みに流したイサスンの剣撃に、チェロ弾きの体が僅かにバランスを崩す。その一瞬を見逃さず、イサスンは切っ先で牽制しながら脇を駆け抜けた。

 イサスンの狙いは敵の撃破ではなく、その背後の祭壇に横たわるクァトルの救出だ。二段飛ばしで階段を駆け上がり、瞬く間に最上段へ辿り着く。すぐ目の前には底無しの大穴、立ち昇る煙は殺戮の吸血虫だ。

 しかしイサスンはそんな危険も顧みず、クァトルの体へ手を伸ばした。あと少し、そう思ったところで、

「まったく、随分とナメた真似をしてくれるアルね。この私の力、とくと思い知るがいいアル!」

 チェロの演奏が再び始まった。そして、その旋律に導かれるようにして、蚊舞雲の群れが一筋だけ枝分かれしてイサスンへ襲い掛かる。避けられるだけの間合いは無かった。

 イサスンがクァトルの襟を掴み、強く引き上げながら飛び退る。それと同時に蚊舞雲の鋭い吸血針が、イサスンの足に無数の裂傷を刻み込んだ。

 今の攻撃を全身に喰らっていれば、間違いなく致命傷だっただろう。そうならなかったのは、素早く飛び上がったイサスンの瞬間的判断のためだ。

 高く飛び上がったイサスンの体は大きく放物線を描き、タキシード男の頭上を飛び越えた。追撃をかけてくる蚊舞雲には、右手に持った双剣でことごとく鋏み斬りを浴びせる。そして衝撃を殺しながら着地し、未だ意識の戻らないクァトルを胸に抱いた。

 クァトルの全身には針で刺された跡が残り、皮膚は血の気を失って青白く変色している。蚊舞雲の吸血により、重度の貧血を起こしているようだ。

 いつの間にか音楽は止み、それに伴って蚊舞雲の追撃も止まる。不意に訪れた静寂の中、クァトルはイサスンの胸板に金髪を埋ずめながら、弱々しく瞼を持ち上げた。

「イサスン……どうやら、また君に助けられたみたいだね」

「ああ、ことのついでにな。立てるか?」

 満身創痍のクァトルは覚束ない足取りで立ち上がり、弱々しい微笑みをイサスンに向けた。

「ああ、平気だよ。少し血を吸われただけさ」

「そうかよ。だが、その様子じゃ足手まといだ。外で待っていろ」

 足元の覚束ないクァトルを扉の外へ送り出し、イサスンは再びチェロの男に向き直った。猛獣が獲物を狩る時の鋭い視線を向けながら、殺意を露わにして言い放つ。

「これからお前を駆除≠キる。だがその前に、お前は一体何者だ? まさか、そのナリで人間だとは言わねえよな」

 厳然と剣を構えて臨戦態勢を取るイサスンに、チェロの男は余裕の態度を崩すことなく応じた。

「なかなか良い質問アルね。私の名は妖蠅魔=A無数の羽虫たちの怨念が生み出した魔王であるアル。全ての羽虫を統べる覇王たる私にかかれば、こんな結界程度は紙に等しいアル」

「結界だと? どういうことだ?」

 聞き慣れない単語に訝しげな顔をしたイサスンを嘲るように、妖蠅魔の口元が歪む。

「ふうむ、貴様は何も知らないのアルね。まったく、人類の浅はかさには頭が下がるアル。我ら羽虫の受けた屈辱、とくと聞くが良いアルよ」

 妖蠅魔はノスタルジックな表情で、チェロを弾きながら語り始めた。

「四千年も前の話アル。我ら羽虫と貴様ら人間は、世界の覇権を手に入れるために命をかけて戦ったアル。そして、両軍に多くの犠牲者を出した末に、勝利したのは人間だったアル。我らが将たる女王は地下空間に追いやられ封蚊の(とばり)≠ニいう秘術を用いて封じ込められたアル。そして、地上から駆逐された羽虫たちの嘆き、怒り、憎しみ、それが数千年を経て、この私を生み出したアル。だから今!」

 弾き語りを終えた妖蠅魔の弓が、イサスンに向けられる。

「今度こそ貴様ら人間を滅ぼすアル! 邪魔をするなら容赦しないアルよ」

 その叫びに呼応して、妖蠅魔の背後から立ち昇る蚊舞雲の群れ。混沌としたその流れを制御するべく、チェロの音色が狂おしく響き渡る。

 まずは先鋒、まっすぐに空を切り裂く蚊の一団が、剣を構えるイサスンへと襲い掛かる。妖蠅魔の統制を得て動き出した蚊舞雲は、先ほどとは段違いのスピードだ。

 切り結ぶ一瞬を脳裏に浮かべながら相対するイサスン。その腕が剣を振るおうとした刹那、襲撃者は急激に進行方向を変えた。イサスンを取り巻くように回り込んだ蚊舞雲が、背後から襲い掛かる。

 一度は振ろうとした双剣を無理矢理に押し止どめ、音を頼りに横転回避。起き上がりざまに周囲を確認すると同時に、イサスンの戦闘本能が違和感に気付いた。

 ――追撃が、来ないだと?

 その不自然な詰めの甘さが、死角からの攻撃だとイサスンに悟らせた。油断なく見上げた頭上からは、稲妻のごとく迫りくる蚊舞雲。イサスンは攻撃を躱しつつ態勢を立て直すために、後方へ飛び退った。

 眼前の床へと降り注いだ黒い雷は、流動して四方へと広がってゆく。地を這うようにイサスンへと迫りくる漆黒の余波。その激流の中にあっても双剣は高く鳴り続け、蚊舞雲を切り払ってゆく。

 余波を乗り切ったイサスンが捉えたのは、左右から迫る蚊舞雲。

 ――挟撃!

 完全にこちらの隙を突いた、的確な戦略だった。イサスンの剣技では左右両方への迎撃は出来ない。常識で考えれば、諦める他は無い状況だった。

 しかし、イサスンには負ける気など無い。イサスンの双眸は、既に挟撃の軌道を捉えていた。右からは上段、左は下段。狙うべきは、蚊舞雲同士が立体交差する瞬間だ。

 左へ向けて双剣を構えながら、タイミングを窺う。蚊舞雲がだんだんと左右から迫ってくる。まだ早い。左右からの羽音がすぐ近く聞こえる。まだ早い。空気の振動が肌へ伝わる――今だ!

 左右から襲い掛かる二条の漆黒をギリギリまで引き付けて、イサスンは突然に姿勢を低くした。這いつくばるような体勢のまま、左へ剣を振るう。

 左からの攻撃は斬り刻まれ、右からの攻撃は頭上を抜けてゆく。まさに芸術的な、刹那の交差を狙った紙一重のかわし方だった。しかし逆に言えば、そんなギリギリの回避しか出来ないほどの苦しい戦いを強いられているということでもある。

 なにしろ、妖蠅魔の指揮が厄介だ。本来は野性的な攻撃しか出来ない蚊舞雲が、統率された軍隊となって襲い掛かるのだから。先ほどの挟撃にしても、回避しようも無い状態へイサスンを追い込む波状攻撃だった。

「どうしたアルか? 威勢の良いことを言っておいて、随分と苦しそうアルね」

 チェロの演奏が終わると共に、蚊舞雲の攻撃が止んだ。二人の距離は十数メートル、お互いが射程圏外だ。

 妖蠅魔は余裕の表情を崩さない。祭壇の前から一歩も動かずに、チェロを弾き続けているだけだ。端的に見れば、明らかにイサスンが劣勢だった。

 しかし、そのイサスンも苦しげな様子は見せず、不敵な笑みを浮かべている。まるで、何か秘策があるとでも言うように。

「お前が余裕のつもりで攻撃を休めているのなら、とんだ勘違いだ。すぐに後悔するぞ、全力で俺と戦わなかったことをな」

 イサスンの左手が背中の鞘を掴み、隠されていた機構を作動させる。鞘の側面が開き、飛び出すように現れた二本の短刀。その柄を空中で掴み取り、鞘を背負うための肩紐を切り捨てた。神殿の床に鞘が落下する軽い音が、寂寞とした空間に反響する。

 右手には二本の太刀、左手には二本の短刀。雌雄四刀を箸のように軽々と構え持つその姿は、鬼気迫る異形の様相だった。

「安心しろよ。お前の首を刎ねる断頭台は四枚刃だ、楽に死ねるぜ」

 その言葉だけを残して、イサスンの姿が残影となる。初速で最高速度まで達する、不可視の疾走。彼の軌跡を示す唯一の証拠たる床の破砕が、左右に蛇行しながら妖蠅魔へ迫る。

 鞘を外して身軽になったイサスンの速度は、先ほどとは段違いに上がっていた。

 常人ならば、いつどこから斬られたかも知りえない死の瞬閃。しかし妖蠅魔は人ならざる者であり、その軌跡を微かに知覚していた。

「剣を何本持っても、結果は同じアル!」

 虚空に振るわれたチェロの弓が、存在しないはずの影を捉える。

 鳴り響く剣戟の響き。横合いから斬りかかったイサスンの短刀を、妖蠅魔の弓が受け止めていた。

 しかし、イサスンの剣技は単なる斬撃ではない。二本の刀身による挟み込みがその極意だ。

 手首の返しで二本の短刀が弓を捻り上げ、妖蠅魔の上体が横へ傾いだ。そこへ、イサスンが振りかぶった右手の太刀が襲い掛かる。妖蠅魔はとっさにチェロを掲げ、その攻撃を受け止めた。

 お互いに両手の得物を出し切った、一瞬にも満たない膠着。しかし、純粋な腕力で言えば妖蠅魔のほうが上だ。

 妖蠅魔の弓に押し負けしたイサスンが、後方へ吹き飛ばされる。いや、自ら後方へ飛んで衝撃を軽減したのだ。

 イサスンの間合いから抜けたのを好機と見て、妖蠅魔が再びチェロの演奏を始める。奏でられるのは、肌を刺すように鋭い断続的な旋律。その音色を体現するかのごとく、蚊舞雲が数多(あまた)の砲弾となってイサスンへ発射される。

 しかしイサスンは、無作為に飛来する大小無数の黒球を全て見切っていた。見えるのならば、全て斬り落とすまで――それを可能にするだけの手数が、今のイサスンにはあった。

 猛烈な勢いで繰り出される四本の刀が、襲い来る蚊舞雲を的確に迎撃してゆく。避けることさえしない、動体視力と腕力で全てを斬り捨てているのだ。

 しかし、妖蠅魔も攻撃の手を休めはしない。弦楽の旋律は最高潮に達し、次に来たる音色の爆発を予感させていた。

 黒い暴風の中でも悠然と剣を振り続けるイサスンが、何かの気配を感じて不意に頭上を見上げる。その先に見えたのは、夜空が落ちてくるような蚊舞雲の大群。急降下による攻撃範囲は周囲全て、回避は不可能。

 絶体絶命としか思えない状況――しかし、イサスンは楽しげに笑みを浮かべた。そこで彼が迷わずに選んだ行動は迎撃だった。

 接触のタイミングをずらすために、蚊舞雲へ向かって跳躍。捻りを加えて黒い旋風と化したイサスンが、迫りくる黒雲へと飛び込んだ。

 翼のごとく広げられた両手の刃が猛烈に回転しながら、蚊舞雲を切り裂いて突き進んでゆく。耳を覆いたくなるほどの壮絶な金属音と、それすらも上回る獣の咆哮。

「ううぅるぁぁあああ!」

 一瞬の後、イサスンは蚊舞雲の大群を貫いて反対側から飛び出した。それでも勢いは衰えず、逆さまに天井へ着地。膝のバネで衝撃を受け止め、さらなる跳躍へとエネルギーを昇華させる。

 空対地の突撃が一直線に狙うは、祭壇の前に立つ妖蠅魔。一筋の弾丸と化したイサスンは、速度を載せた裂空の打ち下ろしを繰り出す。

 しかし、空中からの攻撃は直線的で読まれやすい。瞬時に軌道を見切った妖蠅魔は、素早く弓を掲げて双剣を受け止めた。圧倒的速度と膂力の衝突に、煌めき爆ぜる火花。

 その瞬間、イサスンは打ち合った一点を支えにして、振り子のように体を振った。力のバランスが変わり、突撃の破壊力が足先に宿る。

 斬撃よりも鋭く閃いた烈脚。吸い込まれるように妖蠅魔の脇腹へ突き刺さった蹴り足が、一瞬の間を置いて破壊力を解放する。

 体をくの字に折り、チェロを持ったまま吹き飛ぶ妖蠅魔。その背を打ち据えた祭壇の階段が、あまりの衝撃に大きく爆ぜる。神殿全体が揺れるほどの、鬼神のごとき一撃。

 それを受けてなお、妖蠅魔は死んでいなかった。それどころか骨折した様子も無く、背筋を使って悠々と立ち上がる。その顔から先ほどの笑みは消え、感情の消えた冷徹な表情のみが相貌を覆っていた。

 床に落ちて割れた眼鏡を見下ろし、無感動に踏み砕く。淡々としたその態度が、内に秘めた憤怒の度合いを物語っていた。

「よくも、ここまで私を愚弄してくれたアルね……。許さんアル……。絶対に許さんアルよ、人間ども! 羽虫四千年の歴史を以て、ジワジワとなぶり殺しにしてやるアル!」

 叫びと共に床へチェロを突き立て、妖蠅魔は弓で弦を掻きむしるように演奏を始めた。高低大小、激しく変動する音色は暴風のようにさえ感じる。

 いや、感じるだけではない。その演奏は現に暴風を生んでいた。立ち昇る蚊舞雲の群れが螺旋を描き、徐々に回転速度を上げてゆく。

 その様は、まさしく荒ぶる竜巻そのものだった。凄まじい回転力が風を生み、部屋全体を席捲する。

 ジャケットの裾が暴れるほどの強風に、イサスンは息を飲んだ。

「これは、本当に蚊舞雲なのか……」

 剣を構えることさえ忘れて、愕然と呟くイサスン。知勇仁隊の一員として幾度と無く死線を越えてきたイサスンだったが、これほどまでに威圧感を持った蚊舞雲を見たのは初めてだった。

「驚いたアルか? これこそ私が編み出した奥義カバシラー<Aル。蚊舞雲自らが旋風を起こし、その風に乗ることでさらに速度を増す、究極必殺技アルよ」

 カバシラーは轟々と唸りながら、イサスンを飲み込もうと前進する。しかし、そのスピードはイサスンからすれば決して速くはない。突撃するようにフェイント、瞬時に向きを変えて回り込む。

 そして、その先に見えたのは戦慄の光景だった。妖蠅魔の指揮によって、途切れ無く生まれ出る第二第三のカバシラー。圧倒的破壊を生み出すその災害≠ェ、行く手を阻むように迫ってくる。

 妖蠅魔へ辿り着くための突破口を失ったイサスンには、既に退路も残されていない。ここで退いたとしても、先ほどのカバシラーに飲み込まれるだけだ。ならば、残された道は一つ。

 イサスンは両手の四刀を前面に構え、渦巻く蚊舞雲の壁へと走り出した。荒れ狂う強風にバランスを崩されながらも突き進み、カバシラーに刃を突き立てる。

 蚊舞雲の激流に竿差し、必死に剣を振るうイサスン。眼前を飛び交う蚊舞雲を確実に撃破しているものの、あまりにも数が多すぎた。蚊舞雲の猛攻に押し込まれ、吸血針が全身に裂傷を刻む。

 そして遂にイサスンの体は豪風に巻き上げられ、螺旋を描きながら天井へ叩き付けられた。背中から走る衝撃が肺を圧迫し、苦しげな呼気が漏れる。気道が開いていたために失神は免れたものの、全身を打ちつけたダメージは大きいだろう。

 ふらつく挙動でかろうじて天井を蹴り、斜めに飛んで暴風域を逃れる。着地した後は入口付近まで必死に走り、糸が切れたように膝を突いて項垂れた。さっきの衝撃で脳震盪を起こし、激しい目眩で立居さえままならないのだ。

 そうしている間にも、カバシラーは成長しながら進み続ける。このまま行けば、運動能力の下がったイサスンがカバシラーに飲まれるのは時間の問題だった。

 イサスンの目にも絶望の色が浮かび始めたその時、凛々しい声が神殿内に響いた。

「待て、妖蠅魔! 僕が相手になってやる!」

 いつの間にかイサスンの背後に立っていたクァトル。未だに顔色は良くないが、しっかりと自分の足で立っている。

「馬鹿野郎、なぜ戻ってきた。俺一人で充分だ」

 呼吸を整えながら言い捨てるイサスンの前に、クァトルが歩み出る。まるで、自分がイサスンを守るとでも言いたげに。

 その後ろ姿が凄まじい決意を孕んでいるように、イサスンの目には映った。

「そんなボロボロの体で言っても説得力が無いよ。大丈夫、こんな僕でも突破口を開くぐらいは出来ると思うから」

 迫りくるカバシラーと相対し、悠然と両手を広げるクァトル。空気が張り詰めるようなオーラが部屋を満たし、クァトルの両手が淡く光り始める。

 その姿を見て、妖蠅魔は動揺しながら叫んだ。

「アイヤー! まさか、その構えは、古の英霊たちの魂を両手に宿して絶大な破壊力を宿すものの、反動の大きさ故に自らの体さえ壊しかねないという、我々を封印した呪術師の一族にのみ伝わる秘儀アルか!」

 クァトルの周囲に旋風が巻き起こり、戦闘力が膨れ上がってゆく。その覇気は神殿全体を震えさせ、カバシラーを圧倒して進行を食い止めた。

滅蚊(めっか)殉霊(じゅんれい)の儀大地無畳(アースノーマット)=I」

 膨大な力を纏った両手が打ち合わされ、凄まじい衝撃波が生み出された。瞬く間に部屋全体を席捲する、同心球状の波動。その聖なる力によって、カバシラーを構成する蚊舞雲がことごとく墜ちてゆく。

 全ての蚊舞雲が墜ちたのを見届けて、クァトルは力無く口を開いた。

「後は頼んだよ、イサスン……」

 そして、クァトルは意識を失い、ゆっくりと倒れた。一瞬だけその背中を見て、イサスンが駆け出す。

「ぅううぉおおおお!」

 人間離れした回復力により、運動能力は充分に回復していた。蚊舞雲の死骸を踏み潰しながら、瞬く間に妖蠅魔へ迫ってゆく。

 自らを守る防壁を全て失い、動揺する妖蠅魔。弓を構えて迎撃態勢を取り、イサスンを迎え撃つ。切り結ぶ瞬間の判断が全てを分ける、必殺の一瞬。

 四本の刀を上段に構え、袈裟懸けに振り下ろすイサスン。斬撃が交差するその攻撃を好機と見て、妖蠅魔は弓を上段に掲げた。全ての剣を一点で防御しようという考えだ。

 まずは左手の短刀、二つの刃と弓が激しく打ち合う。ほとんど同時に右手の太刀、しかしその軌道は妖蠅魔の予想を逸していた。弓と打ち合った短刀の峰を滑るように、二太刀が素早く引き戻される。

 腰だめに構えられた双剣は刺突の構え。上段の攻撃は防御を上げさせるための布石だったことに気付き、妖蠅魔が即座に短刀を打ち払う。

 刺突を打ち落とすために弓を振るった妖蠅魔の行動は、自らへの攻撃を避けるという意味では充分に速かっただろう。しかし、イサスンの狙いは妖蠅魔の体よりも手前にあった。

 二つの太刀が打ち合わされ、断ち切られたのはチェロの弦だった。この一撃で仕留めるのは困難と判断し、相手の攻撃手段を奪ったのだ。最大の脅威たるカバシラーも、チェロによる指揮が無ければ作れまい。

 イサスンの意図を瞬時に理解した妖蠅魔は歯噛みしながら、使えなくなったチェロを彼に向かって蹴り上げた。意表を突かれたイサスンは驚きながらも、素早くバック転で後方退避。

 不用意に間合い内で回避すれば、死角となったチェロの陰から攻撃を受ける可能性が高い。

 完全に間合いから出て戦況を初期化、相手の様子を冷静に窺う。妖蠅魔が追撃をかけてくる様子は無かった。

 イサスンは左手の短刀二口をやや上段で開き、右手は手の平を上にして太刀を相手に向ける。四刀を操るイサスンに特有の、防御と攻撃を両立させた構えだ。

 対する妖蠅魔は刺突剣のように弓を構えながら、徐々に間合いを詰めてくる。二人の間に漂う、一触即発の鋭利な空気。お互い大きく動くことは出来ないが、衝突までのカウントダウンは確実に刻まれている。

 先に動いたのは妖蠅魔だった。間合いの一歩手前から床を蹴り、一足飛びで加速。弓を突きだして鋭い突きを放つ。

 相手の構えから攻撃の大方を読んでいたイサスンは、左手の短刀で刺突を迎撃。心臓を狙った一突きを、横合いから二刀で挟み込む。

 しかし、イサスンの短刀は虚空を挟み斬るのみだった。もとよりフェイントのつもりだったのだろう、妖蠅魔の弓は即座に引き戻され、手首の捻りで下からの斬り上げに転じる。

 そこへ迎え撃つは、中段に構えていたイサスンの太刀。力負けを防ぐために左手も添え、一気に振り下ろす。妖蠅魔の人外の筋力を持って振るわれた弓を、イサスン渾身の一撃が受け止める。

 しかし力比べには持ち込まず、イサスンは予備動作無しで左手の短刀を突き出した。顔面を狙った必殺の水平切り。さすがに喰らうことは出来ないため、妖蠅魔は上体を軽く反らして避けた。

 さらにイサスンは左手を振りぬいた勢いで烈風のごとく旋回、右足を軸として後ろ回し蹴りを放つ。体勢の都合で弓による回避は間に合わず、額を掠められた妖蝿魔はたたらを踏んで後ろに下がった。

 その瞬間こそ、イサスンにとっては最大の好機。かわされた左足を後ろに引き、反動で上体を前に突き出す。体を回した勢いも全て右手に載せ、迅雷のごとき刺突を繰り出す。全ての条件が揃った、必殺の瞬間だ。

 しかし、望む手ごたえは無かった。イサスンの目には妖蠅魔が突然消えたようにしか見えず、なぜ自分の攻撃が空を斬ったのかさえ分からない。

 不意に聞こえ始めた羽音を頼りに、イサスンは頭上を見上げた。そこにいたのは、背中の羽を羽ばたかせて宙に浮かぶ妖蠅魔。

「まさか、この羽は飾りだとでも思ったアルか? 奥の手は取っておくものアルよ」

 嘲るように言った妖蠅魔が、急降下からの打ち下ろしを叩き込む。掲げた短刀でなんとか防ぐものの、反撃をする間も無く妖蠅魔は飛び退ってしまった。

 続いて妖蠅魔は鋭く旋回し、イサスンの上空を通りざまに撫で斬りを放つ。イサスンは短刀で軌道を逸らしつつ太刀を突き出したが、妖蠅魔の急上昇でかわされた。

 さらに妖蠅魔は逆立ちの姿勢になり、真上から烈突。飛燕のごとく次々と繰り出される攻撃に、イサスンの精緻な防御が崩れ始める。

「くそ、ラチが開かないな……」

 羽を活かした妖蠅魔の攻撃は、空中をも領域とした三次元的な一撃離脱。こちらからの攻撃は極めて困難な上、防御にも神経を使う。

 さらに、精密な空中制御によって絶え間なく繰り出される連撃は、確実にイサスンの体力を削っていた。

 超人的とはいえ人間であるイサスンに対し、妖蠅魔の運動能力は謎が多い。どれほどの体力が秘められているのかも不明で、このまま持久戦に持ち込むのは危険だろう。

 かといって空中戦を行なうのは自殺行為に等しい。いくらイサスンの跳躍力が人並み外れていようと、相手は自在に宙を舞えるのだ。

 結局のところ、打開策は無かった。現状のイサスンは四方八方から注がれる攻撃を捌きながらも、反撃の隙を見出せずにいる。

 斜め前方からの刺突を半身で回避。誘い込んで短刀を突き上げる。しかし相手の突きはフェイント、直前で停止して縦回転の斬り上げへと変化。短刀では間に合わず、右手の太刀で迎撃。しかし妖蠅魔は剣を弾くように飛翔。縦回転をしながらイサスンの頭上を越え、後頭部を狙って振り下ろす。イサスンは死角からの攻撃を読んで地を這うような低姿勢で回避。頭上を走る剣風に赤髪をなびかせながら、振り返りざまに短刀の刺突。ところが妖蠅魔は水平状態で体勢を制御、攻撃をかわしつつ体を旋回。繰り出されたのは鉄槌のごとき胴回し蹴り、その踵がイサスンの側頭を掠める。脳への衝撃で意識が揺らいだ数瞬を縫って、妖蠅魔の弓が腹腔を狙う。それをイサスンは反射神経のみで回避、しかし刺突が脇腹を浅く抉った。

 背後に飛び散る肉片、左手から零れ落ちる短刀、直後に走る激痛。意識さえ危ういイサスンは短刀を拾うことを諦め、床を転がって退避した。神殿の壁までなんとか辿り着き、背を預けるようにして立ち上がる。

 この戦闘の中で初めて負った重傷。内蔵には達していないようだが、痛みによる運動能力の低下は戦闘を大きく左右するだろう。さらに、左手の武器も手放してしまった。

 これまでの戦いでも互角か劣勢だったのに、今のイサスンでは苦戦を強いられることは必至だ。

 しかしイサスンの瞳から闘志は消えない。いくら蚊舞雲への恨みが深いとはいえ、守る者がいなければ諦めていたかもしれない。

 視界の端に映る、倒れ伏したクァトル。彼の残した言葉が、イサスンの頭に蘇る。後は頼んだ≠ニ、クァトルはそう言った。

 その時のクァトルを思い出しながら、イサスンは自分の心境が変化していることを客観的に理解した。「ああ、俺はアイツを守りたくて戦っているのか」と。

「任せろよ、必ず勝って、お前を助けてやるから……」

 遠くで倒れているクァトルに返事を返しながら、イサスンは決意を固めた。おもむろに構えた太刀を妖蠅魔へ向け、凄絶な笑みを浮かべる。

 その時、突然、天井の大穴から厳然な声が響いた。

「その意気や良し! 真の知勇仁を持ちし少年よ、力を貸そうぞ!」

 声と共に、神々しい光が降り注ぐ。それに伴い、どこからともなく聞こえ出す聖歌の合唱。まばゆい金色の光を纏いながら、声の主が天井から姿を見せた。

 現れたのは、黄金の体を持つ巨大な鶏。金の翼で悠然と羽ばたきながら、神殿の中へと舞い降りる。その姿を見た妖蠅魔は驚愕に慄き、ひどく動揺しながら叫んだ。

「アイヤー! まさか、その姿は、勇気ある人間の心に呼応して世に舞い降り、人類に仇する羽虫を圧倒的な力で撃退するといわれ、夢不来(ムシコナーズ)神話において正義を司るとされる殺虫神キンチョー<Aルか!」

 半ば絶叫に近い妖蠅魔の叫びに、殺虫神は「いかにも」と肯定した。そして厳かな動きでイサスンの前に立ち、声高らかに名乗りを上げる。

「我が助けるは心強き者。人々を守るために戦わんとする者が現れし時、我は聖なる力によって疫鬼を滅ぼす」

「心強き者……」

 不思議そうに呟くイサスンに、殺虫神が深く頷く。

「そうだとも。お主が友を守らんとする決意によって、我は呼び出されたのだ」

 そして妖蠅魔へ向き直り、厳しい口調で言い放った。

「妖蠅魔よ、我は人類の味方なり。悪いが、お主には滅びてもらおう!」

「ふざけるでないアルよーーー!」

 殺虫神が放つ圧倒的なオーラに耐えかね、妖蠅魔は半狂乱で襲い掛かった。弓を振りかぶり、空中からの急襲。しかし殺虫神は悠然と、妖蠅魔へ向けて口を開いた。

「我に盾つく愚かさを知れ! 聖風噴霧(キンチョール)=I」

 殺虫神の口ばしから白く輝く風が吹き出し、妖蠅魔の体を包み込む。猛烈な勢いで吹きすさぶ神風に、妖蠅魔は易々と吹き飛ばされた。

 壁に叩き付けられながらも辛うじて体勢を整える妖蠅魔へ向けて、殺虫神が最後の宣告を無慈悲に与える。

「これで終わりだ、羽虫の王よ。聖火神鳥閃光(かとりせんこう)=I」

 高らかな宣言と共に、殺虫神の口腔に炎が宿る。その炎が放つ聖なる輝きは、自然界ではありえない翡翠色。全てを焼き尽くす無為の炎ではなく、悪のみを滅ぼす神の炎だ。

 殺虫神の口から轟と放たれた神火が、長く尾を引きながら螺旋を描いて飛翔する。

「く、こんなものでやられちゃ堪まらんアル!」

 縦横無尽に空を駆け、炎を避けようとする妖蠅魔。しかし神火は自在に方向を変え、どこまでも妖蠅魔を追いかける。

 必死に逃げ回る妖蠅魔に、イサスンが叫んだ。

「往生際が悪いぞ、妖蠅魔!」

 イサスンは床に転がっていた短刀を取り上げ、妖蠅魔めがけて投げつけた。激しく回転する短刀が眼前を通り過ぎ、妖蠅魔の動きが停滞する。

 その瞬間、翡翠の炎がたちまち妖蠅魔の身を覆った。背中の羽を焼き尽くされ、灼熱に悶え苦しみながら墜落する妖蠅魔。

「今だ、少年よ! その手で世界を守るのだ!」

 その言葉を聞くまでも無く、太刀を片手に走り出すイサスン。傷口の痛みも忘れて、一心不乱に疾走する。

「や、やめるアル!」

 すでに弓は手元に無く、無防備な妖蠅魔。その眼前で、イサスンの持つ二刀が大きく口を開いた。二つの刀が、標的の首を刈り取る長大な鋏となる。

「こんにゃろうめぇええ!」

 天を割るほどの怒号と共に、イサスンが二刀を突き出す。たった一度の金属音を上げて打ち合わされた刃が、一瞬で妖蠅魔の首を刎ねた。

 宙を舞った妖蠅魔の首は悔しげな顔をした後、無数の羽虫の死骸となって床に落ちた。首を切り離された体も、同様に羽虫へと変わって崩れ落ちる。

「終わったのか……」

 妖蠅魔の最後を見て、イサスンは小さく呟く。剣を持っているのすら煩わしいと言わんばかりに、双剣をガシャリと床に落とした。

 辺りを見れば、いつの間にか殺虫神の姿が消えている。それよりも、部屋の片隅で倒れているクァトルが目に止まった。

 脇腹の痛みをこらえて、クァトルの元へ歩み寄る。意識は無いようだが、寝息が聞こえたのでイサスンは安堵した。とりあえずは、彼を守りきることができたようだ。

 

「どうしたもんかな」

 未だ目覚めないクァトルの隣に座り、イサスンは呟いた。視線の先には祭壇の大穴、加えてそこから立ち昇る蚊舞雲の群れ。妖蠅魔を倒した後も蚊舞雲は止まらず、天井に開いた穴から次々と飛び立っていた。

「う、ううん……」

 隣にいたクァトルが小さく声を上げ、ゆっくりと瞼が開いた。イサスンは少しだけ微笑み、すぐに元の無表情に戻る。

「やっと起きたか」

 イサスンに声をかけられ、クァトルが飛び起きる。

「そうだ、妖蠅魔は?」

 寝起きで状況が分からないまま慌てて尋ねるクァトルに、イサスンは「倒した」とだけ答えた。その端的すぎる物言いにクァトルは目を白黒させた後、「よかったー」と言って再び後ろに倒れる。

「良くもないんだよ、それが。あれ見ろ」

 面倒くさそうに祭壇を指さして、イサスンは舌打ちした。たとえ妖蠅魔を倒したところで、蚊舞雲が止まらなければ世界は変わらない。

 やっと状況を理解したクァトルは、困ったような顔をした。しかしその表情は方策が見当たらない顔ではなく、何かが引っかかっている顔のように見える。少なくとも、クァトルと長い付き合いのイサスンにはそう思えた。

「どうした、何か考えてるのか?」

「うん、ちょっと、記憶の底から何か見つかりそうなんだ。自分でもよく分かんない感覚だけど……」

 酷く曖昧に言葉を紡ぎながら、クァトルはしきりに首を傾げていた。まるで深淵を探るようなその顔付きに、イサスンは何となく話しかけづらくて黙っている。

 不意にクァトルが少し目を見開き、うつむき加減だった顔を上げた。

「そうだ、思い出した。きっとこれだ」

 確信を持てたらしく、迷いなく立ち上がったクァトル。使命感に駆られるかのように、確かな足取りで祭壇へと向かう。

 イサスンは横に並びながら、怪訝な顔でクァトルに尋ねた。

「整理が出来たんなら、俺にも話してくれるか?」

 クァトルは返事の代わりに小さく頷き、真剣な面持ちで語りだした。

「妖蠅魔の言った通り、僕は、かつて羽虫たちを封印した呪術師の一族だったんだ。元から知ってたわけじゃないけど、この血の中に魂が 受け継がれていたんだと思う。それをさっき思い出したんだ、封印の儀式のやり方も一緒に」

「なるほど、そういうわけか……。すごい偶然だな」

 イサスンの言葉にクァトルは首を横に振り、静かに言った。

「いや、きっと偶然なんかじゃないよ。世界を危機から救うために、僕は導かれたんだ。イサスン、君と一緒にね」

 クァトルが祭壇の前に立ち止まり、妖蠅魔は少し後ろに立った。轟々と立ち昇る蚊舞雲の濁流を見つめながら、クァトルはおもむろに両手を合わせる。イサスンが見守る中、クァトルは静かに呪文を唱え始めた。

「天に()します防虫神ゴンゴン≠諱B我はここに災厄を封じ、封蚊の帳≠以て結界を完成させんとす。無辜の民を災厄から守るため、汝の大いなる御力を貸したまえ」

 呪文を唱え終えたクァトルが両手を離すと、指先から白い光の糸が生まれ出た。始めは両手の間を結ぶだけだったその糸が、自ずと複雑に絡み合ってゆく。それは神聖な調和を持って網目を作り、次第にクァトルの手から遠くへ伸び始めた。

 巨大な網となった一筋の光は祭壇の上へと伸び、蚊舞雲の流れを包むように抑え込む。最後にクァトルが両手から糸を解き放ち、祭壇の大穴を塞ぐ封印が完成した。

「これで本当にお終いだね。だけど、この封印もまたいつか破られるのかな。妖蠅魔みたいなヤツが、また現れるのかな」

 不安げに眉をしかめたクァトルが、少し悔しそうに祭壇から背を向けた。その頼りなげな青の瞳を見つめながら、イサスンが言う。

「心配するな。その時には、また俺が叩っ斬ってやる」

「それなら今度こそ、君が勝つところを見せて貰おうかな」

 簡単に言ってのけたイサスンに、クァトルが無邪気な笑みを浮かべる。

「そうだな、今度はお前の力を借りないで倒して見せるさ。守ってやるよ、何度でもな」

 そしてイサスンは心の中で、もう二度と大切な家族≠死なせまいと誓った。

「なあ、クァトル」

 イサスンは少し言いづらさを感じながら、クァトルに呼びかけた。「何?」と答えたクァトルの純粋な目に見つめられると、余計に言葉が喉で詰まってしまう。

「いや、何でもない」

 結局その言葉は言えずに、イサスンは踵を返して出口へ向かった。慌ててその背を追って横に並んだクァトルを見て、イサスンは思う。

 後のことは後で考えればいい、と。

 どうにでもなるだろう、イサスンとクァトルは長い付き合いなのだから。それこそ、家族≠ニ呼んでもいいほどに。

 神殿の巨大な出入口をくぐり、二人は空を仰ぎ見た。鮮やかな緑の木々に丸く切り取られて、どこまでも透き通る蒼穹を。

 雲一つ無い青天に初夏の太陽が輝き、イサスンにとっては久しく見ない景色だった。

「しまった、剣を忘れた」

 あまりにも大きな空に、イサスンの小さな声が吸い込まれる。イサスンは気恥ずかしさから、小走りで神殿の中へ戻った。振り返ると、そこにあったのはクァトルの笑顔。

「まったく、僕を守ってくれるんでしょ?」

 子供のように微笑むクァトルの顔は、眩しい日差しを浴びて輝いていた。

 ――そう、俺が守りたかったのは、あの笑顔だ。

 静かな神殿の中に靴音を響かせながら、イサスンは思い出した。かつてイサスンの隣には、あんな笑顔を浮かべる少年がいた。

 もはや二度と取り戻せない、幼き頃の無垢な日々。しかし、今のイサスンには新しい家族がいる。守るべき相手がいる。

 心に描いたその笑顔を二度と失わないために、イサスンは剣を手に取った。

 

 

 


   素晴らしき後書きの世界

 

 どうぞ皆さんいらっしゃいませました、鬼童丸です。最近、冷蔵庫の扉に頭を挟まれる事故が多発しています。私だけ?

 

 今回は作品の都合上、土下座しながらの後書きとなりますことをご容赦ください。わーっ、踏まないで蹴らないで。

 まあ、作者に何があったんだという話ですが、これが私の真の作風なのです。中学校時代は、こんな感じのばっかり書いていました。私のモットー馬鹿らしいことを真面目ぶって書く≠素直に実践した結果です。

 

 ちなみに、今回は名前がいちいちネタになってるんですよ。気付いた人も多いとは思いますが。というわけで、名前の由来でページを埋めてみます。

○イサスン…一風変わった戦闘法ですが、これは剣豪の宮本武蔵が箸で蝿を取ったという逸話から。ちなみに、私は中学生になるまで蚊と蝿の違いを知りませんでした。

○クァトル…蚊を取るから蚊取る。おそらく、最も悩まずに決まった名前だと思います。

○妖蝿魔…これは結構問題あるような気が。あの有名なチェリストの名前に当て字しました。元ネタの方は決してチェロを蹴ったりしない紳士な音楽家です、ゴメンナサイ。ちなみに、中国人なので満州語。あと、入力ミスでなぜか一瞬だけ蘇ったりしてます。推敲で気付きましたが、面白かったので放置。

○知勇仁隊…なんか中二病っぽいので。もちろん当て字です。

○フラッパー&ベイプ…前者は蝿叩きを意味する英語です。もちろん、武器は巨大な蝿叩きで。後者は、ベープをいじっただけ。どんな戦い方をするんでしょうか。

 

 今作は、やけに戦闘が多めですよね。私はもともと戦闘描写が得意だったのですが、文芸に来てからは全く書いてないので、ちょっと書いてやろうかと。

 その結果、かなり筆がなまっていることが分かりました。ぬぅ、なんか戦闘がだれるし、ところどころ大味になってますな。

 しかし戦闘の相手が蚊だったり、片手で二刀を振ったりするので、かなり邪道な戦闘になっています。スタンダードな剣闘で描写力を鍛え直さないといけませんね。

 

 では、三点倒立にて後書きを終わせていただきます。


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